また、同じくキリシタン大名だった小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原の戦いで処刑された後に、唐津藩(からつはん)が領有していた肥後国天草(現在の天草諸島)においても、藩主の寺沢堅高(てらざわかたたか)による農民への圧政とキリシタンに対する弾圧が続いており、島原や天草のキリシタンや農民たちは、日々追いつめられていきました。
1637年、圧政にたえかねた島原と天草の農民や、キリシタンを含む牢人(ろうにん)たちが大規模な一揆を起こし、天草四郎(あまくさしろう、本名は益田時貞=ますだときさだ)を中心に、3万人を超える勢力が、島原の原城跡(はらじょうあと)に立てこもりました。世にいう「島原の乱」の始まりです。
これに対し、幕府は板倉重昌(いたくらしげまさ)を島原へ派遣しましたが上手くいかず、板倉は翌1638年の元日に総攻撃をかけた後に討死しました。幕府は老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)を新たに派遣して、12万以上の軍勢で、陸と海から原城を取り囲みました。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。
宗教と言うのは最初の創始者には偉大な力が
備わっていたのでしょうけれど、それを継承していく者に僅かでも私利私欲が加算されると、宗教そのものがただの看板でしか無くなりますね。
人間は完璧では無いが故に、完璧から次第に遠ざかってしまうのはなんとも残念な話です。
それと、武力では人の心は動かせないと言う事をまざまざと感じさせる史実ですね。
無理が通れば道理引っ込む。
相手を説得するのは膨大な時間と忍耐が
必要ですが、その労力を惜しむと人の恨みを買うことになりますね・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
島原の乱が起きた背景には、様々な事情がありますね。
さらに1633年には、従来の朱印状の他に、老中奉書(ろうじゅうほうしょ)という許可状を受けた、奉書船以外の日本商船の海外渡航を禁止し、1635年には、日本人の海外渡航や在外日本人の帰国を全面的に禁止しました。また、この間に中国船の寄港を長崎に限定したほか、長崎に出島(でじま)を築いてポルトガル人を移動させ、日本人との接触を制限しました。
ところで、島原藩(しまばらはん)が置かれていた肥前国島原(現在の長崎県島原市付近)は、かつてはキリシタン大名であった有馬晴信が領有しており、その関係もあって、領内には多数のキリシタンが存在していました。
しかし、有馬氏が日向国延岡(現在の宮崎県延岡市付近)に領地替えとなり、幕府直轄の天領を経て、松倉氏(まつくらし)が新たに藩主となりました。





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ぴーち こんばんは!
日本人が海外へ行くことを禁じるのはまだしも、
海外にいる日本人が帰国出来ないというのは
厳しいお触れでしたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 海外の日本人が帰国できなかったのは、滞在中にキリシタンに改宗して、帰国後に布教活動をする恐れがあったからとされています。ここまで用心しなければならないほど、幕府にとってキリシタンが手ごわい存在だったのでしょうね。
江戸幕府が貿易を厳しく統制した理由の第2は、貿易の利益を幕府が独占するためでした。なぜなら、貿易は必ずと言っていいほど儲(もう)かるからです。
外国から「輸入する」ということは、その商品が我が国では手に入らなかったり、手に入ったとしても非常に高価だったりするのが普通です。と言うことは、輸入によって仕入れた商品は、相手がどんなに高価でも手に入れようとしたり、あるいは安く大量に手に入れたりすることによっても、結果的に大儲けにつながるというわけです。もちろん「輸出」の場合も理論的には同じです。
当時の貿易は、幕府だけではなく西国の大名も行っていました。大名が「おいしい」貿易を行って、その利益で強大な経済力と軍事力を持つことによって、幕府に反逆するようになることを恐れたのです。





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ぴーち こんばんは!
確かに外国との取引というのは
今でも外資系企業などを含め、羽振りが良いみたいですが、儲ける事が出来るだけに
熾烈な争いも盛んな世界なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
現代のような平和的な競争社会ならともかく、他の大名よりも常に武力で上位に立たねばならない幕府のプレッシャーは相当なものであったことでしょう。
理由の第1は、キリスト教(=カトリック)の問題でした。幕府は始めのうちはカトリックを黙認していましたが、一神教であるキリスト教の性質から、仏教や儒教との対立が深刻化しており、キリシタンと呼ばれた信者たちが団結して、幕府に反抗する可能性もありました。
しかし、何よりも問題視されたのは、カトリックによる布教が、秀吉の時代から続いていた「我が国侵略の野望」と結びついていたことでした。
また、同じキリスト教でも、プロテスタントを信仰していたイギリスやオランダが、自国の貿易の利益を守るために、カトリックに潜む領土的野心を幕府に警告していたのも大きく影響しました。





