現在、我が国は第二次安倍晋三(あべしんぞう)内閣によって「アベノミクス」と呼ばれる経済政策(けいざいせいさく)を行うとともに、多くの国々と積極的(せっきょくてき)な外交を展開(てんかい)していますが、こうした様々な施策(しさく)に対して反発する国家も存在しており、その代表となっているのが中国(正式名称は中華人民共和国=ちゅうかじんみんきょうわこく)や韓国(かんこく、正式名称は大韓民国=だいかんみんこく)です。
両国は我が国と歴史問題などにおいて以前から対立しているほか、韓国は竹島(たけしま)を不法占拠(ふほうせんきょ)し、中国は尖閣諸島を自国の領土と主張するなど、我が国固有の領土に対して野心(やしん)をむき出しにしている傾向(けいこう)にあります。
今年(平成25年=2013年)の6月には中国の習近平(しゅうきんぺい)国家主席(こっかしゅせき)と韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領(だいとうりょう)とが首脳会談(しゅのうかいだん)を行うなど、両国は急接近(きゅうせっきん)しつつありますが、こうした流れが「21世紀の元寇」を生み出さないという保証はどこにもありません。
繰り返しますが「天は自ら助くる者を助く」といいます。今後の中国や韓国の動きを注視(ちゅうし)するとともに、気が付けば「間近(まぢか)に迫(せま)った亡国の危機」とならないためにも、我が国における「平成の征夷大将軍」の覚悟が今こそ問われているのではないでしょうか。
(※第37回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[9月1日]からは通常の更新[=昭和時代・戦前]に戻ります)





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ぴーち こんばんは!
仰るとおり、歴史は繰り返すもの・・だと
思いますので、いつまた両国は同じ過ちを繰り返すやも知れませんね。
元々日本国民は、上からの指示に対して服従する能力に優れている民族だと思います。
リーダー次第で
国民の気持ちはひとつにまとまり、向かってくる大きな悪意に太刀打ち出来るだけの力を秘めているものと思われます。
それ故に、カリスマ性に富み、強力なリーダーシップを発揮出来る存在は不可欠ですよね!。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
我が国を救う「征夷大将軍」の一日も早い出現を心より願っております。
オバrev 確かに中韓、特に中国については警戒が必要だと思います。
近々中国国内の体制がどう変わるか予断を許さない状況ですし、最悪の事態を想定した、危機管理体制は既にとっておく必要がるんじゃないでしょうか。
でも歴史問題は多くの国同士あることでしょうから、政治の具にはして欲しくないですね。それで得られるメリットよりもデメリットの方が遥かに大きいと思います。
中韓の言いがかりに惑わされることなく、妥協です、毅然とした態度で正論を貫くしかないかな?
解決することはないでしょうけど orz
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、警戒が必要だと思いますね。
中韓との間の問題の解決は難しいですが、一つ可能性があるとすれば「国家の体制がそっくり入れ替わる」ことでしょうか。
その後、執権の北条氏が力をつけて源氏(げんじ)が滅び、征夷大将軍は名目(めいもく)だけの地位として摂関家(せっかんけ)や皇族(こうぞく)が就任するようになりましたが、元寇という有史以来最大の外敵(がいてき)、すなわち「夷狄(いてき)」を「征伐(せいばつ)」する「将軍」としての重責(じゅうせき)を鎌倉幕府全体で果たしたことが、我が国において武家政権が高い評価(ひょうか)を得ることにつながりました。
だからこそ鎌倉幕府が滅んだ後に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)によって建武(けんむ)の新政(しんせい)が一時は行われても、数年後に足利尊氏(あしかがたかうじ)が新たに征夷大将軍に任じられて室町幕府(むろまちばくふ)が開かれるなど、武家政権は頼朝以来700年近くにわたって続きました。
そして、19世紀後半に開国などによる混乱が続いた際に、江戸幕府(えどばくふ)が征夷大将軍として、つまり外国に対して武力以外も含(ふく)めた「攘夷(じょうい)を行う意思」を明確に示せなかったことが、結果として武家政権全体の信頼を失い、明治新政府の誕生を呼んだともいえるのです。





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ぴーち こんばんは!
