大阪講演は今回から会場が広くなりましたが、多くの参加者の皆様が集まったことで、いつものように熱気ある講演を行うことができました。ただ、講演中の言い間違いにはもっと気を付けたほうが良いかもしれません(笑)。

次回(3月29日)は東京講演を行います。関東の皆様とお会いできることを今回も楽しみにしております!
第41回黒田裕樹の歴史講座(東京講演)
「鈴木貫太郎 ~『鬼貫』と呼ばれた男」
日時:平成26年3月29日(土) 午後3時30分より
場所:スター貸会議室 浅草 (井門浅草ビル5階)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます。なお、ビルの1階には有名なカレー屋さんがあります)
資料代:金1,000円(カンパも受け付けます)
(※今回より資料代を改定いたします)
参加をご希望の方(特に関東在住の方々)は、ブログ右下の「メールフォーム」を活用のうえ事前にご連絡くだされば幸いです。当日の飛び入り参加も歓迎いたします。また、今回の講座の内容については、これまでと同様に後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になってください。
なお、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
さて、来る3月20日(木)に大阪市中央区にて、並びに3月23日(日)に大阪府吹田市にて、下記のとおり私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様にもご案内いたします。よろしければぜひご参加ください。
大阪なにわ経営者漁火会 平成26年3月例会
(大阪市中央区)
「徳川綱吉 ~元禄時代に学ぶ経済学」
日時:3月20日(木) 18:30~ (受付18:00~)
場所:ハートンホテル心斎橋本館 3階
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金2,000円(懇親会参加の場合は合計金6,000円)
(※漁火会会員の方はそれぞれ金1,000円安くなります。なお、会員でない皆様のご参加も大歓迎とのことです)
第11回楽しく学べる日本の歴史
(大阪府吹田市)
「大化の改新と壬申の乱」
日時:3月23日(日) 14:00~16:00
場所:千里市民センター 8階多目的ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金500円
ちなみに、今後(平成26年4月~)も引き続き私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください(詳細はいずれご紹介します)。
(※以下は追記にて紹介します)
ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」。ブログ開設5周年記念講演でもある次回(第41回)は「鈴木貫太郎 ~『鬼貫』と呼ばれた男」と題して、昭和天皇のご聖断によって大東亜戦争を終わらせた鈴木貫太郎首相についてご紹介します。
日清・日露で戦功を挙げた鈴木貫太郎は「鬼貫」とも呼ばれ、海軍大将を経て昭和天皇の侍従長を務め、二・二六事件で重傷を負いましたが奇跡的に回復し、昭和20年4月に77歳で内閣総理大臣に就任すると、様々な困難を乗り越えて我が国を終戦へと導くことに成功しました。
鈴木貫太郎の生涯はまさに波乱の連続ともいえましたが、幾度(いくど)もの修羅場(しゅらば)を乗り越えてきた彼の人生をたどることによって、私たちは「目に見えぬ大きな力」がもたらした奇跡を目にすることができるのです。
次回の歴史講座では鈴木首相の人生を振り返りつつ、明治から終戦までの我が国の大きな歴史の流れを、下記のとおり3月22日(土)には大阪、3月29日(土)には東京でそれぞれ詳(くわ)しく紹介したいと思いますので、多くの皆様のご参加をお願いいたします!
第41回黒田裕樹の歴史講座(ブログ開設5周年記念講演)
「鈴木貫太郎 ~『鬼貫』と呼ばれた男」
日時:(大阪)平成26年3月22日(土) 午後6時より
(東京)平成26年3月29日(土) 午後3時30分より
(※大阪と東京で開始時間が異なります。ご注意ください)
場所:(大阪)大阪市立総合生涯学習センター 第1研修室
(※今回より大阪講演は原則として第1研修室を使用します)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(東京)スター貸会議室 浅草 (井門浅草ビル5階)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます。なお、ビルの1階には有名なカレー屋さんがあります)
資料代:いずれも金1,000円(カンパも受け付けます)
(※今回より資料代を改定いたします)
なお、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
最後に、おなじみのブロともであるクラチーさんからの素晴らしい画像を皆様にご覧いただきます!
(※クラチーさんのブログについては、下線部からご覧いただけます。)






