当日は好天に恵まれた祝日ということもあったのか、いつもに比べるとやや少ないともいえる参加者数ではありましたが、樋口季一郎による「3つの決断」の重要性について十分にご理解いただけたのではないかと自負しております。

次回(11月30日)は大阪講演を行いますので、地元で多数の皆様にお越しいただければと願っております!
第39回黒田裕樹の歴史講座(大阪講演)
「樋口季一郎 ~誇りある救国の決断」
日時:平成25年11月30日(土)午後6時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第3研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金500円(カンパも受け付けます)
ブログをご覧の皆様も、よろしければ是非ご参加ください。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、これまでと同様に後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になってください。
なお、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。





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今日は、有難うございました
- 黒田先生
青田です。
今日は、本当に有難うございました。
今日の講座で
真の『人権尊重(人命尊重)』と『平和(きれいごとでない)』について
学べました。
今回の樋口季一郎、前回の乃木希典という英雄を通して、
本当の『平和』を考える素晴らしい講座だと思いました。
青田さんへ
黒田裕樹 こちらこそありがとうございました。
今後とも講座の運営に精進してまいりたいと思います。
歴史教科書の中には「日本軍が朝鮮人などの女性を強制的に集め、従軍慰安婦として働かせた」と書かれているものが少なくないですが、確かに朝鮮人の慰安婦が存在したのは事実であるものの、彼女らを日本軍が強制連行したという証拠(しょうこ)は一切存在(そんざい)しません。
にもかかわらず、平成5(1993)年に当時の河野洋平(こうのようへい)官房長官(かんぼうちょうかん)が慰安婦募集における強制性を認めたいわゆる「河野談話」を発表したことから、韓国側がこれを根拠(こんきょ)として世界各国に「当時の日本軍が従軍慰安婦を性奴隷(せいどれい)として強制連行した」などと訴(うった)えるなど、我が国の国益は著(いちじる)しく損(そこ)なわれ続けています。
現在では河野談話の根拠となった当時の慰安婦の聞き取り調査があやふやで信頼できないものであったことが産経新聞(さんけいしんぶん)などによって明らかになっていますし、何よりも健全な青少年の育成に欠かせない歴史教科書において、慰安婦の存在自体を掲載(けいさい)することの是非(ぜひ)を考慮(こうりょ)すべきではないでしょうか。
なお、戦後の朝鮮に関する様々な動きに関しては、別の機会に改めて詳(くわ)しく紹介(しょうかい)します。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
どうしていつも日本と言う国は自虐的な発言が
多いのかなと思いますね^^;
自分が有りも罪を被って、「やりました!」と供述しても誰を喜ばせる事になるのでしょうか・・
自己満足?あるいは、自分が罪を求めれば
事が丸く収まるのではないかという逃げの考えから来る弱気な発言?いずれにせよ、有りもしないことを現実の様に認めたら、何処からも罪を問われなくなるはず・・は、考え方が甘かった様ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日本人にありがちな「悪かったかどうか分からないけどとりあえず謝っておけば波風は立たない」という精神を悪用しているといえそうですね。
我が国を格下とみなして溜飲を下げるとともに、ATMのようにカネを引き出させる勢力の思う壺でもあるのですが、ようやく最近になって「悪しき慣習」が見直されつつあるようです。
朝鮮半島では昭和13(1938)年に志願兵の募集が始まりましたが、定員の7倍以上の応募(おうぼ)がありました。その後も驚(おどろ)くべき高倍率が続いて志願者が殺到(さっとう)し、昭和17(1942)年には62.4倍にも達(たっ)しました。
高倍率の背景には一部の下級官吏(かきゅうかんり)による説得があったとされていますが、血書嘆願(けっしょたんがん)して志願する者もいたなど、朝鮮人全体の士気が高かったことは間違(まちが)いなく、こうした流れがあったからこそ、昭和19(1944)年になってからようやく朝鮮半島でも徴兵制が実施(じっし)されたのです。
ちなみに、朝鮮人で兵役に就(つ)いた人々の中には難関を突破(とっぱ)して陸軍士官学校や海軍兵学校に進み、日本軍の将校(しょうこう)となったのも少なくありませんでした。軍の世界においても民族差別が存在しなかった何よりの証拠(しょうこ)ですね。
なお、朝鮮人の将校としては本名のまま陸軍中将(りくぐんちゅうじょう)にまで昇進した洪思翊(こうしよく)が有名ですが、彼は大東亜戦争後にB級戦犯(せんぱん)として裁(さば)かれ、フィリピンで処刑(しょけい)されています。





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ぴーち こんにちは!
