昭和19(1944)年6月にアメリカ軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸すると、日本軍は同月のマリアナ沖海戦に大敗するなど、圧倒的物量を誇るアメリカ軍の前に次第に追いつめられるようになりました。
そして7月7日には「今ここに米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋(うず)めんとす。勇躍全力を尽くして従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大儀に生きるを悦(よろこ)びとすべし。米鬼(べいき)をもとめて攻勢に前進し、一人よく十人をたおし、以て全員玉砕せんとす」との最後の命令を発して、指揮官が自決しました。
指揮官の命令を受けた我が国の将兵は、同日から8日にかけてアメリカ軍めがけて最後の突撃を敢行して壮絶な玉砕を遂げ、多くの民間人も自決した末に、翌9日にアメリカ軍はサイパン島占領を宣言しました。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
アメリカという国もこうした無念の死を遂げた多数の命の上に今の平和と繁栄が有るという事を
肝に銘じて欲しいと願うばかりです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもって仰るとおりです。
どの国も、戦争の勝利の意味を深く思い知るべきですね。
我が国は絶対国防圏として、千島・小笠原・マリアナ・西部ニューギニア・スンダ・ビルマを含む圏域と定め、この外郭線(がいかくせん)において敵の侵攻を食い止めながら、航空戦力を中心とした反撃戦力を整備し、来襲する敵に対する攻勢を強めようとしました。
その一方で、日本軍はチャンドラ=ボースの自由インド仮政府を支援するために、ビルマ(現在のミャンマー)からインド北東部の要衝(ようしょう)であったインパールを攻略しようとして作戦をたて、昭和19(1944)年3月に行動を開始しました。これをインパール作戦と言います。
絶対国防圏の基本戦略外でもあったインパール作戦において、日本陸軍は倍近くの兵数を擁(よう)したイギリス軍を相手に健闘しましたが、多数の犠牲者を出した末、同年6月に退却せざるを得ませんでした。
ただし、日本軍の鬼気迫る奮闘ぶりはイギリス軍を恐怖に陥(おとしい)れ、作戦後のインドにおけるイギリスの支配に重大な影響を与えるとともに、戦後のインドの独立につながっていったとも考えられています。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち おはようございます!
日本人の気質なのでしょうか。
日本は何事にも一生懸命になれる国なのでしょうね。
それが受け入れる国によって、
様々に変化してしまうものですが
素直にそれを快く受け入れてくれる国とは
これからも友好的な関係を保とうと努力
出来そうですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 素直にそれを快く受け入れてくれる国とは
> これからも友好的な関係を保とうと努力
> 出来そうですね。
経過はどうあれ、大東亜戦争後に次々と独立を果たした東南アジア諸国とは比較的友好を保っていますからね。
分かる国は分かってくださいます。
昭和18年11月5日、東條英機首相は大東亜新秩序の建設の方針を協議するため、アジア各地域の代表を東京に集め、世界史上初めて有色人種のみで行われた首脳会議でもあった大東亜会議を開催しました。
大東亜会議には東條首相の他に南京国民政府の汪兆銘(おうちょうめい)行政院長、満州国国務総理の張景恵(ちょうけいけい)、タイ首相代理のワン=ワイタヤコーン、フィリピン大統領のラウレル、ビルマ首相のバー=モウ、またオブザーバーとして自由インド仮政府代表のチャンドラ=ボースが出席しました。
大東亜会議において、各国は「お互いを尊重し、それぞれの民族が歴史や文化、あるいは伝統を活かしながら文化交流を深め、経済関係を強化することで相互に発展し、世界各国とも進んで仲良くすべきである」という内容の大東亜共同宣言を採択しました。なお、戦後の1960(昭和35)年の第15回国連会議で植民地独立宣言が決議されていますが、その内容は大東亜共同宣言とほぼ同じでした。
ところで、戦局の悪化につれて、中国大陸では日本軍が中国共産党のゲリラ戦に悩まされた際、我が国側から「三光作戦」と呼ばれた虐殺(ぎゃくさつ)を行ったり、また中国戦線において毒ガスを使用したり、あるいは捕虜の兵士を細菌の生体実験に利用したりしたという記載が歴史教科書に見られますが、これらはいずれも根拠もない捏造(ねつぞう)であることが明らかになっています。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