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てっちゃん 黒田裕樹殿、こんばんはお久しぶりにございます。のほほんメモリーの管理人、てっちゃんにございますブログ開設5周年おめでとうございます。
さて、話は変わりまして、なんとか29日の講演会に参上出来そうなので、御報告をかねコメントいたします。
てっちゃんへ
黒田裕樹 これはお懐かしゅうございます。
当日お会いできるのを私も楽しみにしております。
さて、来る3月16日(日)に大阪府豊能町にて、下記のとおり私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様にもご案内いたします。よろしければぜひご参加ください。
第22回ワクワク歴史講座
(大阪府豊能町)
「足利幕府の教訓その3 ~名ばかりの将軍の悲劇」
日時:3月16日(日) 14:00~16:30
場所:豊能町立図書館 集会室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金500円
ちなみに、今後(平成26年3月~)も引き続き私こと黒田裕樹の講演を以下のとおり行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください。
大阪なにわ経営者漁火会 平成26年3月例会
(大阪市中央区)
「徳川綱吉 ~元禄時代に学ぶ経済学」
日時:3月20日(木) 18:30~ (受付18:00~)
場所:ハートンホテル心斎橋本館 3階
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金2,000円(懇親会参加の場合は合計金6,000円)
(※漁火会会員の方はそれぞれ金1,000円安くなります。なお、会員でない皆様のご参加もOKとのことです)
(※以下は追記にて紹介します)
内村の言葉を借りるまでもなく、西郷隆盛こそが武士道精神を貫(つらぬ)き通した「最後のサムライ」であり、その生真面目すぎる生涯に多くの日本人が今もなお尊敬の思いを高めています。
若い頃から様々な苦労や経験を積んできたことで人望篤く信頼の高い大人物となり、自身の力で明治維新を成し遂げたにもかかわらず、そのことを驕(おご)るどころかひたすら無私の精神で生き抜き、最後にはすべての矛盾を一身に引き受け、賊軍として城山の露と消えた西郷隆盛。
彼の人生そのものが日本人の誇りであるとともに、彼の生き様に学ぶことこそが、我が国を立て直す大きな流れにつながるのではないでしょうか。
(※第40回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[3月6日]からは通常の更新[=昭和時代・戦後]に戻ります)





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ぴーち こんにちは!
仰るとおり、人間はどうしても
周りから持て囃されたりすると、驕りが頭角を現してしまう所が有りますものね。
そういう人間の欲をいかに自重し、身を粉にして
他人の役に立てる人物になれるかは、その人の人生経験の有無に関わってくる問題でしょうけれど、凡人にはなかなか真似が出来ない境地です。
なので、尚更、西郷さんの生き様に憧れる人が多いのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 若い頃から苦労を重ねた西郷さんだからこそ、彼のような生き方が出来たのでしょうね。
常人にはとても真似できそうもないからこそ、西郷さんの人柄に憧れるのかもしれません。
生真面目な~!
鹿児島のタク 黒先生へ
最後まで、読ませていただきました。
西郷ドン、もちろん郷土の英雄ですが「豪傑」みたいにとらえている方々が多く、本質はそのとおり「生真面目」な男だったと思います。
どうも有り難うございました。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 今回もお付き合いくださり有難うございます。
仰るとおり、西郷さんは決して豪傑ではなく、細やかな気配りができる生真面目な人だったと思います。
これを記念してつくられたのが上野の銅像(どうぞう)でしたが、軍服姿では西南戦争を想起(そうき)させるという理由で、猟犬(りょうけん)を連れての着流し姿が選ばれたほか、その場所も皇居付近から離(はな)れた上野に置かれることになりました。
また、西郷によって名誉を保(たも)つことができた庄内藩を通じて西郷の教えが一冊の本にまとめられ、明治22年の西郷の名誉回復を機に「南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)」として発刊されました。これは「西郷南洲遺訓」として現代でも入手が可能となっています。
なお「南洲」とは西郷が沖永良部島での文筆活動(ぶんぴつかつどう)で使った名であり、「南の島」という意味ではないかと考えられています。





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ぴーち こんにちは!
なるほど~
西郷さんの銅像は、
あの地に建立されたことも、また服装に関してもも
ちゃんとそれなりの意味があっての事だったのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
あれだけ我が国に貢献し続けてきた西郷さんに対して、いかに賊軍になったとはいえ、扱い方が何とも言えませんよね…。
上野の西郷銅像を見なければ…。
鹿児島のタク 黒田先生へ
上野の西郷ドンの銅像の除幕式に夫人のイトさんが出席されています。除幕の直後…「うちの人(西郷ドン)はこんな人ではなかった…」と言ってしまったのを、近くにいた西郷ドンの実弟、西郷従道は驚いて、その言葉をストップしたそうです。
そのイトさんの真意は、西郷ドンはどんな若輩の人が訪問しても、服装を整え、相手に失礼がないようにしていたからだと言われています。
西郷ドンらしいなと思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 イト夫人の話は私も聞いたことがあります。
時代が許さなかったとはいえ、確かに西郷さんらしくない銅像ですよね。
「晋どん、もうこのへんでよか。俺の首をはねい」。
西郷は別府晋介の介錯(かいしゃく)を受け、波乱(はらん)に満ちた51歳の生涯を終えました。
こうして西南戦争は幕を閉じましたが、半年以上に及んだ長い戦いは、政府が組織した農民や町人上がりの徴兵であっても武人として立派に戦い、戦争のプロである武士に勝るという事実を、実戦を通じて確認できたことに大きな意義がありました。
政府軍に逆らったことで自分の立場が「賊軍(ぞくぐん)」になろうとも、これほど陛下のお役に立てたことはないはずだったからこそ、西郷は「これで本望(ほんもう)である」と思って自らの死を迎えたに違いありません。自らの天命に忠実に生きて十分にその務めを果たし、死に臨んで一点の悔(く)いもなく、さわやかな心境でいられる。これこそが、武士道精神がもたらす「死生観」ではないでしょうか。
なお、西郷の死と呼応(こおう)するかのように、同じ明治10年には木戸孝允が病死し、かつての西郷の盟友(めいゆう)だった大久保利通も翌明治11(1878)年に暗殺され、維新の三傑が相次いでこの世を去り、明治政府は新たな世代によって運営されることになりました。





