だからこそ、源頼朝(みなもとのよりとも)は鎌倉幕府を名実ともに成立させるために、自身が朝廷から征夷大将軍に任命されることにこだわったとともに、以後の室町幕府や江戸幕府も、頼朝の手法を継承してきたのです。
しかし、ペリーをはじめとする諸外国の勢力が大挙して我が国に現れるといった、幕末における未曾有(みぞう)の国難に際して、江戸幕府は「征夷」、つまり「夷狄(いてき、外国勢力のこと)」を「征伐」するどころか、諸外国の言われるままに不平等条約を結んでしまいました。
征夷大将軍でありながら「攘夷(じょうい)」を行おうともしなかったことが、幕府の権威を著しく低下させ、当時の多くの国民の失望を招くとともに、幕府の為政者(いせいしゃ)としての立場を否定する結果となってしまったともいえるのです。
※下記の映像は11月6日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
つまり井の中の蛙であり、
いざ蓋を開けた時には名ばかりであった事が、失望させた直接の原因だったということですね。
それまでその名の元に跪かされて来た国民からすれば、それまで何の為に従って生きてきたのかと
愕然とさせられますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> つまり井の中の蛙であり、
> いざ蓋を開けた時には名ばかりであった事が、失望させた直接の原因だったということですね。
> それまでその名の元に跪かされて来た国民からすれば、それまで何の為に従って生きてきたのかと
> 愕然とさせられますよね。
残念ながら、そう言わざるを得ないですね。
征夷大将軍の重みを頼朝は理解できても、幕末には形骸化していたことが、悲劇を生んだのかもしれません。