東国の兵士を味方に付けた大海人皇子は、近江や大和へ向かって軍を進めました。近江朝廷側も善戦しましたが、結局は敗北し、大友皇子は自殺しました。大海人皇子が大友皇子を破ったこの戦いを、当時の十干十二支(じっかんじゅうにし)から「壬申の乱」といいます。
大海人皇子が勝利できた最大の原因は、東国の下級役人や地方豪族が皇子に従ったからでした。一方、大友皇子は西国に対して自分の味方になるように説得しましたが、いずれも拒否されました。なぜこのようなことになったのでしょうか。
その理由の一つとしては、天智・大友父子の「反新羅」の外交政策に対する反発が挙げられます。我が国の未来のために、恩讐を越えて新羅との関係を修復しようとする大海人皇子の考えが全国に受けいれられたといえるでしょう。
では、もう一つの理由とは何でしょうか?
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
和の精神をまずは第一と考える日本人の意見が
後押しをしたのですね!
後もう一つですか・・
わかりません(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 和の精神をまずは第一と考える日本人の意見が
> 後押しをしたのですね!
そうなりますね。我が国の平和を第一に考えた結果だと思います。
> 後もう一つですか・・
> わかりません(^^ゞ
さて、なんでしょうか?