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ぴーち こんばんは!
なるほど・・・
いつの瞬間も一生懸命に生きている人間は
自分の天命を知ることが出来るのでしょうね。
そしてその天命に従う事で、自分の運命をも素直に
受け容れる事が出来るようになるのでしょう。
人間、最終的には迫り来る自分の死をどう安らかな心境で迎える準備が出来るか・・ですものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「天命に従って人事を尽くす」ことが人間の宿命であることが頭ではわかっていても、いざ実行しようと思ってもなかなかできないのが人間です。
だからこそ、それをやり遂げた西郷さんの偉大さがうかがい知れますね。
これを裏付(うらづ)ける話として、熊本城を結果として落とすことができなかった際、西郷は「熊本の鎮台兵(ちんだいへい)は立派に戦った。これならば、日本全国を挙げて兵にしても決して不可はない」とむしろ喜んだことが伝えられています。
要するに、西郷が激しく戦ったのは、出来たばかりの明治政府を自らの手で潰(つぶ)すためではなく、先述のように急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末に扱おうとした明治政府への「日本精神からの異議申し立て」とともに、武士が築(きず)いた明治維新でありながら、その武士を葬(ほうむ)り去らねばならなかった矛盾(むじゅん)を一身に引き受けての壮絶な「死出(しで)の旅路(たびじ)」だったのです。
これらの目的を達成するために生きながらえてきたと悟(さと)った西郷だからこそ果敢に戦い、そして最期の時を迎(むか)えようとしていました。





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ぴーち こんばんは!
人間、どうしても
新しいものに興味が移りがちですし、
それと同時に古いものは忘れ去られる運命であるものだとは思いますが、それまで生かされてきた
日本人の心を簡単に失う訳にはいきませんよね。
新しい潮流が激しい程、それを食い止めようとする思いの強さもまた、相当な力が必要であった事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
特に日本に生まれた私たちは、先人の思いや伝統を捨て去ることはできませんし、そうしてもないがしろにしなければならないときは、まわりまわって必ず帳尻が合うような人生を歩むのではと思います。
一度死んで生き返った西郷さんにとって、ある意味これ以上ない死に場所が西南の役だったのではないでしょうか。
「死を説(と)き生を説いて、死と生とを弁(べん)ぜず。而(しこう)して死と生とを忘れて死と生との地を説け」。
直訳すれば「死とは何かを説き、生とは何かを説こうとしても、死と生とはわかるものではない。むしろ、死と生とを忘れ、死すべき地と生きるべき地とを説け」となるこの言葉に託(たく)された真意はどこにあるのでしょうか。
人間は「死とは何か」「生とは何か」を抽象的(ちゅうしょうてき)あるいは思弁的(しべんてき、経験によらず思考や論理にのみ基づいていること)に考えても、なかなか真理に到達(とうたつ)できるものではないが、生死の抽象的な思考を一旦脇(わき)に置いて、生死の問題から来る不安を去り、現実的に、あるいは具体的に自分がどこに活路を見出(みいだ)し、どこで死を決すべきかを常に平常心で考え、覚悟できている境地を磨くべきである。
西郷はそのような境地(きょうち)を得ていたのではないでしょうか。ただしこれも現在の私の理解でしかなく、西郷の偉大(いだい)さにもっと触(ふ)れようと試(こころ)みるのであれば、さらなる深い理解が必要であると考えています。
ところで、西郷は決起した際に「おはんらにこの命預けもんそ」と言っていますね。この言葉、普通は逆ではないでしょうか?





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ぴーち こんばんは!
「おはんらにこの命預けもんそ」とは「お前たちに
自分の命を預けるぞ」と言う意味で解釈して
良いのでしょうか?
方言の意味が判らずにすみませんm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「おはんらにこの命預けもんそ」とは「お前たちに
> 自分の命を預けるぞ」と言う意味で解釈して
> 良いのでしょうか?
そのとおりです。
しかし、これから戦いに挑もうとする指揮官の言葉としては逆なんですよね。
その真意はどこにあるのでしょうか。