前首相の病気による急な登板という緊急事態や、就任の際の不透明な問題など、様々な事情があったとはいえ、在任中に大きな失政と言えるものがなかったことから、森内閣の時代が「暗黒」であったと断定するのには無理があります。
しかしながら、当時のマスコミが首相の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)に対して執拗(しつよう)に食い下がり、「神の国発言」を問題視して直後の衆院選に影響を与えたり、えひめ丸の沈没という不幸な事故に便乗して、季節をたがえてまで首相のゴルフプレイを「演出」したりするなど、まさに「やりたい放題」のマスコミによって、森内閣は倒されたともいえるでしょう。
森内閣が総辞職したのは21世紀の最初の年(2001年=平成13年)でしたが、いわゆる「古いタイプ」の政治家であった森首相であったがゆえに、マスコミに敗北した一方で、後の小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)首相や、第二次内閣以降の安倍晋三(あべしんぞう)首相は、マスコミとの情報戦に勝利できる「強い政治家」であるともいえます。
なお、森内閣の実績の一つとして、平成12(2000)年に南九州で起きた口蹄疫(こうていえき)問題の際に、前内閣からの引継ぎによって、短期間かつ最小限の被害で食い止めたことが挙げられます。
ちなみに、10年後の平成22(2010)年に同じ口蹄疫問題が南九州で発生した際には、約30万頭近くの家畜を処分したほか、2,000億円を超える甚大な被害をもたらしましたが、当時は民主党政権でした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 青田です。
残念ながら、20世紀に入って、
政治家は、マスコミをうまく、付き合っていく能力が政治生命に影響するようになりました。
大恐慌時代のアメリカのルーズベルト、
ヒトラー、チャーチルは、ラジオというメディアをうまく、利用しました。
テレビ時代に入ると
ケネディーが、テレビの特性をうまく、利用しました。
私は、日本のマスコミは、大嫌いですが、
残念ながら、
日本の政治家は、マスコミをうまく、利用するのが苦手だと思います。
但し、ネットの台頭で、政治家自身がマスコミを通さず、情報を発信できるようになり、
それが、今日の安倍政権を支えていると思います。(安倍総理は、総裁選の時には、ネットでの人気は、1番ありました。それだけ、情報発信力があったからです。)
私は、逆に情報発信力のない政治家(何も勉強してない政治家)は、生き残れないと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、20世紀に入ってからは、メディアの力は絶大なものがありました。
もしネットがこの世になかったら、それこそ「日本と言う国は10年後には滅亡している」ことが現実となっていたかもしれませんね。
オバrev 確かにマスコミのバイアスがかかった情報によって、大きな誤解を招いていた森元総理ですね。
でもそういうマスコミ対応ができない、古いタイプの政治家は小泉政権が誕生した時点で完全に存在そのものが否定されてしまったように思います。
かと言って、マスコミ対応は出来るけど、政治家としての仕事ができないのも困りますけどね(^_^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、古いタイプの政治家は、マスコミによって存在感が消されたような思いがしますが、だからと言ってマスコミに迎合するような政治家ばかりでは、国益にかなっているとは到底言い難いですよね。
その点、今の安倍首相はネットを上手に活用していると思います。
ぴーち こんばんは!
今年も歴史上の出来事、人物について
詳しく学ぶ事が出来た事、本当に感謝致しておりますm(__)m
マスコミの話が出ておりますが、
これまで自分の中で理解していた出来事は
実は誰かの刷り込みだったりした事については
驚かされました。
誰かに聞かされた、教えて頂いた事を
そのまま鵜呑みにするのではなく、自分自身で
考える力を伝授して下さったのが黒田さんのブログでも有りました。
毎日、毎日欠かさずコメントを頂けた事も
大きな励みとなりました。
感謝の言葉も言い尽くせない程です。
ありがとうございました!
