これを受けて、当時の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣は農地調整法を改正し、在村地主の保有限度を5町歩(ちょうぶ、約5ヘクタール)に制限した第一次農地改革を始めましたが、我が国の共産主義化を目論(もくろ)んでいたソ連が、対日理事会において「政府の改革は不徹底である」と主張し、GHQによる勧告(事実上は命令)をもたらしました。
被占領国家であり、GHQの命令に逆らえなかった我が国では、昭和21(1946)年10月に、第一次吉田茂(よしだしげる)内閣において自作農創設特別措置法(じさくのうそうせつとくべつそちほう)が制定され、昭和22(1947)年3月から昭和25(1950)年7月まで第二次農地改革が実施(じっし)されました。
第二次改革によって不在地主の土地所有が禁止され、在村地主の保有限度が1町歩(約1ヘクタール、ただし北海道は4町歩=約4ヘクタール)に制限されたほか、不在地主はすべての貸付農地が、在村地主は制限を超える部分の農地がそれぞれ政府によって強制的に買い上げられ、小作人(こさくにん)に非常に安い価格で売り渡されました。
なお、該当農地の買収や売渡しは、市町村ごとに小作農5・地主3・自作農2の割合で構成された農地委員会が担当しました。また、山林や原野に関しては、農地改革のような強制的な開放は行われませんでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
山林や原野に対しての開放が行われなかったことでのわが国に対してのメリットはどのようなものがありますか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 山林や原野に対しての開放が行われなかったことでのわが国に対してのメリットはどのようなものがありますか?
詳しくは次回の更新で明らかにしますが、いわゆる「農地のような状態」にならなかったこと、と言えるでしょうか。それだけこの改革は大きな影響を及ぼしているのです。
例えば、昭和23(1948)年2月に325社が過度経済力集中排除法の指定を受けましたが、実際に分割されたのは11社に過ぎませんでした。また、独占禁止法についても、その後の改正で独占の制限が緩和(かんわ)されています。
かくして、我が国では財閥(ざいばつ)そのものは解体されたものの、それぞれの流れをくむ企業の多くがやがて再結集して、大規模な企業グループを形成するようになり、その後の我が国における高度経済成長を支えました。
また近年では、平成9(1997)年に持株会社の設立が解禁されたこともあって、「みずほ」「三菱東京UFJ」「三井住友」の三大メガバンクのように、グループを越えた企業同士の合併や交流なども行われるようになっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
なるほど。
日本の共産主義排除傾向を更に促したのは、
アメリカ側の政策に則っての事でしたか・。
しかし、GHQというのは共産主義的な考え方であったと記憶しているのですが、私の記憶違いなら
ご容赦願います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > しかし、GHQというのは共産主義的な考え方であったと記憶しているのですが、私の記憶違いなら
> ご容赦願います。
いえいえ、間違っていませんよ。GHQそのものは当初は共産主義的考えでした。
その後、世界情勢の変化でアメリカ本国が方針を変更した、ということになります。
翌昭和21(1946)年8月には持株会社整理委員会が始動し、財閥の所有する株式や有価証券を譲(ゆず)り受けて一般に売却(ばいきゃく)するなど、財閥解体の執行(しっこう)機関として活動しました。
昭和22(1947)年4月にはいわゆる独占禁止法(どくせんきんしほう)が公布され、持株会社やトラスト・カルテルなどの独占的企業の結合が禁止されたほか、同年7月には監視機関である公正取引委員会が設置されました。
また、同年12月には過度経済力集中排除法(かどけいざいりょくしゅうちゅうはいじょほう)が公布され、独占的企業の分割・再編成が行われましたが、GHQの主導によるこうした動きは、次第に統制が緩(ゆる)められるようになったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
完全に息の根を止められるのも辛いですが、
こうした「蛇の生殺し」状態も
じわじわと窮屈さが増して来るものですね(^_^;)
けれど、アメリカにとって
日本の息の根を止めなかったことが
どんな影響を齎したのか・・
今後の行方を楽しみにしています。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、じわじわと財閥を追い詰めていくやり方でしたが、結局は自国の都合を優先するあたりが皮肉でもありますね。詳細は次回の更新をご覧ください。
