今回は満州事変からハル・ノートまでを主軸に2時間超のロングラン講演となりましたが、最後まで集中力が途切れることなくやり遂げたことを何よりも嬉しく思いました。また、タブー視されている「ある事件」の詳細に鋭く切り込んだことも意義があったようです。

次回(5月31日)は大阪講演を行います。東京同様、多数の皆様にお越しいただけることを心より願っております。
第48回黒田裕樹の歴史講座 (大阪講演)
「大東亜戦争その2 ~苦悩」
主催:日系文化振興会
後援:my日本・授業づくりJAPAN
日時:平成27年5月31日(日) 午後2時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第1研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,000円
参加をご希望の方は、ブログ右下の「メールフォーム」を活用のうえ事前にご連絡くだされば幸いです。当日の飛び入り参加も歓迎いたします。
なお、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。





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がちょー
黒田裕樹さま、いつもご訪問ありがとうございます。授業風景も大変参考になりますね
私のとこ、掲示板がありますので気楽に遊びに来てくださいませ^^
ちなみに私は、歴史好きな科目でしたよ

良い国創ろう鎌倉幕府♪ では

がちょーさんへ
黒田裕樹 はじめまして、こちらこそ拙ブログにお越しくださり、有難うございます。
「いい国つくろう鎌倉幕府」、良いですね(笑)。
家族会や救う会などによって、全国で署名運動が展開され、平成10年4月には約100万人の署名が外務大臣に提出されましたが、当時の外務省の幹部が「拉致問題は日朝国交正常化交渉の障害である」と発言したり、北朝鮮の食糧危機に対して、拉致問題を棚上げして「人道的な立場から」コメ支援を行ったりするなど、政府の拉致事件解決に対する動きは、なお鈍(にぶ)いものがありました。
しかし、国内世論の拉致事件に対する関心の高まりに加え、平成14(2002)年1月に北朝鮮工作船による日本海への侵犯(しんぱん)と銃撃戦が発生したことや、さらには同年にアメリカのブッシュ大統領が「ならず者国家」として北朝鮮の名を挙げるなどの動きがみられたことによって、国会は同年4月に、衆参両院で「日本人拉致疑惑の早期解決を求める決議」を採択しました。
こうした流れを受けて、同年9月17日に小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)首相(当時)が北朝鮮の平壌(ピョンヤン)を訪問し、総書記で国防委員会委員長の金正日(キム・ジョンイル)との会談に臨みました。いわゆる日朝首脳会談です。
ところが、金正日総書記との会談を控えた小泉首相や、同行していた安倍晋三内閣官房副長官(当時)らに対して、その直前に「拉致被害者の生存者5名、死者は横田めぐみさんを含む8名」という情報が伝えられたのです。
※下記の映像は6月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんにちは!
北朝鮮の食糧危機は、自国の国民が考えるべき問題だと思います。非常に薄情な様に解釈されるかも知れませんが、他の国が支援したからと言って本当に困っている人達には何一つ支援が行き届かないのなら、きっぱり止めるべきでしたよね。
他国がなまじ手を差し伸べてくれることに甘んじてしまうと自分たちが解決すべきチャンスを失ってどんどん悪い状態に陥ってしまうはずです。
それとめぐみさんの死亡説ですが、
日本の科学の進歩がどれほど進んでいるかというこを知らずに
随分と甘く見られていたものだなと、呆れる結果報告でしたよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まさしく仰るとおりだと思います。
我が国も舐められたものですね…。
拉致事件は、昭和52(1977)年9月のダッカ日航機ハイジャック事件が起きた際に、福田赳夫(ふくだたけお)首相(当時)が「人命は地球より重い」とテロリストの脅迫(きょうはく)に屈した以後に急増し、同年11月には、当時中学1年生だった横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されました。
その後、昭和55(1980)年に産経新聞が「アベック失踪(しっそう)事件に外国情報機関が関与の疑い」と題し、拉致事件に関して初めて報道しましたが、日本政府の事件への取り組みは遅く、昭和63(1988)年3月になって、国会が「アベック行方不明事犯は北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」と、初めて公的に拉致事件の存在を認めました。