それでは、来年もどうぞ宜しくお願い致します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 昨年もお世話になり、有難うございました。
> マスコミの話が出ておりますが、
> これまで自分の中で理解していた出来事は
> 実は誰かの刷り込みだったりした事については
> 驚かされました。
> 誰かに聞かされた、教えて頂いた事を
> そのまま鵜呑みにするのではなく、自分自身で
> 考える力を伝授して下さったのが黒田さんのブログでも有りました。
有難うございます。
日本国民のそれぞれが、メディア・リテラシーを身につけることの重要性が問われていると思います。
その後、平成13(2001)年2月に、ハワイ沖で日本の高校生の練習船「えひめ丸」が、アメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没し、日本人9名が死亡するという「えひめ丸事故」が起きました。
事故が発生した際、森首相は休暇(きゅうか)でゴルフをプレイ中であり、現地で連絡を受けて一旦(いったん)待機した後、数ホールだけ回って引き上げましたが、マスコミや野党から「事故が起きた際にのんびりとゴルフを楽しむとは何事だ」と叩かれまくりました。
冷静に考えれば、えひめ丸事故そのものは「首相個人の危機管理」ではなく、内閣官房長官に対応を任せればそれで済む話だったのですが、マスコミが森首相のゴルフをプレイする姿を繰(く)り返して放送したため(それも当日とは無関係の夏の日に撮影されたものでした)、首相の悪印象が増幅(ぞうふく)されてしまいました。
かくして、マスコミの行き過ぎともいえる報道の影響を受けて、支持率がさらに低下した森首相は、同年4月26日に内閣を総辞職せざるを得なくなったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
う~ん。。そうですね。
やはり一度悪いレッテルを貼られてしまうと
何から何まで裏目、裏目に物事が進んでしまうものなのかも知れませんね。
火のない所でも煙が立ってしまうような世界なのでしょうね。政界も。
それにしても、マスコミの刷り込みというのは
怖いものですね。これまでは余り気にもとめなかった事ですが・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > う~ん。。そうですね。
> やはり一度悪いレッテルを貼られてしまうと
> 何から何まで裏目、裏目に物事が進んでしまうものなのかも知れませんね。
> 火のない所でも煙が立ってしまうような世界なのでしょうね。政界も。
森首相の場合、最初に植えつけられた「悪印象」が、最後までついて回ったとしか言いようがないですね。
> それにしても、マスコミの刷り込みというのは
> 怖いものですね。これまでは余り気にもとめなかった事ですが・・。
実際に恐ろしいものがあります。第一次安倍政権が倒されたり、民主党政権が誕生したのもマスコミによる「刷り込み」の影響が大でした。そして、かつては我が国が大東亜戦争に進まざるを得なかったのも…。
幸いにして今は「ネット」と言う自由な環境がありますから、大事にしていきたいですね。
えひめ丸事件のアメリカ海軍の対応
青田です。 黒田先生
青田です。
この『えひめ丸事件』について、日本の中で、かなり、批判が起こり、それ自体は、当然だと思います。
しかし、それに乗じて、『アメリカ軍=悪』的な世論も起きました。
しかし、
この時、アメリカ海軍の対応には、驚きました。
当初、アメリカ海軍内では、悪いの『えひめ丸である、アメリカ海軍は、悪くない。』という意見がありましたが、
それを怒鳴りつけた人物がいました。
リチャード・アーミテージ国務副次官です。
その後、アーミテージ国務副次官は
『悪いのは、アメリカ海軍であり、日本側からのどんな要求にも100%従う。』でした。
日本側の要求は、
『遺体の引き揚げは、絶対に機械で行わず、
人間の手を使って、行って欲しい。』でした。
日本の火葬による葬儀の風習、また日本人の感情などに配慮した米国側は
そのために費用を6,000万ドルを投入した。
アメリカ内から、そのことに批判が起こりましたが、アメリカ政府は、それでも日米安保条約の重要性を考えて、日本にかなり、気を遣ってました。
青田さんへ
黒田裕樹 仰られた後日譚については、恥ずかしながら存じ上げませんでした。
こういう観点から事件を見つめなおすのも大切ですね。有難うございます。
しかし、前任者の急病で時間がなかったとはいえ、選挙ではなく、有力議員の話し合いによって森氏が自民党の総裁に就任したという噂が流れたこともあって、森首相の誕生以後、マスコミや野党から集中的にその動静をマークされるようになりました。
そんな中で、首相就任直後の平成12年5月、森首相は神道政治連盟(しんとうせいじれんめい)の国会議員懇談会(こんだんかい)において、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」と発言しました。
