そして翌嘉永7(1854)年、ペリーが日米和親条約を結ぶために再航した際に、伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ向かい、密航を訴えましたが、日本と条約を結んだばかりのペリーは松陰の願いを拒否しました。
夢破れた松陰は、潔く下田奉行所に自首しました。やがて長州へ護送された松陰は、安政2(1855)年に許されるまで投獄されました。以下は、江戸から長州へ護送される途中で、赤穂義士で有名な泉岳寺(せんがくじ)を通りがかった際に松陰が詠(よ)んだ和歌です。
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そういえば、今年の大河ドラマの花燃ゆを
最初の頃だけチラ見していたのですが、
吉田松陰役の伊勢谷さんがペリーの船に乗り込んで直談判しているシーンが有ったのを思い出しました^^
自らの欲する思いは大和魂が成せる事だと
ご本人は思っていたのでしょうかね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 おそらくは仰るとおりではなかったかと思われます。
ある意味、見習うべき点が多いのではないでしょうか。