今の韓国の徴兵制度はこの時が発端でしたか!
自ら志願してとの事でしたら、尚更他人のせいには出来ませんよね。
(明朝の応援は明日の夜にさせていただきますm(__)m)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今の韓国の徴兵制度はこの時が発端でしたか!
> 自ら志願してとの事でしたら、尚更他人のせいには出来ませんよね。
まさしくその通りです。
こんな前例がありながら、さも戦勝国のようにふるまう姿勢が信じられません。
さて、朝鮮半島で小学校を増やした際に、我が国は李氏朝鮮(りしちょうせん)時代に作られたハングル文字を半島全土へ普及(ふきゅう)させましたが、同時に普及させようとした日本語の方は、朝鮮の人口全体のわずか16%に留(とど)まりました。歴史教科書を中心に「日本は朝鮮人から朝鮮語を奪(うば)った」という主張がよくなされているようですが、事実は全く逆です。
また、同じように「朝鮮人から名前を奪った」とされる、いわゆる「創氏改名(そうしかいめい)」ですが、これも実際には全く逆であって、元々は朝鮮人が日本名を名乗るのを禁止していたのを、1930年代に「同じ日本人でありながら半島の人間が日本名を名乗れないのは差別である」との声が高まったことで昭和14(1939)年に導入(どうにゅう)されたものであり、その件数は届け出期間中に全戸数(ぜんこすう)の79%にまで達しています。
しかも、この制度は日本名を強制させるものではなく、当時の朝鮮総督(ちょうせんそうとく)が「氏の創設は強制ではない」と何度も指示を出しています。また、改名しなかったからといって差別を受けることもなく、新聞紙上において朝鮮名の選手の活躍(かつやく)ぶりを称(たた)える記事が、創氏改名後の当時の大阪朝日新聞に掲載(けいさい)されています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
いつも思う事なのですが、
ある物事に対しての事実が不明瞭であった場合、
人は「こうだったかも知れない」とある程度の想像力を働かせるものですが、その想像力がネガティヴな方向へ走る方と、ポジティヴな方向へ向かう方と両方の考え方に分散したりしますが、
そういうときにその人物(ここでは国全体の体質)基本的な考え方が自ずと表面化するものだなと思います。常に悪いほうへ、あるいは常に自分の都合の良い方へ物事を考えていくと、いづれは孤立するか、または崖っぷちに立たされる可能性も出てくるのでは無いでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、何事も自分の都合どおりに考えているとろくなことがないですね。
かの国もまさに「崖っぷち」に立っているようですが、気付いているのかどうか…。
我が国は併合の段階(だんかい)で朝鮮半島に対してかなりの負担(ふたん)をしていたことになりますね。だとすれば併合後には搾取していたのでしょうか。
事実は全(まった)く逆です。我が国が終戦を迎(むか)えるまでの35年間の統治において、我が国は朝鮮半島に対して約20億円(現在の価値で約60兆円)を支援し続けています。この他にも朝鮮半島への鉄道建設に当時で6,600万円の巨費(きょひ)をかけるなど、軍事関連を除(のぞ)く民間資産は、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部、れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)の調査で53億ドル(現在の価値で約15兆円)にものぼっています。
我が国が朝鮮半島にもたらした資源は金銭などのモノばかりではありません。我が国は併合当時100校に過ぎなかった朝鮮半島における小学校を5,000校にまで増やしました。また、帝国大学(ていこくだいがく)を京城(けいじょう、現在のソウル)に設置(せっち)しましたが、これは大阪や名古屋よりも早かったのです。この他にも京城医学専門学校をはじめとした各種単科大学を設立し、朝鮮人弁護士制度もつくりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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永井由紀子 黒田さま
いつも豊富な情報をありがとうございます。
私も、この活動に入る前(ほんの3年前ぐらいですが)こういった情報は全く知りませんでした。
というか、日本にあまり関心がなかったように思います。
今はネット情報も豊富ですが、風評的な情報も多いことも確かで、信頼できる情報は選ばないといけないと思います。
関係ない話になってしまいましたが、これからも真実の情報、講話をよろしくお願いいたします。
講演がとてもノリが良くて楽しみながら勉強できました。
永井由紀子さんへ
黒田裕樹 こちらこそお言葉有難うございます。
今後とも真実に基づいた情報発信に努めてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
ぴーち おはようございます!