神道政治連盟での発言であり、また我が国の歴史に照らしても何ら問題ない内容であったはずが、一部のマスコミや野党を中心に「許されない『神の国発言』」として大々的に非難され、内閣支持率も低下しました。
衆議院の任期満了が目前に迫っていたこともあって、森首相は翌6月に衆議院を解散しましたが、マスコミによって「神の国解散」と名づけられた後の総選挙において、自民党の議席数が単独過半数に届かないという結果をもたらしたのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
確かに森元首相の発言はここぞとばかりに
やり玉に挙げられていました。
どうしても戦争当時の日本の在り方を
連想させるような言葉やニュアンスは
刺激材料になり兼ねませんものね。
けれど、本来天皇というお立場をたまたま戦争という非常事態に軍が都合よく利用しただけで、天皇という存在そのものは
けっして汚れたものではないはずですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですし、本来は政治と無関係であらせられる天皇陛下のご存在を、森首相の「神の国発言」をことさら取り上げることによって汚したのは、むしろマスコミや野党の方ではないでしょうか。
ところで、我が国の「日本」という国号は、689年につくられた飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)によって正式に定められたと考えられていますが、それから約1300年以上を経た現代まで、この国名は全く変わることなく使われ続けています。
チャイナや朝鮮半島などの国々が、王朝が変わるごとに国名が変わってきたことと比較すると、それが特別のことであるのが理解できますね。
我が国の国名が長い年月のあいだ変わっていないのは、チャイナや朝鮮半島などのように王朝が変わって国が途絶えたり、あるいは他の民族にとってかわられたりすることがなかったからです。我が国は世界でもっとも長い歴史を持つ国なのです。
私たち日本国民は、我が国の悠久の歴史を誇りに思うと同時に、子々孫々に至るまで繁栄させるための努力を重ねなければなりません。混迷続く今の世の中であればこそ、一人ひとりの覚悟が問われているのではないでしょうか。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。
(※第45回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[12月29日]からは通常の更新[=平成時代]に戻ります)





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ぴーち こんばんは!
なるほど!
よく中国4千年の歴史が。。などと
言われたりしますが、そう言われてみると
日本という国の名前のままで長い歴史があるのは
我が国が唯一だという事なのですね!
本当に、この伝統だけは守り続けていきたい
ものですね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
1300年以上にわたって受け継がれてきた歴史を、私たちの代で終わらすわけにはいきませんからね。
さて、来る12月27日(土)に大阪府吹田市にて、下記のとおり私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様にもご案内いたします。年の瀬の慌ただしい時期ではありますが、本年最後の講演となりますので、よろしければぜひご参加ください。
第20回楽しく学べる日本の歴史
(大阪府吹田市)
「武士の誕生と院政の展開」
日時:12月27日(土) 14:00~16:00
場所:千里市民センター 8階多目的ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金500円
ちなみに、今後(平成27年1月~)も引き続き私こと黒田裕樹の講演を以下のとおり行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください。
尼崎都市美化推進企業組合主催歴史講座
(兵庫県尼崎市)
「東條英機」
日時:平成27年1月10日(土) 18:30~20:30(開場18:10)
場所:尼崎市立小田地区会館・大会議室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
参加費:金1,000円(資料代含む)
(尼崎市の講演については、主催者に直接お尋ねください。TEL:06-6488-2574)
(※以下は追記にて紹介します)
(香川県高松市) ※四国での講演です
「楽しく学べるわが国の歴史」
日時:平成27年1月12日(月・祝) 14:00~(開場13:30)
場所:アルファあなぶきホール・第2会議室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
