白村江の戦いの敗北によって、百済の王族以下多くの人々が我が国に亡命し、その後帰化しました。我が国は唐や新羅の報復を恐れて、国境沿いの対馬(つしま)や壱岐(いき)、筑紫(つくし)に当時の兵士にあたる防人(さきもり)を置いたり、九州北部の行政機関であった大宰府(だざいふ)に大規模な水城(みずき=大宰府を守るための堀や土塁のこと)を築いたりしました。
なお、水城は今もその多くが残存しており、現地(福岡県太宰府市)に行けば当時の様子が容易に分かります。
さて、朝鮮半島では668年に高句麗が滅ぼされた後、ついに唐と新羅とが国境を接して争う事態となりました。我が国にも緊張感が高まりましたが、結局は唐や新羅が我が国に攻め寄せることはなく、逆に新羅が我が国の後ろ盾を求めて、唐へ朝貢すると同時に、我が国へも朝貢するようになりました。
※下記の映像は12月21日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると
日本は海に囲まれた島国なので
他国からの攻めを容易に受けることは少ないとは言え、九州地方は大陸からは近い所に位置しているので昔からこうした他国からの侵害を常に警戒していなければ行けなかったという点では苦労も多かった事でしょうし、
関係のない話かも知れませんが、その後の国内での争い事では九州勢が強かったというのは、
そう言った戦力が早くから身についていた
という事は言えないでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、九州時の強さは地理的環境が大きく作用していると思われます。
天孫降臨の伝説も九州の高千穂ですからね。