さて、来る4月27日(日)に徳島県徳島市にて、下記のとおり私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様にもご案内いたします。よろしければぜひご参加ください。なお、今回の講演で私(黒田裕樹)は四国初見参となります。
第262回 雑学大学 ~徳島専科~
(徳島県徳島市)
「楽しく学べるわが国の歴史」
日時:4月27日(日) 14:00~16:00
場所:シビックセンター 4F 活動室(4)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
ちなみに、今後(平成26年5月~)も引き続き私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください。
日本会議愛知県本部主催歴史講座
(名古屋市中区)
「徳川宗春 ~吉宗に挑んだ男の真実」
日時:5月17日(土) 13:30~16:00
場所:桜華会館 八重桜の間
(※下線部をクリックすると、所在地や地図へのリンク先に移動できます)
参加料:金1,000円(学生無料)
※東海における初の講演となります。なお、当日の午前中(10:30~)に名古屋城本丸御殿見学会(入場料500円、中学生以下無料)があり、私も参加します。また、午後の講演終了後には懇親会が行われます。





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つねまる 先生こんにちは。校友(恐れ多いです)のつねまるです。
先日来、弊お馬鹿さんブログにご足労いただき御礼申し上げます。
徳島と名古屋初講演、おめでとうございます。
名古屋の宗春さんを取り上げて戴けるなんて、嬉しいです。幕府から罪人の如く扱われても、市民は宗春さんが好きです。
大阪に来てから宗春さんの話をしてもわかってもらえず、「えっと、暴れん坊将軍で中尾彬さんがしてた人」と説明してました。
再建した本丸御殿も行かれるのですね。
我が家には戦争で燃える前の名古屋城の写真があります。
先生のますますのご活躍をお祈り申し上げます。
つねまるさんへ
黒田裕樹 こちらこそお言葉有難うございます。
仰るとおり、宗春公に対する一般的な評価は必ずしも良くはありませんが、今までとは違った面での講演ができればと思っております。
ニノうめ こんにちは
いつもブログのご訪問、
応援を本当にありがとうございます。
誕生日の記事では
お祝いのコメントを寄せて下さりありがとうございました(*^^*)
あたたかいお言葉、とても嬉しかったです!
10代最後となるラスト一年...
悔いなきよう、毎日を大切に過ごしていきたいと思っています☆
ニノうめさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、いつもご訪問くださり有難うございます。
ニノうめさんの益々のご活躍を、ブログを通じて拝見するのを楽しみにしております。
ぴーち おはようございます!
今日は四国に初見参されるんですね^^
徳島の方々もわくわくされていることでしょう♪
ご成功をお祈りしております!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
四国の皆さんがどのような評価をされるか、不安ではありますが頑張ってきます。
オバrev おぉ~!さすが黒田先生!!
四国・東海を制覇とは、全国制覇も近い?
いや中国地方がまだかな??^_^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 > おぉ~!さすが黒田先生!!
> 四国・東海を制覇とは、全国制覇も近い?
> いや中国地方がまだかな??^_^;
ハイ、中国地方はまだです(´・ω・`)
オバrevさんのお力で何とかなりませんでしょうか(^^;
公職追放によって我が国の多くの有益な人材を駆逐(くちく)したGHQが、日本弱体化政策の一環(いっかん)として次に目指したのは、財閥解体(ざいばつかいたい)と土地政策でした。
「貧富の差を憎(にく)むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」ことを目指した共産主義の思想者にとって、財閥の存在は「許されざる宿敵」でしたが、同時に、GHQの立場からも、日本の財閥は「アメリカ全体の敵」に見えました。
なぜなら、最終的には我が国が敗北したとはいえ、天然資源もなく、山だらけの我が国が大東亜戦争を何年も戦い抜いた背景に、豊富な経済力があるとアメリカが考えたからです。
「日本が二度と欧米列強に逆らえないように封(ふう)じ込める」ことを、占領政策において何よりも重要視したGHQは、昭和20(1945)年11月6日に、政府に対して四大財閥(三井・三菱・住友・安田)の即時解体を要求する覚書(おぼえがき)を発して、我が国への大規模な経済統制に踏(ふ)み切りました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
