また、露骨(ろこつ)な旧薩摩藩優遇に嫌気(いやけ)がさした貫太郎は、明治36(1903)年に一度は海軍を辞めようとしましたが、その折に届いた「日露関係が緊迫(きんぱく)してきた今こそ、大いに国家のために尽くさなければならない」という父からの手紙に目を覚まし、改めて国家に忠誠を誓いました。
そんな貫太郎を、国家も必要としていました。日清戦争では威海衛(いかいえい)の戦いにおいて小さな水雷艇(すいらいてい)を駆使(くし)して決死の電撃戦(でんげきせん)を敢行し、我が国側の勝利に大きく貢献(こうけん)しました。日露戦争でも部下に猛訓練(もうくんれん)を課した後に、日本海海戦においてロシア戦艦スワロフに魚雷を命中させるなど、彼が率いた駆逐艦(くちくかん)は大活躍しました。
かくして日清・日露の両戦争に多大なる戦果を挙げた貫太郎は、周囲からいつしか「鬼貫太郎」、あるいは「鬼貫」と畏怖(いふ、恐れおののくこと)されるようになりました。その後の貫太郎は出世街道を歩み、大正12(1923)年には海軍大将、翌大正13(1924)年には連合艦隊司令長官(れんごうかんたいしれいちょうかん)、さらに翌大正14(1925)年には海軍軍令部長に就任するなど重職を歴任しました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
世の中は何かと自分にとって敵になるものが
多いですが、
そんなとき、
自分の味方になってくれる人物が一人でも
いれば、どんなに波乱に満ちた人生になろうと
何とか突き進んでいけるものなのだなと改めて
感じるお話ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
信頼できる上司や身内、あるいは仲間の存在は大切だと改めて考えさせられます。