また、それ以前の昭和60(1985)年には、アメリカの呼びかけでIMFの五大国(日本・アメリカ・西ドイツ・フランス・イギリス)による五ヵ国財務相会議(G5)が開かれ、ドル高是正(ぜせい)のための「プラザ合意」が結ばれました。
プラザ合意が成立した背景には、円高ドル安を誘引(ゆういん)することによって日本製品の勢いを挫(くじ)き、対日貿易赤字を減らすと同時に、円高で日本製品が高くなれば、輸出で富を得ている日本経済に大きな打撃を与えられるであろう、という欧米先進国の思惑(おもわく)がありました。
事実、その後の円の価値が2倍近くに跳(は)ね上がり、我が国は一時期「円高不況」と呼ばれた不景気に苦しむことになったのですが、ここから「V字回復」の復活を遂(と)げて、空前の好景気を迎えることになるのです。
なお、G5はその後にカナダ・イタリアを加えて、現在は七ヵ国財務相会議(G7)が開かれるようになっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
他人(他国)の為になる様な思惑なら
いづれ報われるでしょうけれど、
相手の頭を抑えこもうとする思惑は
やはり報われないことが多いでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 他人(他国)の為になる様な思惑なら
> いづれ報われるでしょうけれど、
> 相手の頭を抑えこもうとする思惑は
> やはり報われないことが多いでしょうね。
そのとおりですね。日本を懲らしめるつもりだったのでしょうけれども、我が国がその上をいく回復ぶりを見せたあたりが素晴らしいと思います。
1980年代前半の我が国は、第2次石油危機を省エネルギー化の成功で乗り切ったこともあり、低率ながら安定した成長を続けました。
また、省エネルギー化をもたらした、優れた技術を持つ日本製の工業製品が世界を席巻(せっけん)したことで、我が国の輸出が拡大しましたが、それは同時に、欧米先進国の日本に対する輸入超過となり、特にアメリカは、毎年膨大(ぼうだい)な額の対日貿易赤字を続けました。
このため、アメリカは我が国に自動車などの輸出自主規制を求める一方で、農産物の輸入自由化を強く迫るようになりました。これを貿易摩擦(ぼうえきまさつ)といいます。
アメリカの要求に対して、我が国はウルグアイ=ラウンドでの交渉を通じて、昭和63(1988)年には牛肉とオレンジの輸入自由化を、平成5(1993)年にはコメ市場の部分開放を決定しました。
こうして、我が国に外国産の農作物が広く輸入されるようになりましたが、確かに外国産には価格の安さというメリットがあるものの、コメを中心としていわゆる「国産信仰」も同時に高まったことで、当初のアメリカの思惑(おもわく)は、必ずしも実現したとは言えない状況となっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
外国とのお付き合いって、本当に難しいですね。
ある分野では有益に働いても、何処かで
足を引っ張られてしまったりと・・
何でもかんでも上手く行くわけではありませんが、
食の問題は直接、人間の健康に関係してくる
ものですので、慎重な判断を有しますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 食の問題は、日本人は特に敏感ですからね。
だからこそ、本文のとおり、輸入自由化になっても「国産ブランド」への信仰が高まっているのだと思います。
「千島の奥」は千島列島すべてを意味しますから、明治8(1875)年に樺太・千島交換条約を結び、また明治12(1879)年に沖縄県を設置した後でつくられた歌詞であるということが分かります。ちなみに4番の歌詞は我が国の領土が拡大するたびに変化していきました。
「千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり」
(日清戦争後に台湾を領有)
「台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり」
(日露戦争後に南樺太を領有)
その後、大東亜戦争で我が国が敗戦した際に樺太や台湾を手放(てばな)しただけでなく、千島列島がソビエト連邦(現在のロシア)に不法占拠(ふほうせんきょ)され、また沖縄が長い間アメリカの支配下に置かれたことで「実情に合わない」からと歌われなくなってしまったようです。
しかし、沖縄が返還されてから早や40年以上が経過した現在、我が国固有の領土である北方領土の存在を絶(た)えず意識するためにも、当初の歌詞である「千島の奥も 沖縄も」を堂々と歌い継(つ)ぐべきではないでしょうか。
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※第43回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[8月30日]からは通常の更新[=昭和時代・戦後]に戻ります)
(※追記で「螢の光」の全歌詞をご覧いただけます)
書(ふみ)読む月日 重ねつつ
何時(いつ)しか年も すぎの戸を
開けてぞ今朝は 別れゆく
2.止まるも行くも 限りとて
互(かた)みに思う 千万(ちよろず)の
心の端(はし)を 一言(ひとこと)に
幸(さき)くとばかり 歌うなり
3.筑紫(つくし)の極(きわ)み 陸(みち)の奥(おく)
海山(うみやま)遠く 隔(へだ)つとも
その真心(まごころ)は 隔(へだ)てなく
一つに尽(つ)くせ 国の為(ため)
4.千島(ちしま)の奥(おく)も 沖縄(おきなわ)も
八洲(やしま)の内(うち)の 守りなり
至(いた)らん国に 勲(いさお)しく
努(つと)めよわが背(せ) 恙無(つつがな)く





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ぴーち こんばんは!
