東洋艦隊(とうようかんたい)を壊滅状態(かいめつじょうたい)に追い込(こ)んだことで対英戦争の大勢を決した日本軍は、同じ12月10日に海軍がアメリカ領グアム島を占領(せんりょう)すると、フィリピンのルソン島への上陸を皮切りに、フィリピンのミンダナオ島、ウェーク島、イギリス領香港(ホンコン)、マニラ、セレベス島、ラバウル、ニューブリテン島ガスマタ、そして重要な産油地であったオランダ植民地のスマトラ島パレンバンなどに次々と上陸あるいは占領し続けました。
そして翌昭和17(1942)年2月15日にはイギリスのアジア支配の拠点(きょてん)であったシンガポールを陥落(かんらく)し、翌3月にはオランダが支配していたジャワ島バタビア(現在のジャカルタ)を占領してオランダ軍を降伏(こうふく)させました。
同じ3月にはビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)も占領し、インドに向かって快進撃を続けるなど、日本軍は各地でアメリカ・イギリス・オランダ軍を破り、大東亜戦争の緒戦(しょせん)を制しました。
なお、フィリピンでの戦いに敗れた現地司令官のマッカーサーは日本軍に追いつめられて敵前逃亡(てきぜんとうぼう)しましたが、軍歴に消すことのできない汚点(おてん)を残したことで我が国を深く恨(うら)み、後のGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部、れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)による我が国の占領支配に影響(えいきょう)を与えたともいわれています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
マッカーサー元帥は、この時に
日本に対しての敵対心を大きく募らせて
戦争責任の成敗を担うという名目で
あの有名な
日本への上陸場面が生まれたと言うわけですか・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 それだけでは原因ではないと思いますが、人間が感情の動物である以上は避けられない現実だったと思いますね。
もっとも、その感情の一部をくつがえしたのが昭和天皇であられたわけですが…。
大東亜戦争において、我が国は自存自衛(じそんじえい)と東亜新秩序(とうあしんちつじょ)の建設をその目的と定め、戦争遂行(すいこう)に欠かせない資源を確保(かくほ)するためにアメリカやイギリス、オランダが植民地を有する南方諸地域(なんぽうしょちいき)への進出を強めました。
日本の参戦によって同盟国であったドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告(せんせんふこく)し、第二次世界大戦はヨーロッパとアジアを中心として全世界を巻(ま)き込(こ)んだ本格的な戦争となりました。なお、アメリカ・イギリス・ソ連などは連合国と呼(よ)ばれ、日本・ドイツ・イタリアは枢軸国(すうじくこく)と呼ばれました。
なお、大東亜戦争の呼称(こしょう)は戦後にGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部、れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)によって使用が禁止され、太平洋戦争(たいへいようせんそう)と呼ばれるようになりました。最近の歴史教科書では「アジア太平洋戦争」という表記も見られるようです。
しかし、歴史の真実を探究(たんきゅう)するには、特定の重要な事象(じしょう)に関して後世(こうせい)の人間が勝手に名称を改めるというようなことをするべきではありません。名は体を表(あらわ)すと言います。「大東亜戦争」という呼び名で戦った戦争の意味は、その名でしか浮(う)かび上がらせる事は出来ません。従(したが)いまして、当講座では「大東亜戦争」と呼称いたします。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
何でもアメリカの言いなりになるのも良し悪しですよね。アメリカにとって不都合な事を力でねじ伏せて、都合の良い様に変えられてしまう事は
非常に遺憾に思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何でもアメリカの言いなりになるのも良し悪しですよね。アメリカにとって不都合な事を力でねじ伏せて、都合の良い様に変えられてしまう事は
> 非常に遺憾に思います。
そのとおりです。GHQによる占領時は致し方ないとしても、現代に至るまで戦争の呼称がゆがめられることは許されません。
重大な事実をボカしてはならない。
零崎涼介 1937年(昭和12年)9月2日の近衛内閣の閣議で
「支那事変」の呼称と「支那事変は蘆溝橋事件が発端である」
ことが閣議決定され、1941年(昭和16年)12月12日の東條内閣の閣議で
―――――――
今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ
支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス
―――――――
と閣議決定されているので「大東亜戦争」が正式な名称であり、
1942年(昭和17年)2月17日には「支那事変」の呼称を「大東亜戦争」に
改める法律第9号の閣議決定が行われていますので、
法的には大東亜戦争の発端は蘆溝橋事件となるわけですから、
「大東亜戦争の始まり」と題するのであれば
蘆溝橋事件の始まりから説明すべきではないでしょうか?