そして、韓国に亡命した北朝鮮元工作員の証言から、平成9(1997)年2月に国会の予算委員会で、西村眞悟(にしむらしんご)衆議院議員(当時)が「横田めぐみさんらが北朝鮮に拉致されている」と質疑を行ったことをきっかけに、大手マスコミがこぞって報道するようになりました。
「当時13歳の中学生の少女が外国の情報機関によって無惨(むざん)にも拉致された」という悲しい事実が、国民に大きな衝撃を与えるとともに、拉致事件が広く知れわたる流れをもたらしたのです。その意味においても、西村氏の功績は、我が国の国益に照らして非常に大きなものがあったと言えるでしょう。
※下記の映像は6月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
今騒がれているロヒンギャ族の問題では有りませんが、日本もかつては先住民だった者を追放して
大陸から来た民族がやがて日本人になっていったという話を耳しましたが、人間はその立場になると酷い仕打ちも平気になるものだなと思いました。
そのロヒンギャの人達も、家族で一緒に逃げたにも関わらず、途中で生き別れて散り散りになってしまったと嘆いていた姿が印象的でした。
一度別れてしまったので家族の安否も全くわからず
きっとそれで一生家族とは会えない生涯を過ごさなければならないのだろうと思うと、こちらまで悲しく思えて来ます。
世界にはそういう理不尽な別れ方をしなければならない話が沢山あり過ぎるのがまた辛い所ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日本人のDNAを調べた場合、いわゆる大陸の人間とは全く異なっていることから、日本人の先祖が先住民を追い出したかどうかはともかくとしまして、見ず知らずの人間にいきなり拉致されて、何十年も親元を離れて暮らさねばならないという理不尽さは、筆舌に尽くしがたいものがあると思います。
新安保条約をめぐる闘争は、当時の国論を二分する激しいものとなりましたが、この背景には、新安保条約の発効によって日米間の軍事同盟が強化されれば、ソ連(後のロシア)などが目論んでいた日本の共産主義化に大きな影響を与えるという側面があったと考えられています。
しかしながら、日米が対等の関係に近づいた新安保条約によって、アメリカの「核の傘」に入るという選択を強(し)いられながらも、我が国の安全保障が飛躍的に高まったことが、その後の平和と繁栄をもたらした歴史の真実なのです。
とはいえ、新安保条約批准以後の歴代自民党政権が、さらに大きな混乱を招きかねない憲法改正や再軍備といった重要な問題を棚上(たなあ)げして、経済成長に偏重(へんちょう)する政策に終始するようになるなど、安保闘争が保守陣営に与えた影響は決して小さくありませんでした。
※下記の映像は6月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こうしてお話を伺っていると
色々と考えさせられますね・・
これまで70年もの間、日本が平和を継続して来られたのは実はアメリカのお陰だったと考えると
なんとも複雑な思いがします。
どこの国とも何の柵もないお付き合いは
難しいかも知れませんが、身の安全を守ってくれる
存在を他国に委ねて来たのは、日本の怠慢さえ感じます。
家主の親切でいつまでもここに住んでいても良いよと言ってくれたから、それに甘んじて何十年も居候をさせて貰っているうちに、本来は
自分自身の家を建てるべく着々と実行へ準備していなければならないはずが、いつまでも甘えっぱなしでいれば、いづれ痛い目に遭わないとも限らない様に、
ただこれまでの平和だった年数は、惰性で過ごしてきた平和で、本当の意味での日本の平和を独自で
勝ち得たものではないのがなんとも悔しい思いがしますね。
(周りくどいコメントで失礼しました!)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、我が国だけで勝ち得た平和でないというところがもどかしいですよね。
その意味では、今回審議されている法案の重要性を再認識することになりそうです。
また、当時の国会で審議されていた警察官職務執行法の強化や教員の勤務評定などをめぐって、岸内閣は革新勢力と対立していましたが、これらと同時期に新安保条約の調印が行われたため、条約を批准する国会審議において、与野党の意見が激突しました。
このため、岸内閣はやむを得ず昭和35(1960)年5月19日に衆議院で条約批准案を野党欠席のまま強行採決に踏み切りましたが、これを契機として、院外の安保改正阻止闘争(安保闘争)は激しさを増し、安保改定阻止国民会議や全日本学生自治会総連合(=全学連)による10万人を超えるデモ隊が、連日のように国会を取り囲むようになりました。
そして、6月15日には全学連主流派の約1万人が国会に乱入し、警官隊と衝突して死者を出す惨事となってしまったのです。
※下記の映像は6月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
岸総理と言えば、今の安部総理の祖父にあたる
方でしたよね?