攘夷を行う意思が無くなったという
事は、やはり
江戸時代が300年間も外国との関係を
封印していた事に大きな要因が
あったのでしょうか?
これは
すっかり平和ボケした成れの果て?
言い過ぎでしょうか・・・^_^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、決して言い過ぎではないと思います。
江戸幕府がカトリックを排除するために行った制限貿易は、強大な軍事力(戦国時代が終わった直後だったからです)があったから可能でした。
ところが、太平の世に慣れ切ってしまった幕府が平和ボケしていたがゆえに外国の介入を許し、幕末の大混乱を招いてしまい、その際に攘夷の意思がなかった幕府が倒されてしまったわけですからね。
ちなみに、平和ボケであることは現代も同じですから、危機感をもっと持たないといけません。
ある程度強権も必要
青田 黒田先生
青田です。
この征夷大将軍ですが、戦時における、夷狄(いてき)を征伐するためにの強権が、慣習化したものというのは
裏を返せば、
武士道の
『常在戦場』(いつでも、戦場にいる気構えを持たないいけない。)
に繋がった気がします。
江戸幕府は、この『常在戦場』の精神は、なくなりましたが、
かろじて、薩摩・長州に残っていたころが、日本を救った気がします。(植民地にならないですんだという意味で)
しかし、
今は、非常時に強権を発令するどころではないですし(憲法9条)、
国民は、『常在戦場』の精神もなくなっています。
考えようによっては、鎌倉時代よりも、危機ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
逆に言えば、征服者にとって都合が良いからこそ、我が国に巣食うスパイ組織が憲法9条を守ろうとするのでしょう。
その後も病状(びょうじょう)は回復することはなく、弘安の役からわずか3年後の1284年4月に時宗は34歳の若さで亡くなりました。まさに元寇に明け暮(く)れた彼の生涯であったともいえますが、我が国の命運(めいうん)を一身に託(たく)されて見事にその役割(やくわり)を果(は)たした時宗の偉大(いだい)さは素晴(すば)らしいものがあったといえるでしょう。
さて、時宗亡き後の鎌倉幕府ですが、相手が外国だったために御家人たちに与えるべき恩賞(おんしょう)がなかったことなどもあって信頼を失(うしな)い、元寇から約半世紀後の1333年に滅びましたが、一時期を除(のぞ)いて武家政権はその後も長く続きました。それはなぜでしょうか。
カギを握(にぎ)るのは、幕府の象徴(しょうちょう)であった「征夷大将軍」の地位です。





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ぴーち こんばんは!
現代の日本の総理大臣も世界に類を見ない程、
激務だと伺った事があります。
この資源にも乏しく、戦力も持たない
小国が他の大国と肩を並べて生きていくには
足を使って頻繁に出向き、対話を重ねて
いくことが平和を維持していく大事な
お仕事でもあるでしょうから
仕方が無いのでしょうけれど・。
そんなこの国の行く末を任された人物は
重い責任を当然ながら背負うことになりますが
ましてや、外国から攻められたり、
戦いに明け暮れる日々が続いたりしたら
それこそ、想像を絶するストレスに晒されたことでしょう。
征夷大将軍という地位は、
その重責をも上回る自身への大きな勲章という事に
なるのでしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国の政治(あるいは軍事)のトップは今も昔も激務です。
時宗の場合は亡国の危機が眼前にまで迫っていましたから、特に大変だったと思いますね。
もっとも、ここ数年の某政党のトップは例外だったようですが…。
征夷大将軍については次回以降も詳しく検討してみたいと思います。
北条時宗をなめてました
青田です。 黒田先生
青田です。
某国営放送の「北条時宗」を観て、
「北条時宗」は、臆病者のように思えていました。
あのドラマでは、逆に『クビライ』が、人格者に描かれていましたが、
結果論として、元を打ち破ったことも凄いですが、
驚いたのは、その年齢です。
いくら世襲制とはいえ、これは、凄すぎます。
〇 9歳(今なら、小学校2年生)の小侍所の別当。(今でいうと将軍の親衛隊の隊長)
〇 13歳(今なら、中学1年生)で連署。(現在でいうと副総理。)
〇 15歳(今なら、高校1年生)で、宗尊親王の廃位。惟康親王の擁立。
〇 17歳(今なら、高校3年生)で、執権就任。(内閣総理大臣)