なぜかというと、一番大事なポイントは、
盧溝橋事件は中国軍から日本軍を攻撃してきたからです。
日本が戦争を始めたわけではないという重大な事実を
教育、マスコミ、政治などがボカし続けているわけですから、
せめてネットなどでは重大な事実を強調したほうがいいと思います。
日本人は欧米と同じように条約によって中国に居留し、
日本軍は欧米と同じように条約によって中国に駐留していました。
1937年7月7日の盧溝橋事件にしても、
1937年8月13日の第二次上海事変にしても、
中国軍から日本を攻撃してきたものです。
第二次上海事変は1937年8月12日未明、蒋介石軍3万人が
1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入し、
上海国際共同租界の日本人居留区域を包囲。
日本領事は1932年・上海休戦協定の締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、中国軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行ないましたが、
反日・親蒋介石で固まっていた列国は
全く取り上げようとはしませんでした。
翌8月13日午前9時半頃、商務印書館付近の中国軍(蒋介石軍)が
日本軍陣地に対し、突如、機関銃による射撃を開始して
日本軍との間で戦闘状態となり、第二次上海事変が始まりました。
(上海には英米仏などの租界もあったのに日本人居留区のみを攻撃してきた)
英米仏は日中両軍の戦闘開始後に、
日本軍と中国軍の両方が上海国際共同租界から撤退することを勧告。
それまでは日本軍も欧米軍と一緒に上海の警備を地区ごとに
役割分担していたのですが、
http://blog-imgs-44-origin.fc2.com/s/e/i/seitousikan/sks_kg_kbtttk.jpg
以後は日本軍を除く英米仏軍などが上海の租界における
治安維持を担当するという理不尽な提案を行ないました。
本来ならば1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入して攻撃してきた
蒋介石軍に対して、日英米仏軍が一致して対処するのが本筋でした。
実際には、この第二次上海事変が支那事変(日中戦争)の始まり
といっても過言ではありません。
法的には大東亜戦争の発端は蘆溝橋事件となりますが、
戦争の原因を考察すれば、
蘆溝橋事件は単なる地方軍閥との軍事衝突事件であり、
しかも蘆溝橋事件は1937年7月11日20:00の
『松井-秦徳純・停戦協定』で終了していますので、
停戦済の軍事衝突事件は蒋介石・中央政府軍が上海を侵略し、
無差別空爆する理由にはなりませんし法的根拠はありません。
たとえ盧溝橋事変が発端だと解釈するにしても、
蘆溝橋事件も第二次上海事変も、
どちらにしても中国軍からの攻撃であり、
それに対して日本軍は応戦・反撃していただけです。
日本本土で援軍(上海派遣軍)が編成され、上海へ向かいました。
蒋介石は日本軍に返り討ちにされて南京に逃げました。
日本軍は追撃して南京を陥落。
蒋介石は武漢に逃げました。
日本軍は追撃して武漢も攻略。
蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました。
日本は何度も何度も和平交渉を申し込んでいました。
アメリカなどは中国の蒋介石(国民党)重慶政府に武器を提供し続け、
資金も提供し続けていたので、
蒋介石は日本からの和平交渉の提案を何度も拒否して
戦争をやめようとしなかったので、
アメリカが中国に武器を輸送していた援蒋ルートを遮断するために、
日本は仏印と平和的に話し合って、日本軍は仏印に進駐。
1940年8月30日の『松岡-アンリ協定』により北部仏印進駐。
1941年7月23日の『日・仏印共同防衛協定』により南部仏印進駐。
するとアメリカが日本への石油禁輸をしました。
石油がないと治安が維持できず、国防できず、経済活動もできなくなるので、
ABCD包囲網【米(America)英(Britain)中(China)オランダ(蘭Dutch)】
の一国であるオランダが支配する蘭印の石油を
日本は武力で確保する決断。
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために、