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ぴーち こんばんは!
やっぱり、ここでも「宗教」絡みですね(^_^;)
宗教の教えそのものの違いもそうですが、
宗教を手玉に取り裏で糸引く大きな陰謀がまた
問題をこじらせる厄介な存在になりますよね。
結局、最終的には人間の「強欲」さが
揉め事の始まりの様ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに欲がからんでいますね。
カトリックは日本侵略の野望が、プロテスタントは貿易の利権が…。
当時の我が国の選択はどうだったでしょうか?
当時の貿易の主な輸入品は中国産の生糸でしたが、マカオを拠点とするポルトガル商人が、生糸を長崎に持ち込んで巨利を得ていました。この事態を重く見た幕府は、1604年に糸割符(いとわっぷ)制度を設けて、糸割符仲間と呼ばれた京都・堺・長崎・江戸・大坂の五ヵ所商人に一括して購入させることで、生糸の価格を抑制しました。
ちなみに輸出品は、石見(いわみ)銀山や生野(いくの)銀山などから、当時の我が国で豊富に産出していた銀が中心であり、当時の我が国の銀の輸出高は、世界の銀の産出高の3分の1にも及びました。
朱印船貿易が盛んになると、海外に移住する日本人も増加し、東南アジアの各地で、数百人から数千人の日本人が日本町(にほんまち)をつくりました。また日本人の中には、山田長政(やまだながまさ)のように、アユタヤ朝(現在のタイ)の王室に重く用いられ、後に六昆(りくこん、別名をリゴール)の太守にまで出世した者も現れました。





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ぴーち こんばんは!
恥ずかしながら、秀吉の時代に
それほどまでに日本人が海外へ進出して
居たことを初めて知りました。
どうしても、江戸時代の鎖国という文字のインパクトが大きすぎてか、想像すら出来ませんでした(ノ∀`)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
それだけ「鎖国」という言葉に閉鎖的なイメージが強いのだと思います。
家康はイスパニアとの交易にも積極的で、1609年に上総(かずさ、現在の千葉県の一部)に漂着したルソンの前総督ドン=ロドリゴを、翌1610年に船で送還する際に、京都の商人であった田中勝介(たなかしょうすけ)らを同行させ、イスパニア領ノヴィスパン(=メキシコ)との通商を求めました。
また、仙台藩主の伊達政宗(だてまさむね)は、1613年に家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をイスパニアに派遣して、ノヴィスパンで直接交易を開こうとしましたが、いずれも目的を果たすことはできませんでした。
なお、支倉常長の使節団は、当時の年号から慶長遣欧使節と呼ばれています。また、田中勝介は後に帰国を果たし、太平洋を横断した最初の日本人とされています。





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ぴーち こんばんは!
田中勝介ですか・・
お名前は初めて伺ったのですが、
これは歴史認識者の方々の間では当然
ご承知のことなのでしょうけれど、
私のような一般人の間では、
知らない方も多いのでは無いかと思うのですが
もしかして、私だけ知らなかったという事は
有るでしょうか(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながらあまり知られていないですね。
日本人の快挙をもっと教えるべきではないかと思いますが…。
そんな折の1600年、オランダ船のリーフデ号が豊後に漂着した際に、秀吉にかわって天下統一をめざしていた徳川家康(とくがわいえやす)は、リーフデ号の航海士であるオランダ人のヤン=ヨーステンと、イギリス人の水先案内人(=波や水深など湾や港特有の専門知識を持ち、出入りする船に乗り込んで安全に航行させる職種のこと)であるウィリアム=アダムスを江戸に招き、彼らを外交や貿易の顧問として、両国との貿易をめざしました。
つまり、江戸時代の初期において、家康は外国との貿易を積極的に行おうとしていたのです。ちなみにウィリアム=アダムスは日本名で三浦按針(みうらあんじん)、ヤン=ヨーステンは耶楊子(やようす)となり、ヤン=ヨーステンが家康から与えられていた屋敷の場所は、彼の名前から、現在の「八重洲(やえす)」と呼ばれるようになりました。
なお、イギリスとオランダはほぼ同時期に東インド会社を設立し、東アジアに進出して東洋での貿易に乗り出しました。また両国は、カトリックではなくプロテスタントであったことや、イギリス人やオランダ人が紅毛人(こうもうじん)と呼ばれていたという共通点がありました。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!八重洲にそんな語源があったとは
驚きました^^
家康はむしろ積極的に外国との交流を図ろうと
していたことがよく分かりました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 意外な歴史が存在するものですよね。
家康の考えがその後の我が国にどのような影響をもたらすのでしょうか…。
しかし、秀吉は権益もあって南蛮貿易そのものを禁止することはできず、結果として禁教政策は不徹底に終わり、カトリックはその後も広まっていきました。
ちなみに、秀吉はこの後1592年と1597年の2度にわたって朝鮮出兵を行いましたが、それらは決して朝鮮を侵略することが目的ではなく、イスパニアが中国の明を侵略しようとしたことに対し、先手を打つかたちで秀吉が自ら征服することを決意し、その道案内を拒否した朝鮮から攻め込んだという歴史的事実に関しては、これまでに私が何度か紹介したとおりです。
なお、1596年にイスパニアの商船が土佐(現在の高知県)に漂着した際に、乗組員が「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教師を送り込んでいる」ことを、世界地図を示して誇ったという出来事があり(これをサン=フェリペ号事件といいます)、激怒した秀吉が京都の宣教師と信徒を捕えて、長崎で処刑するという結果につながりました(これを「26聖人殉教」といいます)。





