また文化5(1808)年には、イギリスの軍艦フェートン号が、長崎湾内に侵入して乱暴を働くというフェートン号事件を起こしましたが、幕府はその対策として、外国船を問答無用で撃退する異国船打払令を文政8(1825)年に出すという、極端かつ場当たり的な対応しかできませんでした。
さらに、1840年にアヘン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、清がイギリスに敗れて香港を奪われると、その事実を知って慌(あわ)てた幕府は、天保13(1842)年に天保の薪水(しんすい)給与令を出しました。
これは、我が国を訪問した外国船に対して、食糧や燃料を与えて速やかに退去してもらうというものでしたが、確かにこの法令によって外国との無意味な衝突は避けられたものの、そんな小手先な手段よりも、我が国が自主的に開国すれば何の問題もないはずでした。
我が国と同じく厳しい制限貿易を行っていた清は、アヘン戦争でイギリスに敗れたことで無理やり開国させられたのみならず、不平等な条約を強引に結ばされるなど散々な目にあっていました。我が国が清と同じような運命とならないためにも、かつて田沼意次が目指したように、自主的に開国して積極的に外国と交易する必要があったはずなのです。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
人類が船や飛行機など作らなければ
わざわざ海を自力で泳いで渡ってまでも他国と交流しようとは
考えなかったかも知れませんが
文明の進歩と共に
それらが容易になってくると、やはり同じ地球上に住む同士と手を組んでお互いがお互いの領分を守りつつ、生きていかなければならなくなりますものね。
自国だけ他の国とは交流しない・という訳にも
行かなくなるのは当然だと思いますし、
いづれはそうせざるを得なくなるのを
分かって居たのなら、それを延命しなくても良かったのにと思いますね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
この後も幕府の判断ミスが続くのですが…。