捏造した内容が堂々と教科書に記載されているのは
非常に遺憾な事ですよね。
教科書に記載されていれば、それを最初に覚えた子供はそういうものだと認識してしまいますものね。
考えてみれば、怖い話です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもってそのとおりです。
どんなことがあろうと、嘘や捏造を教えることは絶対に許されません。
また同年5月には、北太平洋のアメリカ領アラスカ州西のアリューシャン列島の先にあるアッツ島にて、日本軍の守備隊が全滅するという、いわゆる玉砕(ぎょくさい)の悲劇が初めて起きてしまいました。
なお、アッツ島での玉砕直後に悲報を耳にされた昭和天皇は「最後までよく戦った」という惜別の電報を、二度と聞くことのできない部隊に対して発するように命じられたと伝えられています。
また、アッツ島の玉砕を受け、すぐそばにあったキスカ島の約5,000人の部隊も全滅の危機に瀕(ひん)しましたが、樋口季一郎(ひぐちきいちろう)将軍の指揮によって全員の帰還を達成するという奇跡もありました。
ただし、アメリカ軍はアリューシャン列島の戦いにおいて、我が国の零戦をほとんど無傷の状態で手に入れており、その零戦を徹底的に研究し、新鋭機器の開発と大量生産に没頭したアメリカによって、零戦の優位性は失われ、やがて我が国は制空権すら奪われるようになっていったのです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
状況が劣勢になり、もはやここまでという
所まで追い詰められた時には、退避させるという
判断も勇気が居る決断だったと思いますし、
命を本当に重んじるのであれば、
そのような判断は不可欠だと思います。
生き恥を掻く・・という考え方こそ、今思うと
恥な事では無いかと案じます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お気持ちはよく分かりますが、当時の価値観など様々な事情もありますからね。
一方で、キスカ島の「パーフェクトゲーム」は今振り返っても見事だと思います。
ぴーち おはようございます!
よく戦争関連の番組の中で、仲間は皆戦死をしたのに自分だけが生き残ってしまったことを「恥」と思いながら自分自身を責め続けてこれまで生きてきた方の話を伺ったりすると、やるせない思いを抱いてしまうんですよね。
そう言う方たちに、どうかこれ以上苦しまずに
歴史の生き証人として、堂々と
ご自分が体験した辛い記憶と向き合い、今の世の中に役立つ良い知恵を与えて貰いたいと願うと同時に、恥では無い事を自覚して頂きたいと切に願いたいのです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、恥でも何でもありません。
私自身も元帝国軍人の皆様に何度かお会いする機会に恵まれておりますが、皆様が誇りをもって生きておられます。
同志に対する思いやりや愛情に満ちあふれた素晴らしい方々ばかりです。
日本人としての気概を私たちも学ぶべきですね。
米軍による乾坤一擲(けんこんいってき)の奇襲によって、我が国の空母4隻のうち3隻が炎上し、残りの1隻も後に爆撃を受けて沈没するなど、日本海軍は大敗を喫してしまったのです。
もし我が国がアメリカ軍の奇襲を許していなければ、日本海軍が勝利する可能性は高かったでしょう。日本軍がミッドウェーを制すれば、アメリカはすぐ近くにあったハワイを持ちこたえることができず、陸軍を西海岸に集結せざるを得なかったでしょう。
そうなれば、アメリカはヨーロッパにまで手が回らなくなりますから、イギリスを援護することができず、イギリスはドイツの軍門に下った可能性が高いですし、アメリカも我が国と講和を結ぶしかなかったはずです。
ミッドウェー海戦は、結果として大東亜戦争のみならず、第二次世界大戦全体の分水嶺となりました。そして主力空母という物的資源や、少数精鋭のベテラン飛行士が戦死するなど人的資源を失ったのみならず、太平洋における制海権の確保が難しくなった我が国は、この大敗北を境目として劣勢に転じていくことになったのです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると
これまで、アメリカとの戦争に敗れた決定的な敗因は経済的や物質的な面で
明らかにアメリカに劣っていたせいなのかも知れないと思っていましたが、
アメリカの戦いに対するノウハウが日本よりも
上だったことが勝敗を決めていたのかも知れないと
感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こうして伺っていると
