特に橋本左内や吉田松陰らは若くして刑死するなど、安政の大獄によって攘夷派を中心とした多くの人材が失われるとともに、直弼による問答無用ともいうべき強権的な処置は、結果として多くの人間の恨みを買ってしまいました。
安政7年3月3日(西暦1860年3月24日)、春にしては珍しい大雪の日の朝に、江戸城近くの桜田門へと差し掛かった直弼の行列に対して、水戸藩を脱藩した大勢の浪士らが襲いかかり、直弼を暗殺しました。この事件を桜田門外の変といいます。
桜田門外の変によって、最高権力者である大老が江戸城外で襲われ、しかも殺されるという大失態を演じてしまった幕府の威信がますます低下するとともに、自分の意見と対立する人間への「血の粛清」が半ば常識化してしまいました。
事実、この後明治維新を経て政情が安定するまでに、武力による実力行使を伴った血なまぐさい事件が日本国中で続発することになるのです。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
直弼のやり口を伺っていると
今の北朝鮮の上層部の手口と似ているのでは
無いかと思ってしまいました(^_^;)
次々と幹部クラスの人間を処刑することで
恐怖を植え付け、自分の求心力を高めたいと
思っての事でしょうけれど、いづれあの国が
他国からの攻撃というよりも
自国の人間の手によって
滅ぼされるのでは無いかと
考えてしまいます。
話が逸れてしまい、申し訳ありませんm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、仰るお気持ちはよく分かります。
彼の国もやがては同じ運命をたどるのかもしれませんね。
しかし、直弼には直弼の言い分がありました。彼は開国という国家の存亡にかかわる重要な問題に対し、それまでの幕府の為政者たちが無責任に先送りしてきたツケを一気に払わされただけという立場でもあったのです(詳しくは後述します)。
加えて、条約反対派あるいは攘夷派が「外国人など我が国から追い出せばよい」と口先では威勢のいいことを言いながら、もし我が国が侵略されたらどうするのか、という問題に対しては口をつぐんで答えようともしないという有様も、直弼を苛立(いらだ)たせていました。
反対派や攘夷派の余りもの無責任さに怒りが爆発した直弼は、幕府大老という自分の立場を活用して、彼らに対する大粛清(だいしゅくせい)を行う決意を固めました。安政5(1858)年から6(1859)年にかけてのこれらの弾圧は、安政の大獄と呼ばれています。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そういうお話を伺うと
確かに直接的な原因は、直弼にあっても
間接的には他の人間も少なからず
原因になっている場合が有りますよね。
本人の性格による部分も多々有るでしょうが、
環境やそれまでの経緯によって
そうせざるを得ない状況に追い込まれてしまう
場合も有りますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
当人の能力だけではどうすることもできない歴史の流れが存在することがあるんですよね。
アロー戦争に敗北した清は、1858年に不平等な内容の天津(てんしん)条約を結ばされましたが、ハリスはこのことを口実に、幕府に対して以下のように通商条約を強く要求しました。
「清に勝ったイギリスやフランスが勢いに乗って日本を侵略する可能性が否定できないから、これを防ぐには日本と友好的なアメリカと通商条約を先に結んで、彼らに戦争の口実を与えないようにする以外に方法はない」。
ハリスの警告を受け、大老であった井伊直弼が、勅許を得ないままアメリカと通商条約を結ぶことを決断しましたが、このことが孝明天皇のお怒りを招くとともに、将軍の後継問題とからんで攘夷派の激しい反発を受けることになってしまったのです。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち おはようございます!
