これを裏付(うらづ)ける話として、熊本城を結果として落とすことができなかった際、西郷は「熊本の鎮台兵(ちんだいへい)は立派に戦った。これならば、日本全国を挙げて兵にしても決して不可はない」とむしろ喜んだことが伝えられています。
要するに、西郷が激しく戦ったのは、出来たばかりの明治政府を自らの手で潰(つぶ)すためではなく、先述のように急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末に扱おうとした明治政府への「日本精神からの異議申し立て」とともに、武士が築(きず)いた明治維新でありながら、その武士を葬(ほうむ)り去らねばならなかった矛盾(むじゅん)を一身に引き受けての壮絶な「死出(しで)の旅路(たびじ)」だったのです。
これらの目的を達成するために生きながらえてきたと悟(さと)った西郷だからこそ果敢に戦い、そして最期の時を迎(むか)えようとしていました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
人間、どうしても
新しいものに興味が移りがちですし、
それと同時に古いものは忘れ去られる運命であるものだとは思いますが、それまで生かされてきた
日本人の心を簡単に失う訳にはいきませんよね。
新しい潮流が激しい程、それを食い止めようとする思いの強さもまた、相当な力が必要であった事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
特に日本に生まれた私たちは、先人の思いや伝統を捨て去ることはできませんし、そうしてもないがしろにしなければならないときは、まわりまわって必ず帳尻が合うような人生を歩むのではと思います。
一度死んで生き返った西郷さんにとって、ある意味これ以上ない死に場所が西南の役だったのではないでしょうか。