さて、来る6月21日(土)に大阪府吹田市にて、下記のとおり私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様にもご案内いたします。よろしければぜひご参加ください。なお、5月以来の6週連続講演も、これで一段落です(笑)。
第14回楽しく学べる日本の歴史
(大阪府吹田市)
「政治史から見た奈良時代」
日時:6月21日(土) 14:00~16:00
場所:千里市民センター 8階多目的ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金500円(学生金300円)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、官兵衛自身が戦(いくさ)の達人であるとともに、「可能な限り兵力を損なうことなく戦争を終わらせる」ための様々な調略にも長(た)けていましたが、これらは諸外国との外交における大きな力となり得ることでしょう。
優しさや強さと共に、調略といった外交バランスにも優れ、さらには大きな挫折(ざせつ)などの様々な体験から身につけた、内面からにじみ出る「強(したた)かさ」も同時に併(あわ)せ持つ。
そのような人物こそが、我が国を正しい方向へと導く為政者として相応(ふさわ)しいのではないでしょうか。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。
(※第42回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[6月21日]からは通常の更新[=昭和時代・戦後]に戻ります)





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ぴーち こんばんは!
「可能な限り兵力を損なうことなく戦争を終わらせる」
この精神、大東亜戦争の日本軍にも活かして欲しかったですねぇ・・
ほとんど神です
- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛のような名君は、日本史上だけでなく、
世界史上でも、類まれです。
私は、戦国時代の奇跡だと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「可能な限り兵力を損なうことなく戦争を終わらせる」
> この精神、大東亜戦争の日本軍にも活かして欲しかったですねぇ・・
ぴーちさんのお気持ち、私も良くわかります。
緒戦の勝利の段階で講和を結べていれば、と悔やまれますね。
青田さんへ
黒田裕樹 > 黒田官兵衛のような名君は、日本史上だけでなく、
> 世界史上でも、類まれです。
> 私は、戦国時代の奇跡だと思います。
確かに仰るとおりですね。
現代の政治家にこそ、官兵衛のような人材が求められると思います。
しかし、今回の講座を通じて見えてきた官兵衛の実像は「筋を通し続けた武将」であり、彼の「優しさ」が家族に対する愛情や家臣の団結力を高め、さらには周囲の信頼を得ることによって、我が国を平和に導く役割を果たしたといえるでしょう。
また、彼は裏切られて長いあいだ土牢に閉じ込められるという苦しみを味わいましたが、その経験が彼の人間性をより高めるとともに、様々な局面における強(したた)かさを備えていったとも考えられます。
戦国武将として輝かしい出世を遂(と)げた、黒田官兵衛のサクセス・ストーリーを振り返ることによって、私たちは何を得ることができるでしょうか。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
ただの小心から来る心の弱さを「優しさ」だと
誤解して、結局泣きを見る羽目になる事が
有りますが、本当の優しさを見せてくれる人は、
心の強さや広さを持ち合わせているものですよね。
官兵衛はきっと様々な経験から、自分の器を
大きくしていった人物なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、官兵衛は単なる「優しい」武将ではありませんでした。
その詳細については、次回(20日)の更新をご覧ください。
やがて病を得た官兵衛は、慶長9年3月20日(1604年4月19日)に、京都の伏見で59歳の波乱に満ちた生涯を閉じました。以下は官兵衛の辞世の句です。
「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
自分の人生にはもはや思い残すこともなく、伝えるべき言葉もない。後は道に迷うこともなく、成り行きに任せて神のもとに向かうだけであるという、キリシタン大名らしい辞世の句といえそうです。
官兵衛の葬儀はキリスト教式で行われた後、長政によって仏式でも挙行されました。なお、官兵衛亡き後の黒田氏は筑前52万石の大名として、紆余曲折(うよきょくせつ)を経ながらも明治維新まで命脈を保(たも)つこととなりました。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。





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とまと え、黒田官兵衛って、キリシタンだったんですか?