昨日たまたまニュースを見ていましたら、
韓国側の外相が「これまで日本には(金銭的な援助)色々と気を遣って貰ってきたことは認識している」という内容の話をしている模様が映し出されていましたが、これまで何かと反日言動が多かっただけに、急に掌を返した様なあの発言は、何か裏があるのではないかと逆に考えてしまいますが、やはり韓国はアメリカの旗色を常に伺い、尻尾を振っていなければいけない国である事を垣間見る発言であったように、感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、どこかの国に頼らなければ生きていけない国なのでしょう。
20世紀前半は我が国に頼りきりだったという現実でそれは明らかなはず。それなのに…。
では、西欧諸国(せいおうしょこく)やアメリカによって行われたプランテーションや、奴隷制度(どれいせいど)に代表される一方的な植民地支配に対して、我が国は日韓併合(にっかんへいごう)後に朝鮮半島をどのように統治(とうち)したのでしょうか。
こういう場合、一番分かりやすいのは国内における総人口の違(ちが)いを調査することです。なぜなら、もし我が国が朝鮮半島を植民地化して朝鮮の人々を強制的に労働させているのであれば、結果として人口が減少するのが当然だからです。
日韓併合後に我が国が朝鮮半島を統治するために置いた朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)が記録として残した「朝鮮総督府統計年報」によると、併合した明治43(1910)年の朝鮮の人口は1,312万8,780人でした。一方、大東亜戦争末期の昭和19(1944)年では2,512万174人です。
すなわち、わずか35年足らずで朝鮮半島の人口が倍増しているのです。植民地化で朝鮮人が被害(ひがい)を受けているのであれば減っていてもおかしくないのに、逆に2倍になっているのはどうしてでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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鹿児島のタク 人口が増加しているということは、「経済的な発展」があったことが、大きな原因でしょうから…。
こんな話…初めて聞きました
ありがとうございました。
ぴーち おはようございます!
本当ですね~(^^ゞ
こうした統計上の数字からみても、おのずと事実が浮かんで来ますね^^
蟻はアブラムシを飼育しながら共存共栄の世界の中で上手く生きていますが、
自分たちの為にも役立ってくれる生き物への扱いにはそれこそ、一生懸命に尽くしますが、
日本人も自分たちの領土となれば、そこに元々住んでいる人たちへも丁重で親切な対応が出来る人種だと信じたいですね。
虫に例えるな!なんて何処からかお叱りが飛んできてしまうかもしれませんが(^^ゞ
応援凸
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 こちらこそお言葉有難うございます。
先方が如何に嘘八百を並べようとも、こうした事実の積み重ねには絶対にかなうことがありません。
私たちは冷静になって反論すべきですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 虫に例えるな!なんて何処からかお叱りが飛んできてしまうかもしれませんが(^^ゞ
いえいえ、絶妙な例えだと思いますよ(笑)。
事実の積み重ねに対して反対を続ける人々にはふさわしい表現かもしれません(^^;
植民地とは、一般的に「ある国からの移住者によって経済的に開発され、その国の新領土となって本国に従(したが)う地域(ちいき)のこと」を意味しますが、これが世界中で行われるようになったのは、いわゆる大航海時代(だいこうかいじだい)以降に西欧諸国(せいおうしょこく)が海外に乗り出し、アフリカやアメリカ大陸を中心に先住民への侵略(しんりゃく)を始めてからでした。
西欧諸国はアフリカやアメリカ、あるいはアジアの各地域の先住民を従わせて植民地化すると、本国の経済力を高めるために先住民を奴隷(どれい)として強制連行したり、白色人種(はくしょくじんしゅ)にとって都合の良い作物ばかりを育てさせようとしたりしました。
例えば、ブラジルではサトウキビの栽培(さいばい)を広い範囲(はんい)で行わせたり、スリランカでは紅茶を栽培させたりしました。これらの利益のほとんどは本国が吸い上げ、先住民はそれこそ無給に等しい状態で過酷(かこく)な労働を強(し)いられたのです。
なお、このような熱帯(ねったい)・亜熱帯(あねったい)地域の植民地において、奴隷や先住民の安い労働力を使って世界市場に向けた単一の特産的農産物を大量に生産することをプランテーションといいます。プランテーションはその国が輸出によって外貨を得るための唯一(ゆいいつ)の手段となりますから、仮に自然災害(しぜんさいがい)などによって農産物が不作になれば経済が立ち行かなくなるという大きな問題を抱(かか)えています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