確かに日本人の奥ゆかしさは、世界に絶賛されるべき特性かも知れませんが、
世界と切磋琢磨し、また先進国の一国として
歩んでいくことを選んだのなら、
主張していくべき事はしっかり主張するべきですよね。
「何も言わなくても分かるだろう」
と言う小声の主張は、国内では通じても
外国からは甘えではないか?。。くらいにしか思われなくなってしまいますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「何も言わなくても分かるだろう」
> と言う小声の主張は、国内では通じても
> 外国からは甘えではないか?。。くらいにしか思われなくなってしまいますよね。
まさしく仰るとおりです。日本人の「奥ゆかしさ」はあくまで国内でとどめるものであり、外国に対しては積極的にアピールすべきです。
現在の我が国を取り巻く環境は、残念ながら決して良いとは言えません。生き馬の目を抜く国際情勢の中で、いかにして我が国が生き残るのか。そのためにも、我が国の歴史を何としても自分たちの手に取り戻さねばなりません。
歴史を学ぶには、「木を見て、かつ森も見る」姿勢が求められます。目の前の出来事一つひとつを正確に振り返るのみならず、我が国にとって何が有益で、何が不利益になるかを鳥瞰的(ちょうかんてき)に見極める能力も重要なのです。
拙ブログでは、早ければ年内にも「第1部」である通史が一旦は完結しますが、現在予定している「新たな講演形式」も含めて、さらなる「分かりやすくて面白く、かつ楽しい」歴史(公民)教育を追求してまいりますので、今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。
平成26年8月28日 黒田裕樹





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クラチー おおおおお!?
凄い数字ですね!おめでとうございます!
Σ(゜Д゜;)
これも黒田節講演のパワーですかね…!?
これからも応援しております!
(*゚▽゚ノノ゙☆パチパチ
クラチーさんへ
黒田裕樹 田○俊彦ばりの祝福のお言葉、有難うございますm(_ _)m
50万といえどもまだまだ通過点ですので、これからも頑張ります!
オバrev 50万HITおめでとうございま~す\(^o^)/
それにしても凄い数だし、またよくぞ毎日、私と違って濃厚な文章を書き綴って来られましたね。
歴史は単なる暗記でなく、理由があっての結果の積み重ねであり、それらはまた時代を経て繰り返されていて、現代に多くの教訓を示しているという面白さを教えられました。
もうすぐ第一部完結、一旦終止符ということですが、そろそろシングルライフにも終止符を・・・(^m^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
一日も休まずに頑張っていたら、とうとうここまで来てしまいました。
これからも「単なる暗記でない歴史」の普及に努めます。
> もうすぐ第一部完結、一旦終止符ということですが、そろそろシングルライフにも終止符を・・・(^m^;)
第一部が終わっても、ブログの毎日更新は続ける予定ですが、もう一つの方は…(´・ω・`)
ぴーち おめでとうございます!