先手を打って真珠湾を攻撃したので自衛戦争でした。
アメリカは中国軍に日本を攻撃させて代理戦争させていたのであり、
勝ち目がないも何も、日本は攻撃されているから反撃したのです。
1938年(昭和13年)10月26日、
武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が日本軍によって陥落。
支那事変の本格的な戦闘は終了。
以後、米国が支援する蒋介石の重慶政府、
日本が支援する汪兆銘の南京政府、
ソ連が支援する毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争が主流となりました。
汪兆銘は1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れ、
名古屋で治療を受けましたが11月10日、帰らぬ人となり、
翌年、日本は敗れ南京政府は瓦解。
戦後、米国は蒋介石への支援をやめたため毛沢東が勝ち、
蒋介石は台湾へ逃げました。
零崎涼介さんへ
黒田裕樹 ご丁寧なご解説有難うございます。
本文中にもあるように、大東亜戦争が日華事変(支那事変)からの総称であることは私自身も理解しております。
ただし、一般的には日米開戦からの戦争という認識が強いことや、いわゆる「太平洋戦争」というような呼称と厳格に区別する意味においても、この章の名称を決めたことをご理解いただければと思います。
ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」ですが、次回(第38回)は「乃木希典(のぎまれすけ) ~腹を括(くく)ったリーダーの鑑(かがみ)」と題して、東京・乃木坂(のぎざか)にある「乃木神社」のご祭神(さいじん)として現代もなお称(たた)えられる乃木将軍の生涯(しょうがい)についてご紹介(しょうかい)します。
一部の小説などの影響(えいきょう)によって「愚将(ぐしょう)」のイメージが根強い乃木希典将軍ですが、日露戦争(にちろせんそう)において実際に彼が成し遂(と)げたのは「永久要塞(えいきゅうようさい)」と呼(よ)ばれた難攻不落(なんこうふらく)の旅順(りょじゅん)をわずか半年足らずで落とした「大偉業(だいいぎょう)」であったことを皆(みな)さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。
旅順での戦いにおいて数多くの死傷者(ししょうしゃ)を出したのは事実ですが、様々な悪条件が重なっても一切弱音(よわね)を吐(は)かずに「腹を括(くく)った」乃木将軍であったからこそ、彼が率(ひき)いた第三軍は勇敢(ゆうかん)に戦い抜き、また旅順攻略後に敵将の名誉(めいよ)を重んじた乃木将軍の気高(けだか)い精神が世界各国から称賛(しょうさん)されたという真実もあったのです。
次回の歴史講座では、日露戦争における乃木将軍の活躍(かつやく)ぶりを中心として、彼が後の世に遺(のこ)した様々なエピソードやそれにまつわる教訓について、下記のとおり9月28日(土)には大阪、10月5日(土)には東京でそれぞれ詳(くわ)しく紹介したいと思いますので、多くの皆様のご参加をお願いいたします!
第38回黒田裕樹の歴史講座
「乃木希典(のぎまれすけ) ~腹を括(くく)ったリーダーの鑑(かがみ)」
日時:(大阪)平成25年9月28日(土) 午後6時より
(東京)平成25年10月5日(土) 午後3時30分より
(※大阪と東京で開始時間が異なります。ご注意ください)
場所:(大阪)大阪市立総合生涯学習センター 第2研修室
(※いつもの第3研修室ではありません。また、第2研修室は6階です。東側のエレベーターをご利用ください)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(東京)スター貸会議室 浅草 (井門浅草ビル5階)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます。なお、ビルの1階には有名なカレー屋さんがあります)
資料代:いずれも金500円(カンパも受け付けます)
なお、大阪・東京とも講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
最後に、おなじみのブロともであるクラチーさんからの素晴らしい画像を皆様にご覧いただきます!