「弱い犬程、よく吠える」とは良く言ったものですね。何かに付けえて必要以上に吠えるし、噛みつきもする。
困ったものです。
植民地に関してですが、
動物として生きていく中で「食料は自分の足で稼いで探す」事が本来の生き方であるはずが、そういう苦労を少しでも解消したいという人間の欲が
こういった植民地化という手段を選んだのだと思いますが、いくら地球上の人たちは助け合い、支え合って生きるべきだと説かれたとしても、基本的な生き方を考えた時に、「君作る人。僕食べ人。」という役割分担を勝手に決めるべきではなく、人間は食料を得るためには自分自身の手で足で自分たちの食べる分くらいは、苦労して探したり、労働をしなければいけないはずだと思います。そういう今の日本も他の国々におんぶに抱っこ状態なのが本当は遺憾に思うところですが・・・。
長々と持論を述べてしまい、申し訳ありませんm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「弱い犬程、よく吠える」。まさにその通りですね。
関わり合いを持たされる国もたまったものではありません。
植民地に関してもその通りですね。
我が国の食糧問題ももっと真剣に考えねばならないはずですが…。
戦時下の朝鮮半島に対して、一般的な歴史教科書では「太平洋戦争が激化して我が国の戦局が悪化すると、数十万人の朝鮮人を日本本土に強制連行し、鉱山や土木工事現場などで無理やり働かせました」という記述がみられることが多いようですが、これらは本当のことなのでしょうか。
確かに朝鮮半島や台湾の人々が日本各地の炭鉱や工場で働いたことは事実ですが、それらは昭和14(1939)年7月に制定された国民徴用令(こくみんちょうようれい)に基(もと)づくものであり、しかも台湾では本土と同時に施行(しこう)されたのに対して、朝鮮半島ではしばらく徴用を免除(めんじょ)されていました。その後、戦局の悪化に伴(ともな)って昭和19(1944)年9月から朝鮮の人々にも国民徴用令が適用(てきよう)されましたが、日本本土への徴用が行われたのは昭和20(1945)年3月までの約7ヵ月間だけでした。
つまり、現代の朝鮮の人々がこれまで主張してきたいわゆる「強制連行」は、当時の「日本国民全員」が等しく受けていた「徴用による労働の強制」に過ぎず、しかもその期間は一般的な日本人よりも遥(はる)かに短かったのです。
ちなみに、戦時中に徴用されて我が国に渡航(とこう)し、戦後の昭和34(1959)年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だった事実が国会での質疑(しつぎ)の中で判明(はんめい)しており、しかもその245人は、自分の自由意思によって日本に留(とど)まった者か、あるいは日本生まれであり、日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は、犯罪者(はんざいしゃ)を除(のぞ)いて一人もいなかったということが明らかになっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い・・でしょうかね。
わが国がどんなに正当なことをしようが、
気に入らないという思いの根底がそこに存在する限り、あら捜しに奔走するのがオチという事でしょう。後ろ向き過ぎて、まるで進歩のない話で残念ですが。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お考えに同意いたします。
歴史の真実を目にするとやりきれない思いがしますね。
ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」ですが、次回(第39回)は「樋口季一郎 ~誇りある救国の決断」と題して、自身の決断が我が国の危機を救った樋口将軍についてご紹介(しょうかい)します。
戦時中に多くのユダヤ難民(なんみん)を救った日本人と言えば杉原千畝(すぎはらちうね)を思い浮かべますが、彼よりも2年も前に同じようにユダヤ難民の危機(きき)を救った軍人がいたことを皆(みな)さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。その名を樋口季一郎(ひぐちきいちろう)といいます。
樋口将軍は人道主義の観点から批判(ひはん)を恐(おそ)れずに多くのユダヤ難民を救ったのみならず、絶望視されていたキスカ島の約5,000人もの将兵を生還(せいかん)させることに成功しました。また、我が国が終戦を迎えた後も攻撃を続けたソ連軍を占守島(しゅむしゅとう)にて撃退(げきたい)し、ソ連が目論(もくろ)んでいた北海道占領(せんりょう)の野望を打ち砕(くだ)いたのです。
次回の歴史講座では、誇(ほこ)りある決断を重ねた結果として我が国存亡(そんぼう)の危機を救った英雄たる樋口将軍の生涯(しょうがい)をたどりながら、現代に生きる私たちが活(い)かすべき教訓などについて、下記のとおり11月23日(土・祝)には東京、11月30日(土)には大阪でそれぞれ詳(くわ)しく紹介したいと思いますので、多くの皆様のご参加をお願いいたします!