これからも、末永く
歴史を学ぶ大切さを世の中に
普及させてくださいね^^
応援していますよ♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
次は1,000,000HITを目指して頑張ります(笑)。
歴史を学ぶことの大切さを、もっともっと多くの人々に伝えていきたいですね。
1.螢の光や雪に反射して窓から差し込む月の光を使って、書物を読む日々を重ねていると、いつの間にか年月が過ぎ去っていき、今朝は杉でできた扉を開けてクラスメートと別れていく。
(※「年月が『すぎ』るのと、『すぎ』の戸を開けるのをかけている)
2.故郷に残る人も、出て行く人も、今日限りでお別れということで、互いに思う数限りない心のうちを、「無事であれ」というひと言に込めて歌う。
(※「かたみに」は「互いに」の古語)
では、いよいよ本題に入りましょう。3番の歌詞は、筑紫は九州、陸の奥は陸奥(みちのく)、つまり東北のことですから、「我が国のどこにいようと国のために真心を尽くしなさい」と解釈できますね。
3番が歌われなくなった理由としては、大東亜戦争後に、軍国主義を過剰なまでに排除する風潮が高まったことで、歌詞の「一つに尽くせ国の為」が敬遠されてしまったからのようです。歌詞全体をよく読めば、愛国心を持つとともに相手を思いやり、社会に貢献するという当然の内容だと思うのですが…。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※追記で「螢の光」の全歌詞をご覧いただけます)
書(ふみ)読む月日 重ねつつ
何時(いつ)しか年も すぎの戸を
開けてぞ今朝は 別れゆく
2.止まるも行くも 限りとて
互(かた)みに思う 千万(ちよろず)の
心の端(はし)を 一言(ひとこと)に
幸(さき)くとばかり 歌うなり
3.筑紫(つくし)の極(きわ)み 陸(みち)の奥(おく)
海山(うみやま)遠く 隔(へだ)つとも
その真心(まごころ)は 隔(へだ)てなく
一つに尽(つ)くせ 国の為(ため)
4.千島(ちしま)の奥(おく)も 沖縄(おきなわ)も
八洲(やしま)の内(うち)の 守りなり
至(いた)らん国に 勲(いさお)しく
努(つと)めよわが背(せ) 恙無(つつがな)く





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ぴーち こんばんは!
仰るとおり、日本という国に生まれ
日本人としてこうして生かされていることに
感謝の思いを持つ事は大切だと思います。
そしてその思いを愛国心として
抱くことは1つも悪いことではなく、
むしろこの国の住人として、これまで
生きて来られたという事は
それだけ恵まれていた証拠であり、
国に命を守られて来たと言っても過言では
無いと思います。
その日本のことをもっと大切にして行こうという
考え方はこれからもずっと絶やしたくはありませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰ること、まさにその通りです。
だからこそ、私たちは唱歌の歴史を語り継ぐとともに、螢の光の3番を歌い継がねばなりません。もちろん4番も…。
日本人として郷愁(きょうしゅう)を覚える「故郷」は、北朝鮮による日本人拉致問題の支援者団体(「救う会」など)が開催する集会で、日本人拉致被害者の早期帰国を願って、参加者全員で歌唱することが通例となっています。
なお、歌詞の大意は以下のとおりです。
1.野兎を追ったあの山や、小鮒を釣ったあの川よ。今なお心巡る思い出深き故郷よ。
2.父や母はどうしておいでだろうか、友は変わりなく平穏に暮らしているだろうか。風雨の度に(苦労をする度に、という意味)思い出す故郷よ。
3.自分の夢を叶えて目標を達成できたら、いつの日にか故郷へ帰ろう。山青く水清らかな故郷へ。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※追記で「故郷」の全歌詞をご覧いただけます)
小鮒(こぶな)釣(つ)りし彼(か)の川
夢は今も巡(めぐ)りて
忘れ難き故郷(ふるさと)
2.如何(いか)にいます父母(ちちはは)
恙無(つつがな)しや友がき
雨に風につけても
思ひ出(い)ずる故郷
3.志(こころざし)を果たして
いつの日にか帰らん
山は青き故郷
水は清き故郷





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- 黒田先生
青田です。
この故郷の歌詞は、日本独特のものです。
淡々と自然について、歌っています。
しかし、それを聴いていると、
日本人の心に響きます。
その理由は、日本人が、古来より、自然と共生し、
自然そのもの、全てに霊性(魂)が宿ることを感じてきた文化を持っているからです。
過酷な自然と戦ってきた西洋人には、絶対に理解できません。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
日本人の感性を余すところなく表現した素晴らしい歌詞に、この上ない作曲。
「故郷」が文部省唱歌のみならず、我が国を代表する歌に選ばれる理由がよく分かります。