(※クラチーさんのブログについては、下線部からご覧いただけます。)






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よたろう いつも楽しく歴史を勉強させていただいています。
乃木希典は私の故郷山口、下関、長府が生誕地で学校の行き帰りには乃木神社を通って帰ることもありました。小学校の校長先生が、いつも講話で乃木将軍の逸話を話していました。今ではそんなことは無理でしょうね。
父からも良く話を聞かされ、乃木将軍は私の中ではいつの間にかヒーローになっていました。
9月28日の講演会孫の運動会で行けなくて残念です。一度は、先生の講演会に行きたいと思っています。
ぴーち こんにちは!
今日は講座の日ですね!
お疲れ様です^^
乃木将軍は、私の住む県にもゆかりの
人物ですので、また詳しく勉強させてください^^
凸
よたろうさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
乃木将軍ほど、現代において誤解されている将軍はないと思いますので、じっくりと講座にて検証してみたいと思っております。
機会がございましたら、ぜひ拙講座へお越しください。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。今日(8日)の講座も無事に終えられました。
乃木将軍の講座にもご期待くださいね(^ω^)
影太郎 黒田さん、お早うございます。
旅順には随分前ですが一度だけ
行った事があります。
歴史の資料館などあるのですが
日本人入館禁止のところがあって
驚きました。
203高地も行きましたが、過去に
この場所で激しい戦闘があたのだと思うと
何とも言えない切ない気持ちになりました。
今では観光地ですが旅順は人民解放軍の軍港もあり不思議な場所?といった印象です。
また勉強させてもらいますね^^
影太郎さんへ
黒田裕樹 日本人入館禁止のところがあるとは、さすがは中国ですね。
旅順は今も昔も重要な拠点ですから、複雑な事情があるようです。
管理人のみ閲覧できます
-
球団史上初のCS進出王手!
ロベルト・ジーコ・ロッシ いよいよ、明日だ!
16年振りのAクラス確定で球団史上初のCS進出に今日の中日戦、初回の23点差からの逆転勝利で
王手です!
出雲大社の大遷宮と神宮の式年遷宮の年にCS進出なら 来年から常勝軍団になる予感が。
ロベルト・ジーコ・ロッシさんへ
黒田裕樹 ブログ記事とは直接関係ないですが、私もカープファンですからね(笑)。
今後も頑張っていただきたいものです。
お蔭様をもちまして、9月23日に行われました討論Bar“シチズン”歴史講座「自由民権運動の真実」も盛況のうちに終えることができました。こちらでの講演は2回目になりますが、今回も様々な考えをお持ちの皆様と懇親会を含めて意義ある講演並びに話し合いができたことを何よりも嬉しく感じました。

なお、当日の講演の内容については下記のYouTubeをご覧ください。
ちなみに、今後(平成25年9月~)も引き続き私こと黒田裕樹の講演を以下のとおり行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください。
第5回楽しく学べる日本の歴史
(大阪府吹田市)
「聖徳太子/外交 ~遣隋使に学ぶ」
日時:9月28日(土) 14:00~16:00
場所:千里市民センター 8階多目的ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金500円
(※なお、同日の18時より大阪・梅田で「第38回黒田裕樹の歴史講座」を行います)
第17回ワクワク歴史講座
(大阪府豊能町)
「足利幕府の教訓その1 ~足利尊氏の苦悩」
日時:10月20日(日) 14:00~16:30
場所:光風台自治会館 洋室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金500円
(※以下は追記にて紹介します)
(千葉市美浜区)
「自治基本条例が我が国を滅ぼす ~日本侵略ウイルス条例の恐怖」
日時:11月2日(土) 14:00~16:00
場所:千葉市幕張勤労市民プラザ
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金1,000円





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繰(く)り返しますが、私たち日本国民がルーズベルトの一連の手法を「卑劣(ひれつ)」と断じることは無理もないことです。しかし、それならそれで当時の日本政府の首脳(しゅのう)がなぜルーズベルトに勝てなかったのかということを「反省」する必要も同時にあるのではないでしょうか。
戦いに敗れた相手を罵(ののし)るだけでは、私たちは永遠(えいえん)にその相手には勝てません。もし将来にリベンジの機会があった場合、絶対に負けないようにするには私たちに何が足りないのか。あるいはどの部分を「改良」すれば勝てるのか。
二度と負けられない「次」のためにあらん限りの対策を考え、それを実行することこそが、我が国の輝(かがや)かしい未来を信じて潔(いさぎよ)く散っていった無数の戦死者や犠牲者(ぎせいしゃ)、すなわち「英霊(えいれい)」の皆様に報(むく)いる道ではないでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
120%同感です。
なぜなら、幕末・明治の時の日本も、この日米開戦の直前・直後の時以上の危機的状況だったのに
先人達は、命懸けで、昭和にバトンを繋いでくれたました。
そう考えると、本当は、危機的な状況なのに
危機感のない状況の平和ボケが人材不足を生み出し、悲劇を生んでいる気がします。
そう考えると
まさしく、今の日本は、超危険ですね。(危機的なのに平和ボケ)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
歴史を学ぶことは危機から救われることでもあります。
今こそ正しい歴史を取り戻さねばなりません。
ぴーち こんにちは!
