実は、戦艦大和の出撃は、我が身を棄(す)てても「沖縄防衛」を達成するという「特攻」の精神によるものでした。「初めは顔が真っ青に、しかしすぐに『よし、やってやる!』と真っ赤になった」という乗組員の証言が残されています。
戦艦大和に航空機による護衛がなかったのは事実であり、そうである以上は「本当の使命」が達成できる可能性がゼロに等しいものでしたが、それが分かっていたからこそ、沖縄の人々を一人でも多く守るという崇高(すうこう)な使命を帯びて、戦艦大和は一縷(いちる)の望みをかけて「特攻」を行い、そして壮絶な最期を遂げたのです。
戦艦大和の撃沈後、沖縄戦は本格的な戦闘となり、アメリカ軍の攻撃によって一般県民を含む多くの死傷者を出した末、6月22日の攻撃を最後に守備隊が全滅しました。沖縄はアメリカによって占領され、昭和47(1972)年まで我が国に返還されなかったのです。
※下記の映像は9月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私の中では
「特攻」=小型戦闘機のみ
というイメージでこれまでずっと来てしまいましたが
あの「戦艦ヤマト」も「特攻機」の一つとして
船出をしたのですか・・
勉強になりましたm(__)m
象嵌師 大和が沖縄への救援物資を満載していた事を最近知りました。 しかしながら通常の戦艦の撃沈によって乗員の殆んどが戦死する事はあり得ないと言われるのに、 大和は3200名の内3000名が戦死、 その殆んどが沈没後の漂流者に対する米軍による機銃掃射による物だったと知りました。 鬼ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 特攻は小型機ばかりとは限らないんですよね。
沖縄を守るために、戦艦もろとも犠牲になろうとする。
我が国は決して沖縄を見捨てませんでした。それなのに現在の知事は…。
象嵌師さんへ
黒田裕樹 これが当時のアメリカ軍のやり方なんですよ。
東京大空襲といい、原爆投下といい…。
恨みは水に流しても、やられたことは決して忘れません。
日本陸軍は制空権を失った状況の下で懸命な指揮を執り、一般県民の防衛隊も兵力に加えた守備隊が軍民一体となって、上陸したアメリカ軍と激しい戦闘を続けました。
また多数の神風特攻隊が出撃したほか、潜航艇(せんこうてい)も「人間魚雷」などの特攻隊としてアメリカ艦隊に大きな損害を与え、さらには沖縄を助けるべく、戦艦「大和(やまと)」も衣服など多くの民需物資を積載して出撃しました。
しかし、戦艦大和は無念にも昭和20(1945)年4月7日に坊ノ岬沖においてアメリカ軍に撃沈され、3,000人余りの尊い生命が失われました。
ところで、戦艦大和の出撃に関しては、常識であった「航空機による護衛」がありませんでした。このことから「戦艦大和は無駄死にであった」と否定的にとらえる人が多いようですが、これは本当のことでしょうか。
※下記の映像は9月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですね・・
日本軍が最初から無駄では無いかと
判っていながら出航した船なら無駄死だと
言われても仕方が無い事でしょうけれど、
一縷の望みがあっての判断なら、
それも仕方が無かったのではないでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 一縷の望みがあっての判断なら、
> それも仕方が無かったのではないでしょうか。
さすがはぴーちさんですね。
「一縷の望み」をかけた理由については、次回に紹介したいと思います。
いえねこ 巨大戦艦の時代が終わっていたことを大本営も十分理解していたようですね。大和は特攻の象徴として死んでくれというのが最後の使命。だとしても3000人の命は重いですよね。
いえねこさんへ
黒田裕樹 戦艦大和のことを思えば、何とも言えない気持ちにさせられますね。
犠牲者の多さが拍車をかけています。
戦後70周年の節目に、4回に分けて大東亜戦争を振り返る「本物の歴史講座」。最終回となる第50回は「未完」と題し、GHQによる徹底した日本人洗脳工作によって、戦後から70年が経過した今もなお「大東亜戦争は終わっていない」という厳しい現実を中心として、黒田節の魅力たっぷりに紹介します。

(クリックで拡大されます)
講座に参加をご希望の皆様(特に東京講演においては関東在住の方々)は、ブログ右下の「メールフォーム」を活用のうえ事前にご連絡くだされば幸いです。当日の飛び入り参加も歓迎いたします。今回は東京講演の方を先に行いますので、日程や会場などにご注意ください。講座の内容については、これまでと同様に後日にはブログ上で映像とともに発表します。
なお、今回の東京講演は会場がいつもの飯田橋に戻りますのでご注意ください。
第50回黒田裕樹の歴史講座
「大東亜戦争その4 ~未完」
主催:一般社団法人正しい歴史を伝える会
後援:my日本・授業づくりJAPAN
【東京講演】
日時:平成27年9月19日(土) 午後3時より
場所:スター貸会議室 飯田橋 (会場は2階です)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,000円
【大阪講演】
日時:平成27年9月22日(火・休) 午後2時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第1研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,000円
今回の講演の際に、「大東亜戦争その1 ~予兆(第47回)」「大東亜戦争その2 ~苦悩(第48回)」「大東亜戦争その3 ~死闘(第49回)」のレジュメを、資料代として金1,000円(第47回・第48回・第49回でそれぞれ別料金となります)でお分けします。以前の講演にご参加いただけなかった皆様を中心にぜひお求めください。
また、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,500円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。





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ゆうちゃん 黒田先生は、歴史のプロパーなんですか?