これだけ観ると、世襲制のお飾りと勘違いしがちですが、父親の北条時頼は、北条時宗が13歳の時に亡くなっています。
私は、49歳のオッサンですが、自分の無能ぶりに情けなくなりました。
青田さんへ
黒田裕樹 いえいえ、私もオッサンですので(笑)。
時宗は若くして修羅場を潜り抜けた分、相当なストレスがあったのか、若死にしてしまいましたね。
もし元からの服属の勧告(かんこく)に従(したが)っていれば、いずれは元、あるいはその後の中国の影響力が我が国の奥深(おくぶか)くにまで及んでいたことでしょう。そうなれば、もちろん今のような我が国の平和や繁栄(はんえい)など有り得ない話です。
昔からの名言に「天は自ら助(たす)くる者を助(たす)く」とありますが、圧倒的な軍事力を誇(ほこ)る大帝国の元に対し、祖国(そこく)を護(まも)る意思を明確(めいかく)にした北条時宗の決断そのものが我が国にとっての「神風」となり、同じく我が国を護るために立ち上がった鎌倉武士団が断固たる戦いを繰り広げたことによって、その「神風」が激しく吹き荒れたといえるでしょう。
時宗による「我が国は世界に冠(かん)たる独立国である」という断固たる意思は、かつて遣隋使(けんずいし)を送った聖徳太子以来の「国是(こくぜ)」であると同時に、我が国固有(こゆう)の領土である尖閣諸島(せんかくしょとう)をしきりに狙(ねら)っている現代の「元寇」にもつながる大きな教訓(きょうくん)ではないでしょうか。





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ぴーち こんばんは!
先ほど、クマに襲われた時の対処法というサイトを読ませていただいてたんですが、クマに出会ってしまったら、慌てず騒がず、決して背中を向けずに、クマの目を見据えて自分の方が(人間)強い生き物なんだという心構えで怯まないことだと記してありました。
そして取っ組み合いの状態になったら、
クマの口に自分のこぶしをぐっと押し入れて、相手の
動きを封じ込める・・と、ここまで
出来る人はなかなか居ないとは思いますがw
それでも、
やはり、今日のお話にもありますように
何が何でも自分が勝つんだ!という強い気持ちが
あれば、どんなに小規模な戦力だとしても
勝つことが出来るものだと思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、本物のクマに出合ってしまった場合の対処方法にも色々あるんですね。
精神論だけで片付くほど世の中甘くはありませんが、それでも気持ちで負けてしまえば勝てる戦も勝てませんからね。
一方、元の来襲という国難に際して、特に弘安の役の折(おり)に暴風雨が発生したことで「我が国は神風(かみかぜ)に守られている」とする神国思想(しんこくしそう)がこの後に主流となっていきました。神国思想は、やがて我が国に対して大きな影響をもたらすことになります。
さて、あきらめきれないフビライは我が国に対して三度目の来襲を計画しましたが諸般(しょはん)の事情で中止となり、元はその後二度と我が国を攻めることができず、やがて内乱に次ぐ内乱が起こって1368年に明(みん)によって滅ぼされました。
また、元と共(とも)に戦った高麗も1392年に李成桂(りせいけい)によって倒されて李氏朝鮮が成立するなど、我が国に手を出した国家が必ず滅びるという結果となってしまったのは偶然(ぐうぜん)の出来事なのでしょうか。





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ぴーち こんばんは!
わが国に手を出した国家は必ず滅びるというジンクス。そういう理屈では説明出来ない事って確かに存在すると思いますね・・。
あえて理屈を付けるとすれば、人の領土を脅かそうとすれば、必ず自分の国にも同じような事が返ってくるという因果応報は存在するとは思いますが^^
確かに不思議な事に
私が誰も居ないお店に入店した途端、後から
お客が大勢入店してきた・・という現象は絶えず
起るのですが、これもまた何か目に見えない力に操作されている気がしてなりません(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国のジンクスは確かに因果応報の感がありますね。20世紀に入ってもアメリカは当初の目的をまったく達成できないどころかソ連という強敵を成長させてしまったし、イギリスやオランダはほとんどの植民地を失うし、ソ連に至っては国家が解体するし…。
今の中国とは戦闘状態になったことは一度もないですが、もし尖閣諸島に手を出せばどうなるでしょうか?