> これまで、アメリカとの戦争に敗れた決定的な敗因は経済的や物質的な面で
> 明らかにアメリカに劣っていたせいなのかも知れないと思っていましたが、
> アメリカの戦いに対するノウハウが日本よりも
> 上だったことが勝敗を決めていたのかも知れないと
> 感じました。
結果論ですが、そういわざるを得ませんね。
大変残念な戦いでした。
さて、ミッドウェーの開戦当時の戦力は、我が国の主力空母が4隻だったのに対して、アメリカのそれは3隻とほぼ互角でしたが、全体の戦力としては米軍の方が明らかに劣勢であり、通常で考えれば日本軍が圧勝してもおかしくありませんでした。
しかし、日本海軍の暗号が解読されてアメリカ側に筒抜けになっていたことや、相手の諜報を全く傍受(ぼうじゅ)しないなど、事前の索敵(さくてき)活動を十分に行わなかったり、戦闘の作戦にも詰めの甘さが見られたりするなど、これまで連戦連勝を続けていた日本軍には、明らかに驕(おご)りや油断が見られました。
こうした中で始まったミッドウェー海戦は、我が国が誇るべき戦闘機である36機の零戦(ゼロせん、零式艦上戦闘機)が、アメリカの戦闘機のうち約50機を撃墜(げきつい)するなど完全に制空権を握り、また敵空母から襲ってきた雷撃機約70機も落とした一方で、零戦は一機も失われないなど、日本軍は鬼神のごとき活躍を見せました。
ところが、日本軍が攻撃を急ぐあまり、空母の上に護衛の戦闘機を一機も配置しなかったという油断があったために、米軍の奇襲による悲劇が起きてしまったのです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!
何事にも通じる事だとは思いますが、
「慢心」してしまうことが一番の命取りだと
思います。
例えば、これまで点取には慎重に
バントで確実に進めていた試合を
打撃に自信があるからと、極力バントをしなくなった
ある球団のやり方には少々不安を感じるこの頃です。。(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 分かりやすい例えですね(^^;
慢心は大怪我の元。これはいつの時代も変わりません。
昭和17(1942)年4月18日、東京の東方海上1,200kmの太平洋上の航空母艦(=空母)ホーネットからアメリカB25爆撃機16機が飛び立ち、東京・名古屋・神戸を爆撃した後に中国の基地へと逃げ込みました。これをドーリットル空襲といいます。
それまでハワイやフィリピン、あるいはインドネシアの海上決戦において、我が国に連戦連敗だったアメリカにとっては、ドーリットル空襲の成功は溜飲(りゅういん)を下げたかたちとなりましたが、本土を空襲された日本海軍の衝撃は大きいものがありました。
屈辱(くつじょく)を味わった日本海軍は、ハワイ諸島の西にあり、アメリカ海軍の中継基地となっていたミッドウェーを攻撃することにしました。いわゆるミッドウェー海戦の始まりです。
※下記の映像は9月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
詳しくは存じませんが、アメリカは日本軍の
零戦の弱点を
短期間で攻略し、またその作りを盗んだ様ですね。
そういう面は、やはりアメリカの技術の高さや経済力には敵わなかったのかも知れませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 詳しくは存じませんが、アメリカは日本軍の
> 零戦の弱点を
> 短期間で攻略し、またその作りを盗んだ様ですね。
> そういう面は、やはりアメリカの技術の高さや経済力には敵わなかったのかも知れませんね。
零戦の話はそのとおりですね。
今回はどうなるのでしょうか…。
大東亜戦争は決して「無謀な戦争」ではなく、当時の軍事力や国力の比較からすれば、日清戦争あるいは日露戦争よりももっと勝てる可能性の高かった戦争だったともいえるのであり、実際にそのような見解も存在しています。
今回のように大きな歴史の流れを見てゆくと、日清・日露両戦争当時と比べ、大東亜戦争においてはいかに我が国の政治家も軍人も、その中枢(ちゅうすう)の人材が払底(ふってい)あるいは堕落(だらく)し、自壊するように負けていったかということがよく分かります。
我が国の未来のためにも、単なる「戦争は良くない」という否定的な見解のみに終始するのではなく、今回のような「大東亜戦争で我が国が勝てなかったのは何故なのか」ということこそが、歴史教育で学ばねばならない重要な課題ではないでしょうか。
「あの戦争は勝てたのではないか」という観点を、我々は絶対に見失ってはならないのです。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
確かに最初の頃の戦局は