これはある種、巧みな催眠商法ですね・・(^_^;)
焦って物事を決めてしまうと
ろくな事にはなりませんものね・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですよね。
それだけに、当時の井伊直弼の苦衷がしのばれます。
当時の老中であった堀田正睦(ほったまさよし)はアメリカとの通商に理解を示しましたが、幕府の独断で通商条約を結べば、開国に反対して外国を排斥(はいせき)しようとする攘夷派(じょういは)の激しい反発を招く可能性があることを警戒しました。
そこで、堀田は条約の締結に際して天皇の許可、すなわち勅許(ちょっきょ)を得ることで世論を納得させようと考えました。封建社会において、それまでは独断で何事も強行してきた幕府でしたが、この頃には朝廷の顔色をうかがわなければならないまでに権威が低下していたのです。
しかし、堀田の狙いは裏目に出てしまいました。当時の孝明天皇(こうめいてんのう)をはじめとして朝廷には攘夷派の意見が強く、容易に勅許が下りなかったのです。自分で仕掛けた足枷(あしかせ)により行きづまった幕府に対して、ハリスは当時の世界を揺るがした大きな出来事を利用して、追い打ちをかけるかのように通商を迫りました。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
天皇はその時代、時代で
随分、良いように利用されて来たのですね。
しかし利用する側の理由次第で
裏目に出たり、成功したり・・。
天皇そのものの存在は不変であっても。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴代の為政者は天皇陛下を様々なかたちで「活用」してきました。
それが我が国の歴史の重みでもあるのですが、このときばかりは裏目に出てしまいましたね。
家定には子がなく、体調も悪化していたため、薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)や越前藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)らの有力な大名は、混乱が続く幕府政治に対応できる賢明な将軍を擁立(ようりつ)すべきであると考え、前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)の実子で、御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の養子となった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、後の15代将軍・徳川慶喜)を推していました。
一方、井伊直弼などの譜代大名らは、将軍家定と血統が近いものの、まだ幼かった紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推していました。なお、慶喜を推す派を一橋派、慶福を推す派を南紀派といいます。
一橋派と南紀派とが対立を続けていたその折に、同じ譜代大名らの後押しを受けて大老に就任した直弼が、次期将軍候補として徳川慶福を独断で決定しました。なお、慶福は名を徳川家茂(とくがわいえもち)と改め、家定の死を受けて安政5(1858)年12月に13歳で14代将軍に就任しています。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
当時の大老と言う地位は、今で言うと
内閣総理大臣程の権限があったのでは無いかと
思うのですが、それでも次期征夷大将軍を独断で決めてしまうというのは
、征夷大将軍の方が位が上だけに
他にも事例があったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まず、老中は複数の合議制ですが、臨時職の大老は一人ですので、独断で物事を決めることができます。
次に、将軍と大老とでは、将軍の方が地位が上ですが、将軍が病気あるいは政治を部下に任せている場合は、大老が事実上の独裁者になります。これは、以前にも4代将軍家綱に対する大老酒井忠清という例がありました。
自らを「花の咲くことのない埋もれ木」に例えた直弼は、「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた邸宅(ていたく)で世捨て人のような暮らしを続けていましたが、弘化(こうか)3(1846)年に、兄の14代藩主の井伊直亮(いいなおあき)の世継ぎであった、同じく兄にあたる井伊直元(いいなおもと)が亡くなったため、直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定しました。
そして、嘉永3(1850)年11月21日に藩主直亮が死亡すると、家督(かとく)を継いだ直弼は46歳で15代彦根藩主となりました。かつての世捨て人が藩主となるという大出世を遂げたわけですが、直弼の「サクセス・ストーリー」はこれからが本番でした。
かつての徳川四天王の一人であった井伊家の藩主として、その存在感を増し続けた直弼は、安政5(1858)年4月23日に大老に就任し、国内外それぞれの重要事項について最終的な決定を行うことになるのです。
※下記の映像は12月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私の知人なのですが、
ご本人は男ばかりの9人兄弟で
一番末っ子。
自分がまさか親の面倒を看るわけは無いと
思っていたそうですが、そのまさかが
的中してしまい、結局、親の面倒と後始末を
任されたそうなんです。
それがサクセス・ストーリーというかどうかは存じませんが、そんなどんでん返しが
有ることは確かですよね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、末っ子だからといって何が起きるか分からないのが世の中ですからね。