崩し字や繋ぎ文書や御教書とか、生の史料は読めるんですか?
ゆうちゃんさんへ
黒田裕樹 > 黒田先生は、歴史のプロパーなんですか?
> 崩し字や繋ぎ文書や御教書とか、生の史料は読めるんですか?
私の立場は「現役の高校教師として、イデオロギーに毒されないありのままの正しい歴史を啓発する」立場に過ぎません。
従って、仰る内容を読み解く能力には欠けるかもしれませんが、やるべきことを今後とも継続していくつもりではあります。
わずか1回の空襲で約26万戸の家が焼かれ、12万以上の人々が死傷し、100万人を超える人々が焼け出されるという甚大な被害をもたらすなど、世界史上でも例を見ない非戦闘員に対する大虐殺となりました。
空襲後、昭和天皇はご自身で被災地を訪問したいと希望なされ、約1週間後の18日に実現しました。空襲から間もない東京は焼け野原と化しており、焼け死んだ人々の遺体もそのままになっていました。陛下は被災者をお励ましになりながら、東京の変わり果てた姿に胸が痛む思いでいらっしゃいました。
「もはや一刻の猶予(ゆうよ)もなく、一日も早く戦争を終わらせないといけない」。そうお考えになった昭和天皇は、翌4月の小磯国昭内閣の総辞職後に、次の内閣総理大臣として、元侍従長の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)を指名されました。ご自身との縁(えにし)が深い鈴木ならば、この戦争を終わらせることができると期待されたのです。
なお、東京大空襲の日を3月10日としたのは、この日が陸軍記念日であったからだという説があります。また、こうしたB29による焼夷弾を使用した集中爆撃は、東京だけでなく大阪など全国の60余りの都市がその被害を受けました。これを本土爆撃といいます。
※下記の映像は9月22日までの掲載分をまとめたものです。





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通りすがり これは、アメリカ軍による民間人の大量虐殺である。
敗戦国日本の大量虐殺だけが問題視され、
戦勝国アメリカの大量虐殺が問題視されないのは、
おかしなことである。
「勝てば官軍」勝てば、何をやってもいいのだろうか?
本来ならば、カーチス・ルメイはA級戦犯として裁かれなければならない。
ぴーち こんばんは!
自分初め
人間は、自分の身の上に直接降りかかって来る火の粉には敏感に反応し、抵抗しますが
他人事となると、なかなか想像出来ないものです。
きっと日本人は遠くの国で日本兵が戦っている間は、戦争という事に対してさほどの恐怖を覚えずに
過ごしていられたのでしょうけれど、本土が徹底的に
攻められ、命の危険に晒されて初めて、戦争の残忍さを実感させられたのでしょうね。
そしてもう二度と戦争を繰り返してはならない。
そう固く決心したことでしょう。
それにしても、アメリカのやり口の徹底した態度には、閉口します。
通りすがりさんへ
黒田裕樹 仰る内容は、多くの人が同じように疑問に感じていることだと私も思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに我が身に降りかかると態度が一変する傾向にありますね。
いずれにせよ、仰るとおり閉口するやり方ではあります。
空襲はイギリス軍が何百機もの航空機で市街地を爆撃した後、アメリカ軍による何百機ものB29爆撃機が約65万個の焼夷弾(しょういだん)を落とし、さらに戦闘機が機銃掃討(きじゅうそうとう)を行うという徹底ぶりであり、約135,000人もの死者を出してしまいました。
やられたのはドイツだけではなく、イタリアのベネディクト会修道院発祥(はっしょう)の地であるモンテカッシノの修道院が破壊されるなど、無差別に民間人を殺戮(さつりく)するという、明らかな戦時国際法違反の虐殺が繰り広げられました。
そして、米英による無慈悲な爆撃は、ついに我が国に対しても牙(きば)をむくようになってしまうのです。
※下記の映像は9月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
アメリカも英国もこの時とばかりに
容赦無い攻め方で敵国を徹底的に攻撃したわけですね。
ここで日本的な考え方だと「武士の情け」では
有りませんが、相手が弱ってきた時点で
最後のトドメは避けたいと思うのでしょうけれど、
やはり外国は、相手の息の根を止めるまでは
執拗に追い詰めていく戦略を取るのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり外国は、相手の息の根を止めるまでは
> 執拗に追い詰めていく戦略を取るのでしょうね。
そのとおりですね。
その悪夢はやがて我が国にも…。
いえねこ この時期からルーズベルトの思惑通りになっていくんですよね。「狂人」と連合国側から言われたのもわかります。
PS、ブログリンクさせていただきました。 不都合があったら言ってください。
いえねこさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。アメリカという国の恐怖性の一つですね。
リンク有難うございます。今後ともよろしくお願いいたします。
しかし、ソ連は1945(昭和20)年2月に、スターリンがアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相と、ソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行っていました。これをヤルタ会談といいます。
ヤルタ会談において、ルーズベルト大統領は日本の領土である南樺太(みなみからふと)や千島列島全体、さらには満州など日本が有する数々の権益をソ連に与える見返りとして、中立条約を無視してソ連に対日参戦をさせることをスターリンに約束させました。
ソ連のこうした動きを全く知らずに、単に中立国だからという理由で共産主義国家に仲介を頼もうという姿勢に、当時の我が国における政略の大きな欠如(けつじょ)がうかがえるのではないでしょうか。ちなみにヤルタ会談における密約が、我が国とソ連(現在のロシア)との「北方領土問題」の原因の一つとなっています。
※下記の映像は9月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
相手の動きを全く知らずに、一つの事だけに
注目し、それを信じて頼ってしまったのが
いけなかったのですね。
日本人同士でしたら、相手を信じるという意味で
良い事でも、世界には全く通用しないという事を
知らなかったのが
失敗でしたね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
世界に通用する人材の育成は、いつの世も同じですね。
硫黄島の重要性を理解していた日本軍は、不充分ながらも武装と資材をかき集めて、短期間で防衛設備を構築しましたが、昭和20(1945)年2月19日に始まった戦闘では、島全体の地表が変形するほどの徹底的な艦砲射撃と空爆を受けました。
絶望的な情勢のなか、司令官であった栗林忠道(くりばやしただみち)中将の巧(たく)みなリーダーシップもあって、奇跡的な奮闘を重ねた日本軍でしたが、ついに刀折れ矢尽きて、同年3月26日までに守備兵のほとんどが玉砕しました。
戦いに敗れた日本軍ではありましたが、死傷者の全体的な数は、圧倒的に優位だったはずのアメリカ軍が上回っており、鬼神に勝る働きを見せる日本軍に対する恐怖を、アメリカ軍に嫌(いや)でも見せつけることになりました。
ただし、硫黄島を取られたことによって、アメリカ軍は日本本土への攻撃をより有利に展開できるようになったことから、この後に行われた「悪魔のような」本土爆撃が実現してしまったのです。
※下記の映像は9月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私が好きな俳優さんに渡辺謙さんがいらっしゃるんですが、彼が先日「安保法案」について呟いている内容を読んで、硫黄島の戦いで、まさに栗林中尉役を熱演された彼の率直なご意見だなと思いました。
自衛隊は「未来のない戦いを強いられた栗林中将と変わりがない」
きっと作品を通して彼なりに解釈し、結論づけた答えなのだろうし、先日も同じような事を
書かせて頂きましたが、
殺し合いに正当な理由は無い・と思えてなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、単なる「殺し合い」にすぎないのであればそうなのかもしれません。
安保法案に関しては、次回(第50回)の歴史講座で取り上げる予定ですので、そこでまた紹介したいと思います。
特攻隊の攻撃は「爆弾を載(の)せた飛行機が敵の軍艦めがけて体当たりで突撃する」というものであり、飛行機自体を爆弾ととらえたうえで、飛行士もろとも犠牲になりました。この決死の攻撃によって、日本軍は多くのアメリカ空母を沈めることができましたが、最終的には翌昭和20(1945)年7月にフィリピンを奪還されてしまいました。
なお、日米の激戦によってフィリピンの多くが戦場となりましたが、なかでも首都のマニラは、日本軍が非武装地帯とする「オープン・シティ」化に失敗したことから多くの被害を出してしまったため、戦後にフィリピンの対日感情が悪化したと伝えられることが多いようですが、マニラの博物館では「米軍の砲撃によって炎上するマニラ市街」と当時の様子が紹介されていたことがあったとのことです。
要するに、戦争でマニラの市街を破壊したのは日本軍ではなく、一般市民の被害を何とも思わぬアメリカ軍(このことは後述する我が国への無差別攻撃からも明らかです)によって甚大(じんだい)な被害を受けたとマニラ市民は以前から考えており、フィリピンの人々にとっては、対米感情こそがはるかに悪いことを示しているといえるでしょう。