第39回黒田裕樹の歴史講座
「樋口季一郎 ~誇りある救国の決断」
日時:(東京)平成25年11月23日(土・祝) 午後3時30分より
(大阪)平成25年11月30日(土) 午後6時より
(※東京と大阪で開始時間が異なります。また、今回は東京と大阪の講演順序が逆になっていますのでご注意ください)
場所:(東京)スター貸会議室 浅草 (井門浅草ビル5階)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます。なお、ビルの1階には有名なカレー屋さんがあります)
(大阪)大阪市立総合生涯学習センター 第3研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:いずれも金500円(カンパも受け付けます)
なお、東京・大阪とも講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
最後に、おなじみのブロともであるクラチーさんからの素晴らしい画像を皆様にご覧いただきます!
(※クラチーさんのブログについては、下線部からご覧いただけます。)






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ぴーち おはようござます!
今日は千葉での講演なんですね!
講座は、会場に来てくださる皆様の反応が
ダイレクトに感じられる場でもあるかと思いますので、感動も一入かと思います。今回もまた成功をお祈り致しております。
そうそう!
幕張といえば、あのねずみーランドが直ぐ目の前ではありませんか^^
お帰りの時に寄られてはいかがですか?^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。今日の講演も頑張ります!
「ネズミの国」は昔は何度か行ったことがありますが、今回は時間がなさそうです。残念!
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ぴーち おはようございます!
杉浦千畝といえば、以前
ドラマで「日本のシンドラー」と題して
確か、俳優の反町隆史さんが演じていたのを
記憶していますので、日本人の記憶の中には、やはり杉浦さんの功績の方が有名だと思いますが、それ以前にも活躍なされた方がいらっしゃったのは、私も初めて伺いました。樋口将軍は何故に
杉浦千畝よりも注目されなかったのでしょうか。。何か理由がありそうですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、樋口将軍の功績はなぜか杉原千畝に比べれば評価されることがありません。
その理由も探りながら紹介していければと思っております。
大東亜戦争当時、軍隊に動員された青壮年(せいそうねん)男性は400万人から500万人に達したため、日本国内で生産に必要な労働力は学徒勤労動員(がくときんろうどういん)でも挽回(ばんかい)できないほど慢性的(まんせいてき)に不足しました。また、制海権や制空権を日本軍が喪失(そうしつ)したことで南方諸地域(なんぽうしょちいき)からの海上輸送が困難(こんなん)となったため、軍需(ぐんじゅ)生産に欠かせない鉄鉱石(てっこうせき)や石炭・石油などの物資も欠乏(けつぼう)しました。
このため、我が国の各種の軍需生産力は戦局の悪化につれて急速に低下し、戦場の前線に対する補給も困難になるなど、作戦の遂行(すいこう)すらままならなくなるようになりました。
様々な物資不足は国民生活にも大きな影響(えいきょう)を及(およ)ぼし、衣料では総合切符制(そうごうきっぷせい)が敷(し)かれたものの、切符があっても物(もの)がない状況(じょうきょう)となったり、コメの配給(はいきゅう)も滞(とどこお)ってイモや小麦粉など代用品の割合が増えたりしていきましたが、多くの国民は生活物資の逼迫(ひっぱく)や食糧事情の悪化などの悪条件に耐(た)え、我が国の勝利を信じて協力しました。
なお、国民の多くが食糧不足に悩(なや)まされている現実をお考えになった昭和天皇は、ご自身のお食事に国民と同じ配給を強くお命じになられ、代用食や水団(すいとん)などを進んでお召(め)し上がりになられたそうです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
今でこそ、すいとん料理は色々な野菜や味が工夫され、一つの郷土料理としてメニューに挙げているお店なども多いですが、当時の「すいとん」といえば、とてもとても料理などと言えるものではなく、大変粗末な食べ物だったと伺った事があります。そういえば、今年流行した「まめぶ汁」なども、すいとんの一種でしょうね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の水団は料理というよりも「粗末な代用食」でしたからね。
現代のように様々な工夫ができれば郷土料理にもなりますが…。