安政4(1857)年には久坂玄瑞(くさかげんずい)が松陰に弟子入りするなど、松陰のもとに来る若者が増えたため、杉家の敷地に新たに塾舎を開設し、叔父の玉木文之進がかつて主宰していた松下村塾の名を引き継ぎました。
松下村塾において、松陰は久坂玄瑞のほかに高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)、品川弥二郎(しながわやじろう)などを教育しました。また、松陰は塾生たちに一方的に教えるのではなく、弟子と一緒になって意見を交わしたりするなど、いわゆる「生きた学問」を重視するものでした。
しかし、松陰と塾生たちとの楽しい日々は長くは続きませんでした。安政5(1858)年に江戸幕府の大老である井伊直弼が、勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)を得ずに日米修好通商条約を結んだからです。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうそうたる面々が松下村塾には集まったのですね!
いえ
ここで学んだからこそ、その名を残す人物になれたと言い換えたほうが良いのかも知れませんが^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 おそらくは両方とも当てはまるのではないでしょうか。
松下村塾での学びの日はわずかでしたが、そのインパクトは大きかったですね。