(大河ドラマをちゃんと見てないのバレパレ)
また、以前のように、こちらで歴史の勉強をさせて頂きたいと思います。
よろしくお願いしますm(__)m
とまとさんへ
黒田裕樹 お久しぶりです。
拙ブログも開設以来5年が経過しましたが、何とか毎日更新を続けております。
今後ともよろしくお願いいたします。
ぴーち こんばんは!
官兵衛はキリスト教信者で、その子供には
同じ宗教の相続はされなかったんですか。
出来れば、いづれの宗教にせよ、子供にも
同じものを信じるように残せたら、良かった
かも知れませんが・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 官兵衛の息子である長政は、当初はキリスト教に入信していましたが、幕府の弾圧が厳しくなると棄教しています。官兵衛と違って現実主義者なのかもしれませんね。
家康の養女と結婚した長政は、関ヶ原の戦いにおいて切り込み隊長として西軍に猛攻(もうこう)を加えるなど活躍しましたが、豊前中津にいた官兵衛も、これに呼応(こおう)するかのように、九州で様々な動きを見せました。
中津城の防衛と、自身の判断での出陣を認める旨(むね)を、家康と事前に密約していた官兵衛は、石垣原(いしがきばる)の戦いで大友義統(おおともよしむね)を破り、同じく家康に臣従した加藤清正(かとうきよまさ)と連携(れんけい)して、島津氏に攻め込む構えを見せるなど、堂々たる働きぶりを見せました。
また関ヶ原の以前に、官兵衛と長政とが西軍の有力武将であった吉川広家(きっかわひろいえ)を説得し、本戦において毛利軍が動きを見せなかったなどの功績もあって、長政は筑前国52万石を擁(よう)する大大名となったのです。
なお、長政が中津城に凱旋(がいせん)帰国した際に、喜ぶ長政に対して官兵衛が「家康がお前の右の手を握っている間に、左の手は何をしていた。なぜ左手で家康を刺し殺さなかったのだ」と叱責(しっせき)したとされる話が有名ですが、これは後世の創作と考えられています。
※下記の映像は6月20日までの掲載分をまとめたものです。





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- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛は、どちらかと言えば、豊臣恩顧の大名です。
その黒田官兵衛が、豊臣秀吉の死去から
わずか2年後に起きた関ヶ原の戦いで
東軍についたのは、
「誰が天下を取るのが、世の中のためになるか。」を常に考えていたからだと思います。
これは、私の勘ですが
黒田官兵衛自身は、徳川家康のような性格の悪い陰険な人間は、大嫌いです。(笑)
ただ、これもまた、皮肉な話で、徳川家康の息子の徳川秀忠、結城秀康は、黒田官兵衛のことが大好きで、屋敷を何度も訪れたり、黒田官兵衛が亡くなった後も
黒田長政に黒田官兵衛の生前の教えを何度も尋ねたそうです。
青田さんへ
黒田裕樹 私も官兵衛の現実主義的な考えに賛同します。
確かに家康嫌いの要素がありますね(笑)。息子の長政はどうだったのでしょうか…。
黒田長政は
- 黒田先生
青田です。
黒田長政は、徳川家康が好きだったと思います。
黒田長政は、徳川家康と同じく
正直、性格は、あまり、良くありません。(笑)
〇 宇都宮氏をだまし討ちして、虐殺。
(宇都宮氏の呪いが噂されました。)
〇 徳川家康の養女を妻にしています。
〇 黒田騒動の原因を創りました。
〇 後藤又兵衛を放逐しました。
ぴーち こんばんは!