時に負けることも勉強のひとつだと思いました。
アメリカの過去の戦争の事は存じませんが、百戦錬磨であれば有るほど、勝つことだけに固執し、負けたものの気持ちなど全く気づきもせずに闇雲にまた戦争を仕掛ける。
あの9.11以前のアメリカの映画製作は、アメリカが勝利する戦争映画ばかり華々しく製作されていましたが、直接的に本土を狙われた形となったあの事件以降、少しずつアメリカ人の心の中に
人の命の尊さ、儚さ。戦うことへの罪悪感などの
憂いが見られる作品が多く排出されてきています。
悲しみを味わう事は辛いけれど、その分
心に深みが生まれ、人の気持ちが分かる人間が出来あがるものです。
そういう意味も含めて、戦争によって負けたからと言って悔しさばかりを募らせずに
精神的には沢山の人間として大切なものを得られたと思いたいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、アメリカの立場もやはり変わりつつあるようですね。
負けることは仕方がない場合があっても、問題はその後どうするか、でしょうね。
ただし、アメリカのもう一つの悲願であった「東アジアにアメリカの権益を構築(こうちく)する」ことは、ルーズベルトが1945(昭和20)年に急死した後を継(つ)いだトルーマン大統領も果たすことができず、それどころかソ連や中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)といった共産主義国家を戦後に急成長させる結果となりました。
これはルーズベルトの周囲にソ連(=コミンテルン)のスパイが多数存在していたことが原因とされていますが、それ以外にも日本との戦争が長期間にわたり、約10万人という予想外の多数の戦死者を出したことなどが、戦後のルーズベルトの評価(ひょうか)を下げることにつながりました。
ルーズベルト大統領に関する様々な評価を見れば、国益を追求し続けることの難しさや、謀略(ぼうりゃく)を仕掛(しか)けた一方で自分自身が謀略に引っかかっていたことなど、人間の生き様の複雑さや困難さを思い知らされますね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
ルーズベルト大統領は、戦略(事前の計算)という面では、日本の政治家よりも
はるかにあるのですが、
戦略では、予測できない『日本兵の士気の高さ』は
計算できなかったようですね。
(戦争の後半のほうがアメリカ兵の死傷者数は激増しています。)
いわゆる、『日本人の現場力の強さ』です。
ただ、このアメリカの計算だけで、勝てるという神話は、朝鮮戦争、ベトナム戦争でも悉く、狂い
長期的には、アメリカの国力を消耗させています。
歴史から、学ばないのは、アメリカも同様ですね。(だからこそ、真の使える歴史教育が必要なんですが)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
アメリカの経済は確かに回復しましたが、同時に失うものも大きかったことがその後の国家の運営を狂わせましたね。
ぴーち こんばんは!