参加費:金1,500円(中学生以下無料)
第59回よく分かる歴史講座
(大阪府茨木市)
「日本国憲法の真実」
日時:平成27年1月17日(土) 14:00~16:00
場所:茨木市福祉文化会館 202号室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金500円
第32回ワクワク歴史講座
(大阪府豊能町)
「徳川家康 ~歴史に学んだ男」
日時:平成27年1月18日(日) 14:00~16:30
場所:豊能町立西公民館 中会議室
(※下線部をクリックすると、所在地等が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金500円





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青田です。 青田です。
いよいよ、『東条英機』を講座でされるんですね。
この東条英機については、非常に誤解も多く、
私は、東条英機だけで、かなり、熱くなるテーマです。
青田さんへ
黒田裕樹 東條英機に関しては、ご期待いただければと思います。
ぜひお越しください(笑)。
その他にも、中華の法体系にならった律令や、我が国の歴史書である国史の編纂(へんさん)を開始されたり、我が国初の銭貨(せんか)となる富本銭(ふほんせん)の鋳造を行われたりしました。
外交面では新羅との国交を回復させ、遣新羅使を何度も派遣される一方で、唐との国交を一時的に断絶されました。この結果、我が国は新羅という独立国家をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができたのです。なお、遣唐使の復活は8世紀当初まで待つことになります。
また、天武天皇は自身(=天皇)が中心となる力強い国家体制の確立を目指されて、中華の都城(とじょう)にならった本格的な宮都である藤原京(ふじわらきょう)の造営を開始されるなど、様々な政策を行われましたが、こうした大胆な改革を実現できたのも、壬申の乱によって中央の豪族などの「抵抗勢力」を排除したことで、改新への事業が勢いづいたからだと考えられます。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
下手に対立するよりも、調子の良い相手を上手く
利用して、他国の関係を良くして行こうとした考えは畏れ入りますね^^;
それとは別な話ですが、
広島に黒田選手が戻って来るそうですね!
おめでとうございます♪
オバrev この時代、老いぼれた私の頭に残っている教科書的知識は、天智天皇~天武天皇~聖武天皇ですが、天武天皇の行った改革の中身については教科書には殆ど出てこなかったように思います。
歴史的意味があまりなかったのか、歴史的研究が昔はあまり行われていなかったのか、どうなんでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 下手に対立するよりも、調子の良い相手を上手く
> 利用して、他国の関係を良くして行こうとした考えは畏れ入りますね^^;
仰るとおりですね。
これぞ外交の真髄だと思います。
> それとは別な話ですが、
> 広島に黒田選手が戻って来るそうですね!
> おめでとうございます♪
8年ぶりですからね。本当にうれしい限りです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この時代、老いぼれた私の頭に残っている教科書的知識は、天智天皇~天武天皇~聖武天皇ですが、天武天皇の行った改革の中身については教科書には殆ど出てこなかったように思います。
>
> 歴史的意味があまりなかったのか、歴史的研究が昔はあまり行われていなかったのか、どうなんでしょうか?
他の時代に比べて地味であることが原因かもしれませんね。
あるいは、朝鮮半島との絶妙な外交関係が、今の時代に知られたくないとか…。
一方、民衆の考えに近い下級役人や地方豪族の立場からすれば、中央豪族の私有に甘んじるよりも、大海人皇子を支持して彼の下で国づくりを進めた方が、遥(はる)かに理想的といえました。
これらの理由があったからこそ、一種のクーデターともいえる壬申の乱が成功したのでしょう。なお、大友皇子は、壬申の乱から約1200年後に、明治政府によって「弘文天皇(こうぶんてんのう)」の名を贈られています。
壬申の乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位され、天武天皇(てんむてんのう)となられました。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
いわゆる民主主義政治の先駆けと言える改革を
行ったために勝利したと言う事でしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > いわゆる民主主義政治の先駆けと言える改革を
> 行ったために勝利したと言う事でしょうか?