アメリカの睨んだ事は確かに当たっているのでしょうけれど、
その後、その作戦は
どういう道を辿るのでしょうか・・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > アメリカの睨んだ事は確かに当たっているのでしょうけれど、
> その後、その作戦は
> どういう道を辿るのでしょうか・・・。
そうですね。財閥はその後確かに解体されますが、ここでもアメリカの思惑に振り回されることに…。
彼は人生において何度も生命の危機に直面しましたが、奇跡的に生きながらえた後に、我が国を終戦へと導くという一大事業を達成することになったのですが、それはまさに「目に見えぬ大きな力」がもたらした運命と言えるものでもありました。
彼の人生をたどることで、私たちは「国家のために忠誠を誓うとともに、長い歴史と伝統を誇る我が国の将来を案じて、次世代へとタスキをつなごうとする姿勢に、年齢などは関係ない」という「当然のこと」に思いを馳(は)せることができないでしょうか。
振り返れば、戦後70年近くのあいだ、我が国には色々なことがありました。しかし、もし鈴木貫太郎が混迷続く我が国の現状を見れば、彼はいったい何を思うでしょうか。彼自身が命がけで終戦へと導いただけの値打ちが今の我が国にあると、心の底から満足してくださるでしょうか。
鈴木貫太郎の生き様を学ぶことで、私たち日本国民が今すぐにでも「為(な)さねばならないこと」が自然と見えてくるのではないか。私にはそう思えてならないのです。
※下記の映像は4月26日までの掲載分をまとめたものです。
(※第41回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[4月27日]からは通常の更新[=昭和時代・戦後]に戻ります)





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ぴーち こんばんは!
そうですね。。
確かに人間の性というのは元々勝手なもので
平和で何事もなければ、変化を求める気持ちが働き、激動の世の中が続けば、何事も無い平穏な日々を願ったりするものですよね。
この習性は変えられないとするならば、せめて
現代の日本がこれまでになった事の発端には
貫太郎氏の様な人物がいたからこそだと感謝することを認識し、
また彼の功績に思いを馳せることを忘れてはならないのだと
思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私が今回の講演で申し上げたかったのは、鈴木貫太郎首相らが命がけで支えてきた我が国の歴史と伝統を、それを意識することなく我々の代で潰してしまって良いのか、ということです。
歴史を振り返ることは、私たちの未来を明るくするために努力することでもあるのですから。
そして、我が国を終戦へと導いた鈴木内閣も同日に総辞職しました。閣僚から取りまとめた辞表を懐(ふところ)に参内(さんだい)した貫太郎に対して、昭和天皇は優しく仰られました。
「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」。
陛下のお言葉を受けた貫太郎は、自宅に帰ると、陛下から二度までも「よくやってくれたね」とのお言葉をいただいた、と家族に話し、顔を伏せてむせび泣きました。
終戦後の貫太郎は、枢密院議長を再び務めた後に昭和21(1946)年に辞職すると、その後は静かな日々を過ごしましたが、昭和23(1948)年4月17日に、肝臓がんのため満80歳で死去しました。葬儀後に荼毘(だび)に付された彼の遺灰の中に、二・二六事件の際に受けた弾丸が混ざっていたそうです。
※下記の映像は4月26日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
貫太郎首相、当時の80歳としては長命なほうでしたね。
まさに天寿を全うされたという印象です。
それでもこれまでお伺いさせていただいた人生を思い返すと、波乱万丈な人生を歩んで来られたのだなと改めて思いました。
弾丸のお話は、痛々しいですね^_^;
私の祖父も弾丸こそ体には受けなかったものの、
南方の方へ行かされた為に、晩年は
マラリアの後遺症なのか、よく高熱を出していましたっけ・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、鈴木首相の人生は波乱万丈だったと思います。
弾丸の逸話は確かに痛ましいですね。よくぞ80歳まで生きながらえてくださったものです。
「阿南には阿南の考えがあったのだ。気の毒な事をした」。