何事もそうでしょうけれど、最初から
自分の思い通りに事が運ぶなんて事はなかなか出来ないものですよね。
スポーツだとて、前評判ばかり良くても
実際に戦ってみたら、全く相手に通用しなかったなんて話は良くありますしね。
ある程度の予測は立てることが出来ても、
始まってみると苦戦を強いられることは
むしろ計算のうちと考えるのが妥当だったと
思うのですがね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 思い通りに事が運ぶということは通常では有り得ませんからね。
アメリカも策を弄したつもりが、詰めの甘さが更なる困難を呼ぶことになった。
現代もあまり変わっていないようですね。
こうした事態を打開するためには、イギリスの要請(ようせい)を受けて第二次世界大戦に参戦し、戦争がもたらす様々な特需(とくじゅ)によって経済を発展させるしかないとルーズベルトは考えましたが、当時のアメリカは伝統的に孤立主義(こりつしゅぎ)であり、他国の戦争に介入(かいにゅう)することを嫌(きら)っていました。
反戦ムードに満ちた国内の雰囲気(ふんいき)を察(さっ)したルーズベルトは、自(みずか)らの本音(ほんね)を封印(ふういん)して「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と公約し、1940(昭和15)年に三選を果たすと、イギリスなどと連携(れんけい)して日本を挑発(ちょうはつ)し、先制攻撃をさせることでアメリカがヨーロッパ戦線に参戦できるように仕向けました。
ありとあらゆる工作や謀略(ぼうりゃく)を行ったルーズベルトは、最終的にハル・ノートを突(つ)き付けることによって日本に真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)をさせるとともに、現地の司令官だけに情報を流さなかったりしたことでわざと日本を勝たせる(ように見せかける)とともに、空母(くうぼ)や最新鋭(さいしんえい)の軍艦(ぐんかん)を事前に真珠湾から脱出(だっしゅつ)させることで、実際の被害(ひがい)を最小限に食(く)い止めました。
こうしてアメリカの第二次世界大戦への参戦の大義名分(たいぎめいぶん)をつくり出したルーズベルトは、日本大使館の怠慢(たいまん)で国交断絶の通告が遅(おく)れたことも最大限に活用して「リメンバー・パールハーバー」のプロパガンダを完成させ、彼の予想どおりに戦争特需が起きてアメリカ経済は劇的(げきてき)な回復を遂(と)げたのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
この当時、アメリカは、イギリスにたいして
膨大な戦債をつぎこんでいます。
これで、イギリスが、もし、ドイツに負けることがあると、アメリカは、その債務を回収不能になります。
そう考えると、アメリカとしては、何があっても
ヨーロッパでの戦いに参加して、イギリスに勝ってもらわないといけなかったと思います。
そのためには
日本の真珠湾攻撃は、ルーズベルト大統領にとって、絶対に必要だった気がします。
そう考えると
イイか、悪いかという感情論は、別にして、
アメリカ国民にとって、ルーズベルトは、やはり、有能な大統領ということになりますね。
現代の日本の政治家にもこのくらいの『したたかさ』は、必要だと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、世界政治のパワーバランスは我々の想像以上にしたたかです。
我が国も学ぶべきところはしっかり学ぶべきですし、戦国時代にはそれができたはずなのですが…。
アメリカの成長戦略
青田 黒田先生
青田です。
ルーズベルト大統領のニューディール政策が行き詰っていたのを多くの日本人は、知らないですよね。
この当時、アメリカには1000万人の失業者がいました。
第一の矢の金融政策、
第二の矢の財政政策(公共事業で、ダムを建設)
をしていましたが、3本目の矢の成長戦略がなく、
お手上げ状態でした。国の破産も覚悟していました。
その3本目の矢の成長戦略が、軍需産業で、そのおかげで1000万人の失業者が激減したとは
世の中、綺麗ごとだけではいかないですね。
ぴーち こんにちは!