随分と強引な手段で物事を進めようとした革新的な総理だったのですね。
それでもやはり国民をある程度納得させるというこは、時間と根気が必要でしたね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、時間と根気が必要だったのは言うまでもないことですが、それを見越して反発勢力が活気づいたというのもありますからね…。そう考えれば、安倍首相は実にうまく政権を運営していると思います。
第一次防衛力整備計画を決定して、我が国の自衛力の強化に努めた岸内閣は、「日米新時代」のスローガンを掲(かか)げて、片務的な内容だった従来の日米安保条約の改定に意欲を見せました。
岸首相の努力もあって、昭和35(1960)年1月に我が国とアメリカは、ワシントンで日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)に調印しました。新安保条約は、アメリカの日本防衛義務を設けるなど対等な内容に近づけたほか、在日アメリカ軍の軍事行動における事前協議制や、固定有効期限を10年とすることなどが規定されました。
しかし、こうした新安保条約の批准(ひじゅん、全権委員が署名して内容の確定した条約に対して締結権をもつ国家機関が確認のうえ同意を与えること)をめぐって、日本国内で激しい闘争が繰(く)り広げられるようになるのです。
※下記の映像は6月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
あちらが立てば、こちらが立たず。
なかなか上手い具合にはいかないものですね(^^ゞ
やはり国内では
自衛力の強化の部分での異論が多かったのでしょうか?
管理人のみ閲覧できます
-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 国内での批判に関しては、仰るとおり自衛力の強化への異論が多かった可能性がありますが、その背景にあるものも重要かと思われます。
詳しくは今後の更新をご参照ください。
かくして、我が国は自国の安全保障をアメリカに委(ゆだ)ねるかたちとなりましたが、当初結ばれた条約は片務的(へんむてき、契約の当事者の一方のみが義務を負うこと)であり、アメリカに有利な内容となっていました。
例えば、我が国に駐留するアメリカ軍に日本防衛の義務がないことや、駐留軍には日本政府の要請に応じて内乱を鎮圧する権利があってもその義務がないこと、あるいは日本の意思だけでは条約を廃棄(はいき)できないことなどが規定されていたのです。
しかし、日本国憲法において事実上の非武装国と化していた我が国が、独立回復を機に米軍に撤退されれば、丸裸となった我が国が他国に侵略されるのは自明の理でした。現実問題として、我が国が現在に至るまで平和が保たれているのは、アメリカの「核の傘(かさ)」に入り込むかたちとなった日米安保条約のおかげであり、決して日本国憲法第9条によるものではありません。
※下記の映像は6月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
アメリカ側からすれば、
アジアの玄関口に自国の基地が
存在すれば、乗り込む事が容易になる
事への期待感と、
日本はそのアメリカの武力の偉大さを
傘にすることで自国の平和を保つことが出来るという
要するに、
日米安保条約は
アメリカと日本双方の思惑が叶った
条約で有るという事なのですね。
日本の考え方からすれば、
露骨にアメリカのお陰でと頭を下げ続ける事を
拒む気持ちで9条の存在を明言し、日本国内へは9条という存在を
神聖なものと解釈させて
いかにも日本の護符の様に仕立てる事で
威厳を保とうとしていた・・
そんな印象を受けました。
もちろん、考えすぎかも知れませんが。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本の考え方からすれば、
> 露骨にアメリカのお陰でと頭を下げ続ける事を
> 拒む気持ちで9条の存在を明言し、日本国内へは9条という存在を
> 神聖なものと解釈させて
> いかにも日本の護符の様に仕立てる事で
> 威厳を保とうとしていた・・
さすがにそれは考えすぎかもしれませんね。
9条を守れと言う勢力の多くが革新系ですので。
政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への、戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に国際平和協力法(PKO協力法)を制定させ、国連平和維持活動への人的貢献として、自衛隊の参加を可能としました。
