我が国とかかわりの深い任那や百済を滅ぼした新羅は確かに憎いですが、その新羅が朝鮮半島を統一しようとする勢いである現状を考えれば、我が国の唐に対する防波堤の意味も込めて、一切のしがらみを捨てて新羅と「大人の関係」を結ぼうというのがその真意でした。
しかし、こうした「現実的」な考えは、「新羅憎し」の感情を優先させる天智天皇や大友皇子には受けいれられず、両者はいつしか対立するようになりました。そして671年10月、天智天皇は大海人皇子を宮廷内に呼びつけられると「天皇の地位を譲る」と仰られました。
「これは罠だ」と直感した大海人皇子はこの誘いを断り、直ちに出家して吉野へ向かい、政治的野心のないことをアピールしました。
天智天皇は同じ年の12月に46歳で崩御されました。天皇の崩御は単なる後継争いだけでなく、我が国の今後の外交路線も含めた大きな流れの中で、避けることの出来ない波乱の予感を漂(ただよ)わせていました。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
弟の方が、一段崇高な考え方をする人物だったのですね。
確かにいつまでも角を突き合わせてばかりでは
何の発展も解決策にもならないでしょうし、それよりも
自国の今後の為には、嫌な相手でも仲良くしていかなければいけないことを先読みしていたとはすごいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
恩讐を越えて、大人の付き合いができるのが国益にかなった外交ですからね。現代の日米軍事同盟のように…。