ところで、我が国で初めての神風特攻隊の作戦実行をお聞きになった昭和天皇は「そのようにまでしなければならなかったのか!」と叫ばれ、しばし絶句された後に「しかしよくやった」と仰(おっしゃ)いました。このお言葉は決して特攻隊を称賛するのではなく、国のために生命を散らした兵士たちの尊い犠牲に対する労(いたわ)りのお気持ちが込められていると考えるべきではないでしょうか。
※下記の映像は9月22日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに戦争当時は、アメリカは日本にとっても敵国で
憎むべき存在でしたが、今では手を携えて
友人と名乗り合う間柄ですから
フィリピンにとっては複雑な思いで見ているので
無いかと想像します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国家同士の争いは、時として複雑な流れを生み出します。
サイパンからは新開発の長距離重爆撃機B29の行動範囲に東京が入り、我が国は本土の防衛すらままならない状況となったことから、一連の責任を取って東條英機内閣が総辞職し、昭和19年7月22日に小磯国昭(こいそくにあき)内閣が成立しました。
ところで、昭和19年の夏頃といえば、後に激戦となった硫黄島(いおうとう)もまだ防衛されておらず、いわゆる本土防衛の準備もなされていませんでしたが、それまでの日本軍の強さを恐れたアメリカ軍は、フィリピン奪回を目論(もくろ)んだマッカーサーの意向もあって、日米の次の戦場をフィリピンとしました。
アメリカの立場からすれば、防衛力が低かった当時の日本本土を早々と攻撃していれば、戦争も比較的簡単に終わらせたはずです。しかし、かつて日本軍に屈辱を味わわされたマッカーサーのいわば「私怨(しえん)」によってフィリピンが戦場となり、多くの人々が犠牲になってしまったのです。
※下記の映像は9月22日までの掲載分をまとめたものです。





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象嵌師 こんにちは マッカーサーは正直ですが女々しい男と思います。 日本を擁護するようになったのも最高司令官の座を降ろされプライドを傷つけられた事でのアメリカに対するあったのかと思います。
象嵌師さんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう一面もありそうですね。
興味深いご賢察を有難うございます。
ぴーち こんばんは!
「私怨」ですか・・
私怨と言えば、大量破壊兵器保持を理由に
イラク戦争を引き起こしたブッシュ大統領も
戦争の正当性を訴えたものの、その裏では
個人的な恨みがあったと伺った事が有ります。
そもそも、戦争に「正当な理由」など存在しないと
個人的には思っています。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、戦争に正当な理由がないということですね。
お気持ちはよく分かりますが、その一方で「戦争も外交手段の一環」という説があるのもまた事実です。
いずれにせよ、今回の「私怨」に生徒異性が見当たらない、というのは間違いないと思われます。
「日本軍がシンガポールを占領したとき、私たちの乗っている船に、現地の我々と同い年くらいの若い青年たちが物売りにたくさん来ました。その現地人たちと英語で話をするわけですが(当時の日本の中学生の学力なら簡単な英語は誰でも話せました)、彼らの誰一人として英語を文字で書ける人がいませんでした」。
「彼らは学校に行っていないから、英語を話しているのに書くことができないのです。私はこのときほど、台湾が日本に統治してもらって良かったと思ったことはなかったです」。
「私は小学校の成績が良かったから、家が貧乏だったのに、日本人の担任の先生のおかげで中学校まで卒業させてもらいました。当時は小学校に行っていない者など誰もいないし、小学校を卒業すれば、皆が日本語も中国語(=漢文)も文字が書けるようになりました」。
「しかし、イギリスの植民地となっていたシンガポールの現地人たちは、誰一人英語が書けませんでしたし、地図を示しても、見たことがないので全く理解できなかったのです。私は『日本人』であることが本当に嬉しかったですし、日本という国が本当に偉大だと思いました」。
※下記の映像は9月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
嬉しい言葉ですね!
日本の文盲率は世界的にも低いと思いますし、
識字率に関しても、世界一なのでは無いかと思います(違っていたらゴメンなさい)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、間違っていませんよ。
日本人の識字率の高さが台湾統治にも活かされ、当時の人々に感謝されたんですよね。