結論的にはそうなりますね。改新事業の後退は、中央豪族という「既得権者」にとっては旨みがあっても、名もなき国民には不利になるばかりですから。
東国の兵士を味方に付けた大海人皇子は、近江や大和へ向かって軍を進めました。近江朝廷側も善戦しましたが、結局は敗北し、大友皇子は自殺しました。大海人皇子が大友皇子を破ったこの戦いを、当時の十干十二支(じっかんじゅうにし)から「壬申の乱」といいます。
大海人皇子が勝利できた最大の原因は、東国の下級役人や地方豪族が皇子に従ったからでした。一方、大友皇子は西国に対して自分の味方になるように説得しましたが、いずれも拒否されました。なぜこのようなことになったのでしょうか。
その理由の一つとしては、天智・大友父子の「反新羅」の外交政策に対する反発が挙げられます。我が国の未来のために、恩讐を越えて新羅との関係を修復しようとする大海人皇子の考えが全国に受けいれられたといえるでしょう。
では、もう一つの理由とは何でしょうか?
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
和の精神をまずは第一と考える日本人の意見が
後押しをしたのですね!
後もう一つですか・・
わかりません(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 和の精神をまずは第一と考える日本人の意見が
> 後押しをしたのですね!
そうなりますね。我が国の平和を第一に考えた結果だと思います。
> 後もう一つですか・・
> わかりません(^^ゞ
さて、なんでしょうか?
我が国とかかわりの深い任那や百済を滅ぼした新羅は確かに憎いですが、その新羅が朝鮮半島を統一しようとする勢いである現状を考えれば、我が国の唐に対する防波堤の意味も込めて、一切のしがらみを捨てて新羅と「大人の関係」を結ぼうというのがその真意でした。
しかし、こうした「現実的」な考えは、「新羅憎し」の感情を優先させる天智天皇や大友皇子には受けいれられず、両者はいつしか対立するようになりました。そして671年10月、天智天皇は大海人皇子を宮廷内に呼びつけられると「天皇の地位を譲る」と仰られました。
「これは罠だ」と直感した大海人皇子はこの誘いを断り、直ちに出家して吉野へ向かい、政治的野心のないことをアピールしました。
天智天皇は同じ年の12月に46歳で崩御されました。天皇の崩御は単なる後継争いだけでなく、我が国の今後の外交路線も含めた大きな流れの中で、避けることの出来ない波乱の予感を漂(ただよ)わせていました。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
弟の方が、一段崇高な考え方をする人物だったのですね。
確かにいつまでも角を突き合わせてばかりでは
何の発展も解決策にもならないでしょうし、それよりも
自国の今後の為には、嫌な相手でも仲良くしていかなければいけないことを先読みしていたとはすごいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
恩讐を越えて、大人の付き合いができるのが国益にかなった外交ですからね。現代の日米軍事同盟のように…。
まず、668年に我が国で初の本格的な法令となる近江令(おうみりょう)を、中臣鎌足らとともに制定したとされています。ただ、近江令は現存せず、近年ではその存在を疑われている一面もあります。続いて670年には、公地公民制への準備として、我が国初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)がつくられました。
また、671年には漏刻(ろうこく)、つまり水時計が宮廷内に設置され、正確な時を告げるようになったとされています。この日は今の暦に直すと6月10日であり、「時の記念日」として有名ですね。
こうした一方で、天智天皇のご在位中に中臣鎌足が669年に56歳で亡くなりました。鎌足の死の直前に、天智天皇は大織冠(だいしょくかん)の地位と「藤原」の姓を授けられました。鎌足は死後に「藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」と呼ばれ、我が国の歴史にその名を残す藤原氏の始祖となったのです。
※下記の映像は12月28日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
中臣鎌足も寿命が縮まる程の波瀾万丈な人生を送られた割には、随分と長命だったのですね!
そう言えば
歴史のテストの前に
不謹慎な語呂合わせで名前を覚えたのを
思い出しました(^^ゞ
「なまごみのかたまり」
失礼致しましたm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「なまごみのかたまり」
ありましたねぇ(笑)。
不謹慎な語呂合わせも、インパクトがありますからいつまでも覚えられますし、これもまた勉強ですね(^^;