お店の件ですが、実は私も同じような体験を何度もしています。
お互いに福の神というところでしょうか(笑)。
まず元軍といってもその大半が征服した異民族(いみんぞく)の連合軍であり、各人の戦意が乏(とぼ)しいのみならず、意志の疎通(そつう)が十分に行われなかったことでした。また、突貫工事(とっかんこうじ)で高麗に造らせた船は丈夫(じょうぶ)でなく、しばしば転覆(てんぷく)の憂(う)き目にあったほか、弘安の役の際の大暴風雨で多くの軍船が破壊されるとともに数えきれないほどの兵の生命を奪(うば)ったと考えられています。
また、大陸を縦横無尽(じゅうおうむじん)に駆(か)け回る陸戦と違って、元軍にとっては不慣れな海戦であり、また我が国の風土(ふうど)に合わない兵士が次々と疫病(えきびょう)で倒(たお)れるという不利もありました。
さらに何よりも元軍を悩ませたのは、それまでに他国を征服した際に大いに利用してきた騎馬軍団(きばぐんだん)が、元寇の際には全(まった)くといっていいほど使えなかったことでした。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!
こうして相手国の詳細な事情を伺うと
納得させていただく部分が多いですね。
何といっても海戦に慣れていないというのは、致命傷だったのでしょうね。日本は逆に海戦には強いなどと伺ったことがあります。日本にとっては良い条件が揃っての
勝利だったわけですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、戦いの勝因や敗因には様々な背景があります。
今回は物量的な考察ですが、もちろんそれだけではありません。詳しくは次回以降の更新をご覧になってください。
それでも元軍の一部が幕府軍の守備の及ばない搦(から)め手から上陸し、博多の町に侵入(しんにゅう)して乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働きましたが、すぐに幕府軍に見つかって街中で激しい戦いを繰(く)り広げました。
一方の幕府軍も夜になって周囲(しゅうい)が真っ暗になると、夜陰(やいん)にまぎれて敵船に乗りこんで火をつけ、あわてた敵兵を討ち取るなどのゲリラ戦を敢行(かんこう)するなど健闘(けんとう)を重ね、戦いは膠着状態(こうちゃくじょうたい)となりました。
そして7月1日(現在の暦で8月16日)、北九州方面を襲った大暴風雨(だいぼうふうう)によって元軍の乗っていた軍船がことごとく破壊(はかい)され、多くの兵が亡(な)くなりました。戦意を喪失(そうしつ)した元軍は高麗へと引き上げ、国内に残った兵も幕府軍の掃討戦(そうとうせん)によって討ち取られました。元軍との二度目のこの戦いは当時の年号から弘安(こうあん)の役といい、文永の役とともに元寇と呼ばれています。





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ぴーち こんばんは!
我が国も、台風やらの自然災害が
多い国ですからね・・(^^ゞ。
そこの所を上手く把握していないと
どんなに強固な軍事力を駆使しても
自然相手では、どんな国でも
太刀打ち出来ませんね。
この時代の日本は自然が味方になって
くれるという運も持ち合わせていた様ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 弘安の役の時期はちょうど台風の季節であったのが、我が国にとっては幸いだったことは確かですね。
ただ、我が国が元寇に勝った理由は他にも色々とあるようですので、今後の更新で明らかにしていきたいと思います。
元との再戦(さいせん)を決意した北条時宗は異国警固番役を強化するとともに、全国の御家人に命じて博多湾沿(ぞ)いに石造(せきぞう)の防塁(ぼうるい)である石塁(せきるい)を築き、元の再来襲に備(そな)えましたが、その際に時宗は工事への参加に関して一切の妥協(だきょう)も反論(はんろん)も許さなかったそうです。