日本が有利であったと伺った事が有ります。
結果的には敗北せざるを得なかった戦争ですが、
仰るとおり結果ばかりを見て「もう二度と」と
目を背けるのでは無く、これから先もいついかなる時に
日本は戦いたくなくても、
戦いの火の粉が降り注ぐやも知れない事を
考えると、過去に学ぶべき
反省点を見つけ出して、来るべき時の為
最善を尽くす努力をすべきなのかも知れませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 過去に学ぶべき
> 反省点を見つけ出して、来るべき時の為
> 最善を尽くす努力をすべきなのかも知れませんね。
そのとおりです。
今回の講演でも、この観点を見失うことなく更新を続けてまいります。
例えば、陸軍大将でもあった東條英機首相は陸軍大臣も兼任していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東條首相は後に陸軍の軍令機関のトップである参謀総長も兼任して、何とかリーダーシップを一元化しようとしましたが、海軍の軍令機関のトップたる軍令部総長に就任できない以上は同じことでした。
かくして、我が国では終戦を迎えるまで、戦争終結への外交努力に欠かせない「政略」がないがしろにされたのみならず、陸軍と海軍との意見を調整できる人物や機関が存在しないことで、「戦略」すらままならない状況が続いたのです。
すなわち、統帥権干犯問題で実権を握ったはずの軍部自身が動きを封じられたのみならず、最後には国家の統治機関の中心部にまでその影響が及んでしまったばかりか、戦争終結へ向けての「政略」が何もなされぬまま、我が国の戦局が暗転したことで、苦しい状態が続いていた我が国がさらに追い込まれてしまうようになるのです。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど。
戦争に勝利するには、まず
自国の求心力が高い事が求められるのですね。
結束が弱く、連帯感の薄れた国が
勝つことは無いという重い教訓を
残した戦争でもあった訳ですか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 結束が弱く、連帯感の薄れた国が
> 勝つことは無いという重い教訓を
> 残した戦争でもあった訳ですか。
国家の中枢部の意思疎通が上手く行かなければ、仰るとおりの結果となってしまうのはある意味当然ですからね。
国家の未来のためにも、問題点はしっかりと把握すべきかと思われます。
Ms mimi 黒田先生、
人間性を見透かしながら 解り易く指導的立場にある人物たちを描写して見事ですね。
わたしたちはこの現代史をこのように伝えてくださったら、納得!です。
昨今は 甘い気持ちで"戦争反対"と行動している人が多いですが、軍略と政略とは違うこと、そしてわたしたちの国は 今 共産主義の中国と 異様な北朝鮮の核の威嚇に恐れながらも、平和国家としてしっかりと独立しなければならないこと、重大な課題をつきつけられています。
先生のお話が多くの若者たちの力になりますことを
願うものの一人です。
声援を送ります。
Ms mimiさんへ
黒田裕樹 過分のお言葉有難うございます。
今後も「真実に基づいた歴史教育」の啓発に努めますので、よろしくお願いいたします。
なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして我が国では軍部の暴走を事実上誰も止められなくなってしまいました。
軍部の暴走はやがて昭和7(1932)年の五・一五事件や昭和11(1936)年の二・二六事件といった大事件をもたらし、また軍部大臣現役武官制が復活したことによって、首相が陸海軍大臣の意向を無視できなくなるなど、我が国の政治は事実上軍部に乗っ取られた状態と化しました。
これでは戦争遂行のための「戦略」を練ることはともかく、外交努力などの「政略」が期待できるわけがありません。結局、我が国は大東亜戦争で戦況が有利なうちに、講和への道を探るための何のイニシアチブも取ることができませんでした。
しかも、こうした問題の根幹となった統帥権干犯は、さらなる悲劇を我が国に及ぼしていったのです。
※下記の映像は8月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なるほど、
アクセルだけを搭載した
レーシングカーと化してしまったら
暴走だけで誰にも止められませんね(^_^;)
やはり公道を走る時くらいは、ブレーキ搭載
させなければ、自爆するだけです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
軍部の動きを政治家が止めることができなかった。
これが後々になって我が国に大きな影響を及ぼすことになります。