加えて、7番の「いで大船を乗出して 我は拾わん海の富 いで軍艦に乗組みて 我は護らん 海の国」という歌詞は、北方領土や竹島、あるいは尖閣諸島といった我が国固有の領土を意識させるのに、この上ない「生きた教育」になるのではないでしょうか。
私たちの貴重な財産である唱歌をありのまま歌い継ぐことは当然であるとともに、我が国と国民の未来のためを思えば、それが使命でもあるのです。
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※追記で「われは海の子」の全歌詞をご覧いただけます)
騒(さわ)ぐ磯辺(いそべ)の 松原に
煙(けむり)たなびく ※1苫屋(とまや)こそ
我がなつかしき 住家(すみか)なれ
2.生まれて潮(しお)に 浴(ゆあみ)して
浪(なみ)を子守の 歌と聞き
千里寄せくる 海の気を
吸いて童(わらべ)と なりにけり
3.高く鼻つく 磯(いそ)の香(か)に
不断(ふだん)の花の かおりあり
なぎさの松に 吹く風を
※2いみじき楽(がく)と 我は聞く
4.※3丈余(じょうよ)の※4ろかい 操(あやつ)りて
行手(ゆくて)定めぬ ※5浪まくら
※6百尋(ももひろ)千尋(ちひろ) 海の底
遊びなれたる 庭広し
5.幾年(いくとせ)ここに きたえたる
鉄より堅(かた)き かいなあり
吹く塩風に 黒みたる
はだは赤銅(しゃくどう) さながらに
6.浪にただよう 氷山(ひょうざん)も
来(きた)らば来(きた)れ 恐(おそ)れんや
海まき上(あ)ぐる たつまきも
起(おこ)らば起(おこ)れ 驚かじ
7.いで大船を 乗出(のりだ)して
我は拾わん 海の富(とみ)
いで軍艦に 乗組(のりく)みて
我は護(まも)らん 海の国
※1 苫屋=苫(とま、「むしろ」の意味)で屋根を葺(ふ)いた家のこと
※2 いみじき=立派な、素晴らしい
※3 丈余=一丈(約3m)余りあること
※4 ろかい=船を動かす艪(ろ)と櫂(かい)のこと
※5 浪まくら=船中で旅寝をすること、または「船路(ふなじ)の旅」
※6 尋=長さの単位で、約1.8m(=6尺)





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ぴーち こんばんは!
そう言えば、一昔前まで
テレビのCMか何かで
北方領土は我が国固有の領土です。
と訴えかけていた広告が
有りましたが、いつのまにやら
放送しなくなってしまいましたね。
何かの圧力があったのかどうかは
存じませんが、常にそういう
訴えかけはあるべき姿だと
思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国にとっての敵は、どこから仕掛けてくるか分かったものではありません。
だからこそ、我が国の真の姿を後世に伝える唱歌を大事にしないといけませんね。
「われは海の子」の歌詞をすべて読めば、これが「海洋国家日本に生まれた男子の成長の歌」であることがよく分かります。
1番で故郷である海辺の住家をイメージして、2番から4番までで、幼少期から成長期までの流れを歌った後、5番でたくましく成人した「海の男」と、6番でその心意気を示し、そして7番で海洋国家である我が国日本を護る決意をあらわすという、見事な物語として完結しています。
ところが、大東亜戦争の敗北後に、7番の歌詞が 「国防思想や軍艦が登場するのはケシカラン」という理由でGHQの指示によって教科書から削られてしまい、その流れを受けて戦後の教科書では3番までしか教えられなくなってしまっているのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※追記で「われは海の子」の全歌詞をご覧いただけます)
騒(さわ)ぐ磯辺(いそべ)の 松原に
煙(けむり)たなびく ※1苫屋(とまや)こそ
我がなつかしき 住家(すみか)なれ
2.生まれて潮(しお)に 浴(ゆあみ)して
浪(なみ)を子守の 歌と聞き
千里寄せくる 海の気を
吸いて童(わらべ)と なりにけり
3.高く鼻つく 磯(いそ)の香(か)に
不断(ふだん)の花の かおりあり
なぎさの松に 吹く風を
※2いみじき楽(がく)と 我は聞く
4.※3丈余(じょうよ)の※4ろかい 操(あやつ)りて
行手(ゆくて)定めぬ ※5浪まくら
※6百尋(ももひろ)千尋(ちひろ) 海の底
遊びなれたる 庭広し
5.幾年(いくとせ)ここに きたえたる
鉄より堅(かた)き かいなあり
吹く塩風に 黒みたる
はだは赤銅(しゃくどう) さながらに
6.浪にただよう 氷山(ひょうざん)も
来(きた)らば来(きた)れ 恐(おそ)れんや
海まき上(あ)ぐる たつまきも
起(おこ)らば起(おこ)れ 驚かじ
7.いで大船を 乗出(のりだ)して
我は拾わん 海の富(とみ)
いで軍艦に 乗組(のりく)みて
我は護(まも)らん 海の国
※1 苫屋=苫(とま、「むしろ」の意味)で屋根を葺(ふ)いた家のこと
※2 いみじき=立派な、素晴らしい
※3 丈余=一丈(約3m)余りあること
※4 ろかい=船を動かす艪(ろ)と櫂(かい)のこと
※5 浪まくら=船中で旅寝をすること、または「船路(ふなじ)の旅」
※6 尋=長さの単位で、約1.8m(=6尺)





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ぴーち こんばんは!