元軍の来襲という未曾有(みぞう)の国難(こくなん)に備えたわけですし、また武家政権(ぶけせいけん)の棟梁(とうりょう)としても当然の行動といえるかもしれませんが、このように政治や軍事において「断固(だんこ)たる決意を示す」ことが、後々に大きな影響を与(あた)えることは今も昔も変わりません。
我が国の強硬(きょうこう)な姿勢(しせい)に対して、再び日本を攻める決断をしたフビライは、1279年に南宋を滅ぼすと、返す刀で1281年の5月から6月にかけて、兵数約14万人という前回の4倍以上の兵を二手(ふたて)に分けて再び博多湾に差し向けました。





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青田 黒田先生
青田です。
考えてみれば、14万の大軍勢というと
想像を絶する大軍勢ですね。
承久の乱の時、鎌倉武士の軍勢は、全部で
19万人です。
しかも、まだ、この当時は、鎌倉幕府の西国への支配は、東国に比べて、強くなかったはず
です。(?おそらく)
この時の日本の主力部隊は、九州の御家人です。
戦国時代で、活躍した家も多く含まれています。
正直、九州の御家人は、本当に頑張ったと思います。
正直、某国が上陸する可能性が強いところに
勇気と愛国心が強い九州の御家人がいたことが幸いしました。
逆に、現代の尖閣諸島のように、某国が上陸する可能性があるところに近い所が、反日的で、愛国心がないと。。。(泣)
まさに、今、『元寇の役』から、多くを学ばないといけないですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに元寇には学ぶところが多いですね。
愛国心の欠如などは現代の大きな問題でしょうし。
ぴーち こんばんは!
今でも
さすがは九州男児!などとはやし立てる言葉が
ありますが、この時の戦いぶりを評価されて
言われ続けた言葉だったのでしょうかね?^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今でも
> さすがは九州男児!などとはやし立てる言葉が
> ありますが、この時の戦いぶりを評価されて
> 言われ続けた言葉だったのでしょうかね?^^
なるほど、言われてみればあり得そうですねぇ。
いずれにせよこれからの戦いぶりが明暗を分けることになります。
やがて元軍は沖合(おきあい)に船を避難(ひなん)させると、何とそのまま高麗まで退却(たいきゃく)してしまったのです。この戦いは当時の年号から文永(ぶんえい)の役(えき)と呼ばれています。
なお、これまでの通説では季節外(きせつはず)れの暴風(ぼうふう)が吹き荒(あ)れたことで元軍が退却したとされてきましたが、実際には意外な抵抗を受けて怖(こわ)くなった元軍や高麗軍が逃げ帰ったというのが真相(しんそう)であり、日本側の記録にも「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚(おどろ)いた」と書かれています。
こうして何とか文永の役を乗り切った我が国でしたが、フビライがこの一戦だけで侵略をあきらめるとは到底(とうてい)考えられません。今度は前回の何倍もの兵力をもって我が国に再(ふたた)び襲いかかるであろうことは誰(だれ)の目にも明白(めいはく)であり、そのことが若き執権の北条時宗を悩(なや)ませました。
来日(らいにち)していた南宋の名僧(めいそう)であった蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)らと相談(そうだん)した時宗は、やがて元軍と徹底的(てっていてき)に戦う意思を固めました。この決断が最終的に我が国を救うことにつながるのです。





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ぴーち こんばんは^^
黒田さんの仰るお話が事実だとすれば
元軍を武力で追い返したということは
立派な武勇伝として残されても良いような気もしますが、どうして神がかり的な伝説として
これまで語り継がれてしまっているんでしょうかね?
