家定には子がなく、体調も悪化していたため、薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)や越前藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)らの有力な大名は、混乱が続く幕府政治に対応できる賢明な将軍を擁立(ようりつ)すべきであると考え、前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)の実子で、御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の養子となった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、後の15代将軍・徳川慶喜)を推していました。
一方、井伊直弼などの譜代大名らは、将軍家定と血統が近いものの、まだ幼かった紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推していました。なお、慶喜を推す派を一橋派、慶福を推す派を南紀派といいます。
一橋派と南紀派とが対立を続けていたその折に、同じ譜代大名らの後押しを受けて大老に就任した直弼が、次期将軍候補として徳川慶福を独断で決定しました。なお、慶福は名を徳川家茂(とくがわいえもち)と改め、家定の死を受けて安政5(1858)年12月に13歳で14代将軍に就任しています。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
当時の大老と言う地位は、今で言うと
内閣総理大臣程の権限があったのでは無いかと
思うのですが、それでも次期征夷大将軍を独断で決めてしまうというのは
、征夷大将軍の方が位が上だけに
他にも事例があったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まず、老中は複数の合議制ですが、臨時職の大老は一人ですので、独断で物事を決めることができます。
次に、将軍と大老とでは、将軍の方が地位が上ですが、将軍が病気あるいは政治を部下に任せている場合は、大老が事実上の独裁者になります。これは、以前にも4代将軍家綱に対する大老酒井忠清という例がありました。