明治維新(めいじいしん)を経て本籍地(ほんせきち)である千葉県東葛飾郡関宿町(ちばけんひがしかつしかぐんせきやどまち、現在の野田市=のだし)に父母とともに転居した貫太郎でしたが、幼年期から少年期の貫太郎は体格の良さとは対照的に大きな声をあげて泣くことが多く、周囲から「泣き貫」と呼ばれていたそうです。
父の由哲は貫太郎を医者として育てたかったそうですが、医者をつらい職業と感じた貫太郎本人にその気はなく、そんな折に新聞記事で我が国の軍艦(ぐんかん)が外国で大歓迎を受けたことを知って「海軍に入れば外国に行ける」と思った貫太郎は、初志貫徹(しょしかんてつ)とばかりに両親を説得して、明治17(1884)年に海軍兵学校に入学しました。
しかし、当時の海軍は薩摩藩(さつまはん)出身の人材が多く、いわば賊軍(ぞくぐん)出身の鈴木貫太郎はその中で辛抱強く過ごさねばならなかったのですが、この折の苦労をバネとして彼はたくましく生き抜き、やがて海軍になくてはならない人物にまで成長することになるのです。





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ぴーち こんばんは!
鬼と呼ばれた人物でも、そういう時期があったんですね!
それでも、同じ泣くにしても、大声で堂々と泣いたとの事で、物事を常に声に出して発していくという
姿勢が根本的に備わっていたのかも知れませんね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 鬼と呼ばれた人物でも、そういう時期があったんですね!
> それでも、同じ泣くにしても、大声で堂々と泣いたとの事で、物事を常に声に出して発していくという
> 姿勢が根本的に備わっていたのかも知れませんね^^
なるほど、「泣き貫」にもそれなりの理由があったということでしょうね。
何事も人生に生かされるのかもしれません。