聖徳太子のご逝去と推古天皇の崩御によって、朝廷で蘇我氏(そがし)が再び政治の実権を握るようになりました。なお、当時の蘇我氏は、蘇我馬子(そがのうまこ)の子である蘇我蝦夷(そがのえみし)に代替わりしていました。
推古天皇の崩御を受け、後継を誰にするかで朝廷内での意見が分かれました。聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を支持する声もあったのですが、結局は蘇我蝦夷が推す田村皇子(たむらのみこ)が、舒明天皇(じょめいてんのう)として即位されました。
舒明天皇の時代の大きな出来事といえば、初めて遣唐使(けんとうし)が送られたことが挙げられます。久しぶりに中華大陸の統一を果たした隋でしたが、無謀な外征や内政の混乱もあって、建国後わずか30年足らずで滅亡しました。そして618年に李淵(りえん)が隋にかわって大陸を統一し、唐(とう)を建国しました。
我が国は、隋と同じように唐に対しても文化の交流をはかるべく、630年に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを遣唐使として送りました。なお、遣唐使はその後も続きますが、ある出来事をきっかけに一時期中断しています。
※下記の映像は12月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
今更でしょうけれど
推古天皇は当時としては桁外れにご長命でいらっしゃったんですね!
驚きました。
それにしても、時の権力者には逆らえなかったのですね。聖徳太子のお子さんが跡継ぎをされていたら
また世の中の流れが変わって居たかもしれませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 推古天皇のご長命は喜ばしいことですが、皇太子でもあられた聖徳太子が先にご逝去されたのが、その後の我が国に少なからぬ影響を与えたのが、何とも言えませんね…。