なる程、戦争はアメリカの生き残りを掛けての大きな賭けでもあったわけですか。行き当たりバッタリの作戦ではなく、しっかりと最後のシナリオまで見通しての作戦は、その当時敵国ながら天晴れなりと見なさなければいけませんね。
話が逸れますが、マッカーサー元帥も日本にわざわざ出向いて来たのも、自身が大統領選に勝利する為の戦利品を持ち帰るつもりであった様ですが、さすがに天皇の前ではその野望も影を潜めてしまった様ですね^_^;
青田さんへ その2
黒田裕樹 その通りです。綺麗事だけでは何の解決もありません。
我が国だって戦後に朝鮮戦争の特需があったことで経済が回復しましたからね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 その通りです。我々はルーズベルトを卑劣と罵るだけでなく、彼の行動から様々なことを学ばねばなりません。
マッカーサーについても色々な説がありますね。いずれは紹介できればと思います。
しかし、大統領の行動を卑劣と感じるということは、裏(うら)を返せば我々が第二次世界大戦当時から「全く成長していない」ことを示している、とも言えるのではないでしょうか。
なぜなら、ルーズベルト大統領がアメリカの大統領である以上、彼がアメリカの国益を第一に考え、日本がその障害(しょうがい)になるのであれば取り除(のぞ)こうとするのはむしろ当然だからです。アメリカ側から見れば、彼の一連の行動、すなわち当時のアメリカは少しも悪くありません。
では、当時の世界において「アメリカにとっての最大限の国益」とは何だったのでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田 黒田先生
青田です。
おっしゃる通りですね。
卑劣だと言って、泣いて、恨んでも、
現実を生き抜くことはできません。
これは、現代の日本も、某国にたいして
非難をしますが、具体的、根本的な打ち手を打たないのは、成長してない気がします。
(憲法9条も変えようとせず、アメリカの基地も出て行って欲しいと非難する。)
現代でも、自衛意識の強い
アメリカ人のほうが、現実的な気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 まさに仰るとおりですね。
被害者面ではなく、アメリカの立場で大統領の行動を考えてみたいと思います。
ぴーち こんばんは!
日本人は
やはり日本が母国である以上
被害意識を強く感じたりしますが
結局は、日本もその当時は
鼻っ柱が強いだけの傲慢な存在だったから
その出鼻を見事に挫かれたと言う事でしょうかね。
黒田さんこんにちは
万金丹 真珠湾攻撃とその事実
すっごくおもしろい
毎日時間が短くて
後からゆっくりと拝見しますねm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 結局は、日本もその当時は
> 鼻っ柱が強いだけの傲慢な存在だったから
> その出鼻を見事に挫かれたと言う事でしょうかね。
少なくともアメリカからはそう見えた、という一面はあり得ますね。
当時のアメリカの事情を探りながらさらに続けたいと思います。
万金丹さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
今後ともお楽しみいただければ幸いです。
アメリカ人が怒るのは筋違い
青田です。 黒田先生
青田です。
この真珠湾攻撃について
アメリカ人が怒るのに、違和感を感じます。
というのも、この真珠湾攻撃の50年前まで
カメハメハ大王の一族がハワイを支配する
独立した国だったからです。
それを占領して、勝手にハワイ領にしたのは
アメリカです。
アメリカが太平洋への野望を持ち、海軍の拠点を置いていました。
自分のしていることは棚に置いて、日本を卑怯者と呼ぶのは、お門違いです。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりではありますが、植民地や併合を当然のように行ってきた白人社会ですからね。
自分たちがルールブックと思うからこその傲慢でしょう。
そして我が国が真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)を行うと、チャーチルは「これで戦争に勝った」と心から喜ぶとともに「アメリカが長い間の苦しみから解放された」と後に書かれた自著(じちょ)の中で述(の)べています。
かくしてルーズベルト大統領は、アメリカをヨーロッパ戦線に参加させるために日本をギリギリの状態にまで追い込(こ)み、先制攻撃させるよう罠(わな)を仕掛(しか)けましたが、それは同時に真珠湾攻撃によって戦死した、ハワイの太平洋艦隊(たいへいようかんたい)の兵士たち数千人を「生贄(いけにえ)」にしたことも意味していました。
ルーズベルト大統領の政敵(せいてき)で、当時は野党だった共和党のリーダーを務(つと)めたハミルトン=フィッシュは、後に出版した回顧録(かいころく)の中で「私たちはルーズベルトが欺(あざむ)いて(アメリカを)戦争に導いたなどとは(当時は)疑いもしなかった」と述べています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
戦争で勝利するということは、