井伊直弼の今後はどうなるのでしょうか…。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽(く)ちぬとも 留(とど)め置かまし 大和魂」
「たとえ自分の身体は死んで朽ち果てようとも、国を思う私の心はずっと留まって生き続ける」。松陰が死の直前に書きあげた「留魂録(りゅうこんろく)」は、遺された塾生たちに送り届けられ、幕末から明治維新にかけての歴史の大きな流れを構築するようになったのです。
自らの生きる道を信じ、それゆえに自身の生命を縮める結果となった吉田松陰。その潔い生涯は、いまもなお私たちに大きな影響を与え続けていますが、その一方で、松陰を「殺した」井伊直弼はどのような生涯を送ったのでしょうか。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですね・
人間って、きっと自分の気持ちに正直に
生き抜こうとすると、命がいくつあっても
足りなくなるのかも知れません(^_^;)
皆多かれ少なかれ
自分の意向を曲げたり、時には相手に
合わせて折れたりする事で生命の
存続を図って生きているのでしょうね。
なかなか自分の意見を曲げずに貫き通す
勇気や気概というのは真似ることが出来ないのが
普通なので
松蔭の様な生き様に感動する人も
少なくないのかもしれません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も同じ思いです。
松陰の生き様に多くの人が共感したからこそ、その後の道が開けたのだと考えられます。
その意味では、彼の死は決して無駄ではなかったのかもしれませんが…。
翌安政6(1859)年、井伊直弼による安政の大獄において、梅田雲浜(うめだうんぴん)との関係による嫌疑(けんぎ)をかけられた松陰は江戸に送られると、尋問(じんもん)の際に老中暗殺計画の詳細を自供してしまいました。
なぜ松陰は暗殺計画を自ら幕府に語ったのでしょうか。松陰は常日頃から「至誠(しせい)にして動かざる者は、未だ之(こ)れ有らざるなり」、すなわち「真心を尽くせば、感動しない者はいない」という孟子(もうし)の言葉を語っていました。
松陰は「我が国の行く末が気になるからこそ、本当のことを話さなければならない。幕府もきっとわかってくれるはず」という強い信念があったのかもしれません。
しかし、そんな松陰の真っ直ぐな思いは、幕府の上層部には通用しませんでした。松陰が告白した計画に激怒した井伊直弼が、見せしめとして松陰を死罪にすることに決めたのです。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
さして差し支えない企てならば
そのように激怒もしなかったのでしょうけれど、
正論であるが故に怖さが倍増したのでしょうね。
正論はそれだけで刃のごとき威力を持つものですしね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 正論はそれだけで刃のごとき威力を持つものですしね。
仰るとおりだと思います。
松陰の真っ直ぐな思いが、逆に彼の生命を縮めてしまったのが何とも言えない皮肉ですね。
安政4(1857)年には久坂玄瑞(くさかげんずい)が松陰に弟子入りするなど、松陰のもとに来る若者が増えたため、杉家の敷地に新たに塾舎を開設し、叔父の玉木文之進がかつて主宰していた松下村塾の名を引き継ぎました。
松下村塾において、松陰は久坂玄瑞のほかに高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)、品川弥二郎(しながわやじろう)などを教育しました。また、松陰は塾生たちに一方的に教えるのではなく、弟子と一緒になって意見を交わしたりするなど、いわゆる「生きた学問」を重視するものでした。
しかし、松陰と塾生たちとの楽しい日々は長くは続きませんでした。安政5(1858)年に江戸幕府の大老である井伊直弼が、勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)を得ずに日米修好通商条約を結んだからです。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうそうたる面々が松下村塾には集まったのですね!
いえ
ここで学んだからこそ、その名を残す人物になれたと言い換えたほうが良いのかも知れませんが^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 おそらくは両方とも当てはまるのではないでしょうか。
松下村塾での学びの日はわずかでしたが、そのインパクトは大きかったですね。
そして翌嘉永7(1854)年、ペリーが日米和親条約を結ぶために再航した際に、伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ向かい、密航を訴えましたが、日本と条約を結んだばかりのペリーは松陰の願いを拒否しました。
夢破れた松陰は、潔く下田奉行所に自首しました。やがて長州へ護送された松陰は、安政2(1855)年に許されるまで投獄されました。以下は、江戸から長州へ護送される途中で、赤穂義士で有名な泉岳寺(せんがくじ)を通りがかった際に松陰が詠(よ)んだ和歌です。
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そういえば、今年の大河ドラマの花燃ゆを
最初の頃だけチラ見していたのですが、
吉田松陰役の伊勢谷さんがペリーの船に乗り込んで直談判しているシーンが有ったのを思い出しました^^
自らの欲する思いは大和魂が成せる事だと
ご本人は思っていたのでしょうかね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 おそらくは仰るとおりではなかったかと思われます。
ある意味、見習うべき点が多いのではないでしょうか。