日本にとっては、軍事力以前に何か得体の知れない大きな力で常に守られているという説の方がより都合が良いという事なのでしょうか。
北条兄弟の結束
青田 黒田先生
青田です。
北条時宗が、前線に行けませんでしたが
弟の北条宗政は、築後守護として、前線で指揮を取り、弘安の役で、勝利でわくなか死にました。
亨年29歳。
その弟の北条宗頼は、長門・周防守護として、
異国警護として、前線で、行政を行っていましたが
弘安の役の2年前に亡くなりました。
この2人の兄弟が、北条時宗の名代として、前線に立ったことが、地元の御家人の士気を高めたと思います。
北条時宗も立派ですが、その弟達も、本当に立派です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 文永の役が「暴風雨で元軍が負けた」と書かれている史料は我が国にはなく、書かれているのは負けた高麗側に残された分のみです。
なぜ高麗が「ウソ」をついたのかは謎ですが、本文にあるように「ビビッて引き上げた」ことがばれれば本国(=元)からどんな目にあわされるか分からないために「暴風雨」という「言い訳」を「捏造」したのではないか、とも考えられています。
その後、弘安の役を経て我が国でも「暴風雨」が強く認識され、いつの間にか文永の役も同じ理由になってしまったのかもしれませんね。このあたりはもう少し先に改めて検証したいと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
この時代に北条氏が政権を握っていたことが、我が国にとっては本当に良かったと言えるでしょう。
元軍の信じられないような仕打(しう)ちに対して怒(いか)りに震(ふる)えた我が国は、九州地方を中心とする御家人を中心に彼らと応戦(おうせん)しましたが、それまでの一騎討(いっきう)ちを中心として、名乗(なの)りをあげてから攻め込む日本式の戦闘方法(せんとうほうほう)が元軍の集団戦法には通用せず、いきなり大量の矢を浴びてしまいました。
この他にも、いわゆる「てつはう」と呼(よ)ばれた爆発物(ばくはつぶつ)に馬も武士も大いに戸惑(とまど)うなど、元軍流の戦闘に不慣(ふな)れな幕府軍は苦戦(くせん)を強(し)いられました。
しかし、亡国(ぼうこく)の危機に対して懸命(けんめい)に戦い続けた幕府軍の武力は決して元軍に引けを取らず、逆に彼らを追いつめることになるのです。





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- 黒田先生
青田です。
この時の『鎌倉武士の奮闘』を現代人は、
当たり前と思うかもしれませんが、
これは、とんでもなく、凄いことです。
そもそも、国民国家、国土防衛という概念が
出てきたのは、1759年のナポレオン戦争からです。
その証拠に、シナは、外国から、スグ占領される歴史が多いのは、国家という概念、自国を守るという概念が欠如していたからです。
そう考えると
この鎌倉武士の国土防衛には、いろいろな要因はあると思いますが、島国であったがゆえに、
日本人に国という概念が自然に備わっていたからだと思います。
そして、『愛国心』が自然にあったからでしょうね。
それに比べて、現代は、トホホホ・・・
青田さんへ
黒田裕樹 確かに「島国」という環境が、国民が一致団結する思想を生んだともいえますね。
それが今では「愛国心」を否定する教育を行うのですから話になりません(怒)。
ぴーち こんばんは!
今回の戦いの話ではありませんが、
私も昔、内乱やら戦争で人が酷い仕打ちを
受けた話などを聞いたことがありますが
この世の中で一番残酷な存在は、やはり人間自身なのではないかと思うときがあります。
けれど戦いに綺麗事は存在しないと思います。
今回、「はだしのゲン」の漫画の表現の件が
話題になっていますが、
私は戦いとは悲惨な結末を迎える事が多いものだという
教訓をいつまでも残す為にも、ぜひ残しておくべき
作品だと思います。
言葉や文字からは得られないダイレクトな表現方法にはこうした漫画もあり、子供たちには身近な存在だけに余計だと思います。
平和ボケしてなかった鎌倉武士
青田 黒田先生
青田です。
よく、今の日本は、戦後から、68年経つから
『平和ボケ』したという評論家がいますが、
この『元寇の役』を考えると、それは『言い訳』だと思います。
というのも、
この『元寇の役』は、1274年です。
承久の乱が、1221年ですから、承久の乱から、53年経っています。
さらに、
鎌倉幕府成立(1192年)から、82年経っています。
恐るべし、鎌倉武士です。
そう考えると、今の日本人が平和ボケになっているのは、別の理由ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、戦いは「食うか食われるか」であり、綺麗事の存在する余地はないと思います。
また「はだしのゲン」ですが、戦争の悲惨さの描写に限定するのであれば仰ることは確かに一理ありますが、この作品の中には天皇陛下に対するあからさまな侮辱の場面がありますので、私は閲覧制限はむしろ当然だと思っております(これ以上はブログ本文とは無関係ですのであえて述べませんが)。
青田さんへ
黒田裕樹 その通りですね。平和ボケを年月のせいにしている段階でボケの進行は相当進んでいると思わざるを得ません。
> そう考えると、今の日本人が平和ボケになっているのは、別の理由ですね。
国民の自覚を損ねている「何か」がある、ということなのでしょうね。