正当法で勝利するということは有り得ないのでしょうね。
相手に勝利する。相手よりも優位に立つということは、卑劣で相手が思いも寄らない、もっと言えば人道的に外れた行動を起こさなければ、
勝つことは不可能である気がします。
そういう意味でも、戦争は醜く汚い
人間の醜態を思い切り見せつけられる
現象なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 戦争は外交手段の一種でもありますが、卑劣さという点では他の外交よりも顕著なのかもしれませんね。
当時の我が国のようにどうしようもないところまで追い詰められてしまうこともありますし。
万里ママ 戦争はやはり、一番卑劣な手段です。
先制攻撃、仕掛けさせられたものだとは、
後にならないとわからないのでしょうね。
ルーズベルトの計算
青田 黒田先生
青田です。
真珠湾攻撃について、見落としてはいけないことは
ルーズベルト大統領が、海軍事務官の経験であり、
海軍に愛情を注いだ大統領だったということです。
そのルーズベルトだからこそ、
本当は旧式の軍艦の被害しかなく、空母は、寄港させず、被害を失くできた。
(通常、アメリカ太平洋艦隊の基地で、あんなに被害が少ないはずがない。)
それと、ルーズベルト大統領としては
米国民のプロパガンダとして、大損害と喧伝する必要がありました。
当時のアメリカ国民は、8割が戦争に反対でしたから、相当なショック療法でないと参戦できませんでした。
そのためには、アメリカ人が戦死したと事実は、ルーズベルト大統領は、絶対に条件だったんでしょうね。
そう考えると、残念ながら、この当時の日本の政治家は、ずる賢さ、逞しさという点において
ルーズベルト大統領、チャーチル首相よりも
劣りますね。
やはり、政治家は、誠実な善人だけでは、向いてないですね。
万里ママさんへ
黒田裕樹 仰る一面はありますね。
後になるまで分からないようにするのは確かに卑劣に感じます。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、政治家に誠実さは求められていません。
徳川家康と足利尊氏を比較すればよくわかりますね。
お蔭様をもちまして、9月8日に行われました第43回よく分かる歴史講座「関ヶ原の戦い」には76名の皆様がご参加くださり、会場はほぼ満席となりました。「歴史のif」を交えた関ヶ原の戦いに関する様々な考察につきまして、多くの皆様にお楽しみいただけたのではないかと自負しております。

なお、当日の講演の内容については下記のYouTubeをご覧ください。
ちなみに、今後(平成25年9月~)も引き続き私こと黒田裕樹の講演を以下のとおり行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください。
討論Bar“シチズン”歴史講座
(大阪市浪速区)
「自由民権運動の真実」
日時:9月23日(月・祝) 15:00~18:00
(※質疑応答等の時間を含みます。また、講演会終了後に親睦会を行います)
場所:討論Bar“シチズン”
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
参加費:予約金1,000円、当日金1,200円(大学生以下金800円)
(※親睦会参加の方は別途金2,000円)
上記講演は定員25名で、満員になり次第受付を終了します。
詳しくはこちらのリンク先をご参照ください。
第5回楽しく学べる日本の歴史
(大阪府吹田市)
「聖徳太子/外交 ~遣隋使に学ぶ」
日時:9月28日(土) 14:00~16:00
場所:千里市民センター 8階多目的ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金500円
(※なお、同日の18時より大阪・梅田で「第38回黒田裕樹の歴史講座」を行います)
(※以下は追記にて紹介します)
(大阪府豊能町)
「足利幕府の教訓その1 ~足利尊氏の苦悩」
日時:10月20日(日) 14:00~16:30
場所:光風台自治会館 洋室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金500円
第1回真正保守草莽会 勉強会
(千葉市美浜区)
「自治基本条例が我が国を滅ぼす ~日本侵略ウイルス条例の恐怖」
日時:11月2日(土) 14:00~16:00
場所:千葉市幕張勤労市民プラザ
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金1,000円





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ぴーち おおおおお!!!!
76名とは、素晴らしい!!!
あと少しで3桁じゃないですか!!
ぜひとも、3桁・いや、こうなったら4桁も
夢ではありませんね♪
これからも講座、頑張ってください!!
そして一人でも多くの方に
真実の歴史を伝承していただきたいと
思います!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
こちらの講座は主催者の皆様のご尽力で成り立っており、講演させていただく立場としても非常に光栄に思っております。
いつの日か3ケタの参加者の皆様の前で講演してみたいものですね。