そして、同年9月には、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の要請により、カンボジアに自衛隊が派遣され、我が国における本格的な人的支援への道が開かれたのです。
その後、自衛隊の海外派遣は平成5(1993)年のモザンビーク、平成6(1994)年のザイール(現在のコンゴ民主共和国)、平成8(1996)年のゴラン高原、平成14(2002)年の東ティモール、平成16(2004)年のイラク、平成23(2011)年の南スーダンなど継続的に行われ、自衛隊の活躍ぶりが、我が国の世界における信頼度を高めています。
なお、PKO協力法をめぐっては、法案に強硬に反対した社会党や共産党などによって牛歩(ぎゅうほ)戦術が行われたり、社会党の衆議院議員全員が辞職届を出したりするなど、審議引き延ばしを目論(もくろ)んだ議事妨害によって、採決がずれこんだという経緯もありました。
※下記の映像は5月25日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
国と国との本格的な争い毎なら
キレイ事は有り得ないかも知れませんが、
第三者的な立場での人助けであれば
痒い所にも手が届く様な手厚い対応が出来るのは
今のところ
日本の他に右に出る国は無いのではなかろうかと
思います・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
自衛隊の世界における活躍ぶりは我が国の宝ですね。
昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は、国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を開始しました。
炎天下の劣悪な環境の中、海上自衛隊は担当した海域約700平方kmにおいて、「湾岸の夜明け作戦」と呼ばれた機雷除去を行い、9月10日までに、他国が処理できなかった困難な機雷除去を完遂(かんすい)しました。
海上自衛隊の掃海技術は国際社会で高い評価を受け、かつて日本の国旗を除いて謝意を表した広告を掲載したクウェートでも、掃海部隊派遣後には、日本の国旗が新たに他国に加わって印刷された記念切手が発行されるなど、危険を伴(ともな)った人的貢献を行ったことで、外国における我が国の評価がそれまでと一変したのです。
※下記の映像は5月25日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
このお話は、私も当時聞いていて
さすがは、日本人。
与えられた仕事をしっかりとこなし
現地の方たちの心に寄り添う活動を
行っていて素晴らしいなと感動を与えて
貰ったのを覚えております。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もよく覚えています。
海上自衛隊の皆様の活躍ぶりに、それまでの認識が大きく変わりましたよね。
戦後70周年の節目に、4回に分けて大東亜戦争を振り返っている「本物の歴史講座」。2回目となる第48回は「苦悩」と題し、我が国が大東亜戦争を戦わざるを得なくなった様々な背景について、黒田節で分かりやすく紹介します。

(クリックで拡大されます)
講座に参加をご希望の皆様(特に東京講演においては関東在住の方々)は、ブログ右下の「メールフォーム」を活用のうえ事前にご連絡くだされば幸いです。当日の飛び入り参加も歓迎いたします。今回は東京講演の方を先に行いますので、日程や会場などにご注意ください。なお、講座の内容については、これまでと同様に後日にはブログ上で映像とともに発表します。
第48回黒田裕樹の歴史講座
「大東亜戦争その2 ~苦悩」
主催:日系文化振興会
後援:my日本・授業づくりJAPAN
【東京講演】
日時:平成27年5月23日(土) 午後3時より
場所:スター貸会議室 飯田橋 (会場は2階です)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,000円
【大阪講演】
日時:平成27年5月31日(日) 午後2時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第1研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,000円
なお、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。





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