先頭に立って
世の中を牽引するリーダーシップに長けている
人物と、決してトップでは無いけれど、
そのトップの裏方としてしっかりと支える
縁の下の力持ち的な存在に徹すると成功する
人物が居ますが、
官兵衛は、どうも後者として成功した人物
の一人の様に思えて来ました^^
青田さんへ その2
黒田裕樹 なるほど、黒田長政に関してはご推察の通りかもしれませんね。
彼の活躍で52万石となったものの、すべてが上手くはいかないようです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに官兵衛は裏方向きかもしれませんね。
ただ、彼自身の才能をバックアップしてくれる存在があれば、あるいは大化けできたかもしれません。
文禄(ぶんろく)元(1592)年に始まった1回目の朝鮮出兵たる文禄の役(えき)に際し、官兵衛も軍監(ぐんかん)として渡海(とかい)しましたが、小西行長(こにしゆきなが)や石田三成(いしだみつなり)らとの確執(かくしつ)もあって思うような采配(さいはい)が取れず、文禄2(1593)年の帰国後に秀吉の怒りを買いましたが、官兵衛が出家したこともあって許されました。なお、出家の際に官兵衛は「如水円清(じょすいえんせい)」と号しています。
官兵衛の帰国後、朝鮮との間に一度は和議が成立しましたが、その後こじれたことで、慶長(けいちょう)2(1597)年に秀吉はふたたび朝鮮を攻めました。これを慶長の役と言います。
慶長の役において官兵衛はふたたび渡海し、釜山(プサン)の北に位置する梁山(ヤンサン)城を少数の兵で守りきるなど軍功を挙げたものの、官兵衛が帰国した後に秀吉が慶長3(1598)年に死去したのを理由に、日本軍は朝鮮から撤退しました。
秀吉の死によって、我が国で再び不穏(ふおん)な空気が漂(ただよ)い始めていましたが、時代の流れを読んでいた官兵衛は、徳川家康(とくがわいえやす)に味方する道を選びました。
※下記の映像は6月16日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
さすがの官兵衛も、仲違いする関係の
仲裁もままならないときがあるはずですよね。
秀吉の怒りを買ったとありますが、
それだけ秀吉は官兵衛に対して、多大な信頼を寄せると共に
過大な期待もしていたのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 朝鮮出兵に関しては、若い頃から秀吉を支えてきた武将が多かったため、官兵衛の言うことを聞かなかった、という側面があるようです。
秀吉もそれが分かっていたので、官兵衛を叱責するだけで済ませたのかもしれません。
この後、天正15(1587)年の九州平定によって豊前国(ぶぜんのくに)12万石の大名となった官兵衛は、新たな居城として中津城(なかつじょう)の築城に取りかかりましたが、間もなく領国で起きた一揆(いっき)を無事に鎮圧(ちんあつ)すると、天正17(1589)年には子の長政に44歳で家督を譲(ゆず)りました。
ただし、家督を譲ったといっても隠居(いんきょ)したわけではなく、翌天正18(1590)年の小田原攻(おだわらぜ)めの際には、当主の北条氏直(ほうじょううじなお)を官兵衛自らが説得し、開城へと導きました。
官兵衛の働きによって北条氏は事実上滅亡し、同天正18年に豊臣秀吉はついに自らの手で天下統一を果たすこととなったのです。
※下記の映像は6月16日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーちから黒田裕樹さんへお返事です^^ こんにちは!
人生50年と言われていた時代で
今でこそ44歳などはまだまだ若い世代だと言われていますが、当時は相当晩年になってから家督を譲ったことなのではないでしょうか?