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ぴーち こんばんは!
何故か今でも韓国人は
日本人と見ると敵対心を露わにしますが
その根源を秀吉の朝鮮半島侵略から始まっているなどと実しやかに言う方がいる限り、韓国も情報に関しては
閉鎖された環境なのだとお察し申し上げますm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
情報の閉鎖は支配者にとっては有益でも、国民に何の利益も生み出しません。
うろつき 秀吉が、北京を制圧し、新たな王朝を築かなくて良かった❗❗❗
我々が、中国人にされるところでした。
満州が、実際にそうですから。
うろつきさんへ
黒田裕樹 結果的にはそうなりますね。
ヨーロッパによるアジアの侵略を防いだという一面はある一方で、複雑なものです。
いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に任せるという行為は、自身による天下統一をめざした秀吉にとっては有り得ないことであると同時に、イエズス会やその裏に存在した、イスパニアの領土的野心に嫌でも気づかされることになりました。
次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において、無数の神社や寺が焼かれていたという現実でした。これらは、カトリックの由来であるキリスト教が一神教であり、キリスト以外の神の存在を認めなかったことによって起きた悲劇でもありましたが、秀吉の目には、我が国の伝統や文化を破壊する許せない行動としか映りませんでした。
さらに秀吉を驚かせたのが、ポルトガルの商人が、多数の日本人を奴隷(どれい)として強制連行していた事実でした。支配地の有色人種を奴隷扱いするのは、白人にとっては当然の行為であっても、天下統一をめざすことによって、国民の生命や財産を守る義務があると自覚していた秀吉には、絶対に認められない行為でした。





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ぴーち こんばんは!
私はずっと秀吉がどうして後になって
朝鮮征伐などという外国へ挑戦状をふいに叩きつけたのかという理由がまるでわかりませんでしたが、今回のような事が伏線となっていた訳ですか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
詳しくは次回の更新で述べさせていただきます。
信長のあとをうけて天下統一事業に取り組んだ豊臣秀吉(とよとみひでよし)も、当初はカトリックの布教を認めていましたが、そんな彼が、やがてイスパニアによる「カトリックに潜む世界侵略の野望」に気づく日がやって来ました。
1587年、島津氏を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉を、カトリックのイエズス会の宣教師が、当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦を準備して出迎えました。その壮大さに驚いた秀吉は、イエズス会による布教活動には、我が国への侵略が秘められているのではないかとの疑念を持ち始めました。
そして、現地を視察した秀吉が、彼に待ち受けていた「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。





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ぴーち こんにちは!まさに、百聞は一見に如かずですね。
それにしても、カトリックの野望に気が付くとは・・さすがです。
織田様は、自らが野望に生きたような人物の様なので当たり前の様に感じていたのかしら・・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 織田様は、自らが野望に生きたような人物の様なので当たり前の様に感じていたのかしら・・(^_^;)
これは私の推論ですが、自分に敵する相手に対する容赦ない仕打ちを見せつけられたカトリック側が、信長の生存中は猫をかぶっていた可能性が高いと考えております。その後、秀吉に代わって「もう大丈夫だろう」と思っていたら、そんなことはなかったというところでしょうか。