さて、来る6月21日(土)に大阪府吹田市にて、下記のとおり私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様にもご案内いたします。よろしければぜひご参加ください。なお、5月以来の6週連続講演も、これで一段落です(笑)。
第14回楽しく学べる日本の歴史
(大阪府吹田市)
「政治史から見た奈良時代」
日時:6月21日(土) 14:00~16:00
場所:千里市民センター 8階多目的ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金500円(学生金300円)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)などで、GHQによる占領政策が転換(てんかん)したことによって、対日講和問題も急速に進展し始めました。
昭和26(1951)年1月に来日した大統領特別顧問(こもん)のダレスは、我が国に対して対日講和七原則を示して、単独(多数)講和や在日米軍の駐留(ちゅうりゅう)などの構想を明らかにするとともに、我が国の再軍備を強く迫(せま)りました。
しかし、当時の吉田茂首相は、日本国憲法第9条によって、我が国が戦争放棄(せんそうほうき)をうたっていることを理由として、再軍備の要求を拒絶(きょぜつ)し、アメリカもこれに同意しました。
こうして我が国は、経済の復興(ふっこう)を最大の目標に掲(かか)げるとともに、国家の防衛をアメリカの軍事力に依存(いそん)するという、戦後日本の基本的な枠組(わくぐ)みを構築(こうちく)したのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
確かに日本の戦争放棄の裏を返せば、
アメリカに全面的に依存すると言う意味に
なりますね。
あの当時は戦争で散々痛めつけられた
後ですので、直ぐにまた軍備を・・・という
目標はさすがに立て辛かったでしょうが、
そろそろ日本もアメリカ依存型の考え方を
崩していっても良い気がしますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 次回(22日)の更新でも明らかにしていますが、当時の我が国を取り巻く環境からすれば、吉田首相の決断も十分理解できると思えます。
政治家の一番重要な仕事は、多くの国民を幸福にすることでもありますからね。