人望が厚かった阿南陸相の割腹自決は、陸軍全体に大きな衝撃を与え、若干(じゃっかん)の離反(りはん)はあったものの、その後の徹底抗戦への動きを封じることができました。阿南陸相は昭和天皇のご聖断を確かなものにするため、自ら命を絶つとともに、責任の重さから介錯を断って、最期を迎えるまで苦しみ抜いたに違いありません。
陸軍の最高責任者として、戦争への責任などが何かと問題視される阿南陸相ですが、昭和天皇のご聖断を受けて陸軍全体をまとめ上げ、最後にはすべての責任を一人で取ったその潔い姿勢は、立派なものであったというべきでしょう。
また、陛下の侍従長として長く仕えたことで、昭和天皇とまさに阿吽(あうん)の呼吸でご聖断を導き出し、本土決戦による我が国滅亡の危機や、ソ連の参戦による北海道などの侵略をギリギリのタイミングで防ぎきった、貫太郎の政治力も素晴らしいものがありました。
国民のことのみを考え、自らを顧みずに下された昭和天皇のご聖断の背景には、鈴木貫太郎や阿南惟幾といった、かつて陛下に直接仕えた「忠臣」による、我が国への無私(むし、私心や私欲のないこと)の行動もあったのです。
※下記の映像は4月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですか・・。
ご聖断の裏にはそんな重々しいエピソードが
あったとは、考えもしませんでした。
そう考えると、現代のこの日本の発展と平和は
阿南陸相や貫太郎首相の命の上に成り立っている
と言っても過言ではない様な気がして来ます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そう考えると、現代のこの日本の発展と平和は
> 阿南陸相や貫太郎首相の命の上に成り立っている
> と言っても過言ではない様な気がして来ます。
私もそう思います。
昭和天皇のご聖断が素晴らしいのは当然として、陛下を支えた二人の忠臣の存在を、私たちは決して忘れてはならないでしょう。
「私もそう思います。この葉巻は南方の第一線から届いたものですが、私は嗜(たしな)みませんので総理に差し上げます」。
そう言って貫太郎に葉巻を渡すと、阿南陸相は踵(きびす)を返して去ってきました。その後ろ姿を見送りながら、貫太郎は心の中でつぶやきました。
「阿南君は暇乞(いとまご)いに来たのだろう」。
貫太郎の慧眼(けいがん、物事の本質を見抜く鋭い洞察力のこと)どおり、阿南陸相は昭和天皇から拝領(はいりょう)したワイシャツを身に着けると、翌8月15日午前4時40分に、すべての責任を取って割腹(かっぷく)自決しました。想像を絶する痛みや苦しみのなか、阿南陸相は介錯(かいしゃく、とどめを刺して楽にすること)を断り、午前7時10分に絶命しました。以下は血染めの遺書に残された阿南陸相の最期の言葉と辞世の句です。
「一死以テ大罪ヲ謝シ奉(たてまつ)ル 神州不滅ヲ確信シツツ」
「大君(おおきみ)の 深き恵に 浴(あ)みし身は 言いのこすべき 片言(かたこと)もなし」
※下記の映像は4月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですねぇ・・
想像したくない程の
壮絶な場面ですねぇ・・
今日ばかりはノーコメントにさせて
いただきたい気持ちになりましたが、
天皇も阿南陸相のこの様な
責任の取り方にさぞお心を痛まれたことでしょう。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお気持ち、お察しいたします。
事実を述べるときが、時として悲しいこともありますが、陛下のお気持ちに関しては次回の更新で紹介したいと思います。
そして、詔書のすべての手続きが終わった14日午後11時過ぎ、総理大臣室を訪問した阿南陸相は、貫太郎に面会すると以下のように述べました。
「自分が陸軍の代表として強硬な意見を申し上げ続けたことによって、総理に大変ご迷惑をおかけしたことを深くお詫(わ)びします。私の真意はただ一つ、国体を護持したいと考えただけで、他意はございません。この点、何卒(なにとぞ)ご了承ください」。
阿南陸相の言葉を受け、貫太郎はかつての侍従長と侍従武官の関係のように、優しく語りかけました。
「阿南さん、貴方(あなた)の気持ちは私が一番良く分かっているつもりです。長い間本当にありがとうございました。国体はきっと護持されますし、皇室もご安泰(あんたい)ですよ」。
※下記の映像は4月24日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
なにやら今日の場面は
映画のワンシーンを思い浮かべてしまいそうになるいわゆる山場ですね^^
貫太郎首相の懐の深さが際立つお言葉に感銘しました!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なにやら今日の場面は
> 映画のワンシーンを思い浮かべてしまいそうになるいわゆる山場ですね^^
> 貫太郎首相の懐の深さが際立つお言葉に感銘しました!
確かに映画のワンシーンのようですね。
首相と陸相のやり取りは素晴らしいですが、実はこれが…。