以前にも「我は海の子」に関してのお話を
黒田さんは仰っていましたね。
実際にはそれ以外の歌詞が存在するのに
伏せられてしまい、日の目を見られないのは、
哀しい事ですよね。
そういう時代だったとその時は
諦めるしか無かったのでしょうけれど、
もういつまでもそれを引きずっている時では
無いでしょうね。
そろそろ、お蔵入りになってしまったものに
光を充ててあげても良いのではないかと
思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 覚えていてくださり、有難うございます。
仰るとおり、戦後の占領期という異常な時代のことを、いつまでも引きずるのはおかしいと思います。
将来を嘱望(しょくぼう)された滝廉太郎は、明治34年にヨーロッパへと留学しましたが、わずか2ヵ月後に肺結核にかかり、帰国して治療したものの、明治36(1903)年に23歳の若さで夭折(ようせつ)してしまいました。
滝廉太郎の悲運の生涯にも重なる、哀切をおびた非常に悲しげなメロディーである荒城の月は、彼の若死によって伝説となり、発表から110年以上が経過した今もなお、我が国の代表的な歌として、欧米を中心に世界の人々に愛され続けています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
※下記の映像は8月29日までの掲載分をまとめたものです。
(※追記で「荒城の月」の全歌詞をご覧いただけます)
巡(めぐ)る盃(さかずき) かげさして
千代(ちよ)の松が枝(え) わけ出(い)でし
昔の光 いまいずこ
2.秋陣営(あきじんえい)の 霜(しも)の色
鳴きゆく雁(かり)の 数見せて
植(う)うる剣(つるぎ)に 照りそいし
昔の光 いまいずこ
3.いま荒城(こうじょう)の 夜半(よわ)の月
替(かわ)らぬ光 誰(た)がためぞ
垣(かき)に残るは ただ葛(かずら)
松に歌うは ただ嵐(あらし)
4.天上影(てんじょうかげ)は 替(かわ)らねど
栄枯(えいこ)は移る 世の姿
写さんとてか 今もなお
嗚呼(ああ)荒城の 夜半(よわ)の月





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ぴーち こんばんは!
人は死して名を残す。。。
まさに滝廉太郎もその一人だった訳ですか・・
荒城の月は
名曲中の名曲ですものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
元々素晴らしい曲でしたが、滝廉太郎の夭折で伝説の名曲となった。そんな思いがします。
これらの唱歌集で収録された曲では、1年生用で、かつての「小学唱歌集」の「見渡せば」の曲を活かした「むすんでひらいて」や、「ぶんぶんぶん(蜂が飛ぶ)」、3年生用の「小ぎつね」、4年生用の「かえるの合唱」「アマリリス」「夜汽車」、6年生用の「思い出」「よろこびの歌(ベートーベンの第九)」などが有名ですが、実は紹介したすべての曲が外国由来のものです。
その後、教科書がそれまでの国定教科書から、文部省による検定教科書とされたため、民間会社発行の教科書が主流となりました。一部の唱歌は「検定済教科書に必ず採録すべき歌」とされたものの、時代の流れとともに唱歌が歌われなくなってきているのは残念な限りです。
また、GHQの占領政策の悪影響によって、歌詞の書き換えあるいは一部削除を受けたり、中には存在そのものが抹消されたりした数々の歌が、独立回復から60年以上、そして戦後から70年近くも経過しているにもかかわらず、未だに「名誉回復」がなされていないのも大きな問題ではないでしょうか。
ここからは、数々の唱歌の中から有名な数曲を選び、講師である私(黒田裕樹)自身が歌いながら、その詳細を紹介したいと思います。
※下記の映像は8月23日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
何なんでしょうかね?
日本人の考え方って、
特別自分の身に降りかからない
事でなければ、可怪しい事が起こっても
別に気にしないみたいな所が
有りますよね・・
歌の歌詞に関しては
特に「気にもならない」と
思っている人が大多数を占めているのではないかと
思いますね。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
由緒ある唱歌の歴史を汚してはなりません。