それだけ官兵衛は命燃え尽きるまで、自分を必要としてくれる人物がいる限り、第一線で活躍していこうという思いが強かったのでしょうかね^^
管理人のみ閲覧できます
-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時の44歳は高齢の部類に入りますからね。
秀吉は確かに天下を統一しましたが、この後も大忙しでしたから、まだまだ官兵衛の力を必要としたのでしょうね。
宇都宮氏のだまし討ち
- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛は、大好きな武将ですし、
仁徳もある武将だと思います。
ただ、九州を統治する時に行った
宇都宮鎮房とその一族へのだまし討ちだけは
どうしても、納得できません。(人生最大の汚点)
調略で、宇都宮鎮房とその一族を救うことも出来たと思います。
肥後の統治に失敗して、切腹させられた佐々成政を考えると、黒田官兵衛で、あっても非常手段を使わないと治めるのが、難治の土地だったということでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、九州平定のためには非情な手段が必要だったのかもしれませんね。
さて、来る6月14日(土)に大阪府岸和田市にて、下記のとおり私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様にもご案内いたします。よろしければぜひご参加ください。
日本会議大阪泉州支部歴史講座
(大阪府岸和田市)
「日韓併合の歴史」
日時:6月14日(土) 14:00~16:30
場所:弥栄神社(やえいじんじゃ)
(※下線部をクリックすると、所在地等が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
ちなみに、今後(平成26年6月~)も引き続き私こと黒田裕樹の講演を以下のとおり行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください。
第14回楽しく学べる日本の歴史
(大阪府吹田市)
「政治史から見た奈良時代」
日時:6月21日(土) 14:00~16:00
場所:千里市民センター 8階多目的ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金500円(学生金300円)





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このとき、官兵衛は秀吉とともに中国地方の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)攻略の最中でした。信長の死を知って悲嘆(ひたん)にくれる秀吉に対して、官兵衛は以下のように言いきりました。
「信長公亡き今、貴方様こそが天下を治めるべき人ですぞ」 。
官兵衛が本当にそこまで考えていたかどうかは不明ですが、主君の死で激しく動揺(どうよう)していた秀吉が、官兵衛の一言でショック療法を受けたかのように立ち直り、その後の「中国大返し」を成功させて光秀を討ち果たし、天下取りに名乗りを上げるようになったことだけは間違いありません。
※下記の映像は6月16日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
信長の生き様を垣間見た時、
やはり家臣から裏切られる人物と言うのは、
周りに対しての配慮が足りないように思えてなりません。
官兵衛にはやはり先見の明があったのでしょうね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 その後の彼の生き様が証明しているように、官兵衛に先見の明があったのは間違いないですね。
それだけ官兵衛が優秀だったといえますが、今回の彼の言動にはやはり謎が多いです。
吉川英治の『黒田如水』
- 黒田先生
青田です。
黒田官兵衛を描いた小説では
司馬遼太郎の『播磨灘物語』が有名ですが
吉川英治の『黒田如水』では、
この一言の意味は
『誰だったら、この戦国時代を終わらせることができるかを常に考えていた。』とあります。
黒田官兵衛が、秀吉には、絶対に敵わない力として
『運と魅力』だと常々、考えていたそうです。
その前提での一言だったのでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 > 『誰だったら、この戦国時代を終わらせることができるかを常に考えていた。』
吉川英治らしい展開ですね。
現実にそのとおりになるのですから、官兵衛の思いもそこにあったのかもしれません。
官兵衛が救出された後、翌天正8(1580)年1月には三木城が落城し、信長は播磨平定に向けて大きく前進しました。また、牢内の世話役だった加藤重徳の次男が官兵衛の養子となって黒田一成(くろだかずしげ)と名乗り、後に黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)の一人として活躍することになりました。
また、起請文を書いた一人である母里友信(もりとものぶ)も黒田二十四騎の一人となったほか、民謡「黒田節」のモデルとされるなど、現代でもその名を残しています。
さらには信長を裏切って出奔(しゅっぽん)した主君の小寺氏に対しても、後に子の氏職(うじもと)を客分として迎えるなど厚遇しました。
有岡城での幽閉(ゆうへい)は官兵衛にとって痛恨の出来事ではありましたが、同時に家臣の鉄の団結力など、通常では得難(えがた)い経験を積むことになりました。小寺氏の事実上の滅亡で黒田の姓に復した官兵衛は、その後も秀吉配下として信長の天下統一に貢献することとなったのですが、思わぬ運命が彼を待ち受けていました。
※下記の映像は6月13日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
一度裏切られた人物の子孫といえども
通常でしたら、厚遇などあり得ない事なのでしょうけれど、そこを許す事が出きるということは
度量の広さの何ものでもない気がしますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
官兵衛の度量の広さと優しさが、身内や家臣以外の様々な人々の心を動かしたのだと思えます。