お蔭様をもちまして、6月23日に行われました討論Bar“シチズン”歴史講座「政権交代の歴史に学ぶ」も盛況のうちに終えることができました。これまでの講演とは雰囲気が若干異なりましたが、その分新鮮な思いで講演に臨むことができたと自負しております。

なお、当日の講演の内容については下記のYouTubeをご覧ください。
さて今後の予定ですが、7月はお休みをいただきまして、第37回歴史講座を8月3日(土)午後6時より大阪・梅田で、並びに8月10日(土)午後3時30分より東京・浅草にて「北条時宗 ~元寇に立ち向かった男」と題して講演を行います。また、それ以外にも講演の予定がございますので、ブログ上にて随時お知らせします。





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お蔭様をもちまして、6月16日に行われました第13回ワクワク歴史講座「元寇(蒙古)来襲」も多くの参加者を集めて盛況でした。こちらの講演では通史全般を紹介している関係で、前回の復習もかねて歴史全体の大きな流れを見つめ直すことが可能となっており、私自身も頭の整理ができて楽しく講演を行うことができました。

なお、当日の講演の内容については下記のYouTubeをご覧ください。
さて、5月12日以来週末を中心に行ってきた私の講演も、次回でいったん終了となります。様々な方々とお会いできることを楽しみにしております。
討論Bar“シチズン”歴史講座
(大阪市浪速区)
「政権交代の歴史に学ぶ」
日時:6月23日(日) 15:00~18:00 (開場14:30)
(※質疑応答、懇親会の時間を含みます)
場所:討論Bar“シチズン”
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
参加費:金1,000円(1ドリンク付)
(※懇親会はドリンクオーダー制、食べ物持ち込みOKです)
上記講演は定員24名で、満員になり次第受付を終了します。
詳しくはこちらのリンク先をご参照ください。





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korekarada いつも、公演の様子を見させていただいています。とても分かりやすくて勉強になります。私も教員をしていましたので、社会科、特に歴史の授業は四苦八苦でした。資料の準備もさることながら、自分の頭で理解していないと、子どもたちも、のってこない・・・そんな経験をしました。どうかこれからもがんばっていただきたいと思います。楽しみにしています。それから、私もカープのファンでした。山本、衣笠時代です。
私のブログにリンクさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?
korekaradaさんへ
黒田裕樹 はじめまして。当ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございます。
リンクの件、喜んでお受けいたします。こちらからもさせていただきますのでよろしくお願いいたします。
コージ・キヌの時代は懐かしいですね(笑)。
山田方谷は大胆な改革によって藩の財政を立て直しましたが、その基本となったのは彼が長年務め上げた教育者としての矜持(きょうじ、自分の能力を優れたものとして誇る気持ち)でした。士農工商の身分を超えて多くの優れた人材を育て上げた教育精神が、彼の経済政策を成功に導いたことは間違いありません。
また、いかに財政が豊かになろうとも、藩を守るためには軍制の改革が欠かせません。方谷が壮健な者を選(え)りすぐって里正隊という独自の軍隊をつくり上げたことは、戊辰戦争の際の大きな「抑止力」として備中松山藩を救う結果となりました。
これらの例を見ても分かるように、経済政策の成功のカギは単なる金融政策や財政政策だけでなく、将来を見据(みす)えた「教育」や「防衛」こそが握(にぎ)っているのであり、アベノミクスの成功の可否もこれらの問題の解決にかかっているとしても過言ではないでしょう。
10万両の借財を短期間ですべて返済したばかりか逆に10万両の蓄財を達成し、実質2万石に満たなかった藩を20万石の実力があると周囲に認めさせるほどの改革を成し遂げた山田方谷。
今年(平成25年=2013年)1月に行われた衆議院本会議の代表質問において平沼赳夫(ひらぬまたけお)議員が発言されたように、我が国が本当の意味で「強い国家と豊かな生活を取り戻す」ためにも、私たちは今こそ山田方谷の精神に学ぶべきではないでしょうか。
(※第36回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[6月21日]からは通常の更新[=昭和時代・戦前]に戻ります)





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ぴーち おはようございます!
仰るとおり、教育は一番の柱だと思います。
教育が廃れた国は亡国の一途を辿るのではないかと懸念します。
それを考えると「ゆとり教育」の浅はかさは
今更ながら、許しがたい方策だったと悔やまれてなりません。
この方策を打ち立てたのも、自民党でしたので
今度はしっかりとした政策の元、教育改革への
巻き返しへも意欲を示していただきたいものです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
政治主導はもちろん、現場においてもこつこつと頑張っていきたいと考えております。
オバrev コメントが遅くなって申し訳ないですm(_ _)m
株価や為替の乱高下は、海外の投資ファンドに行き先のない有り余ったマネーが流れているためと言われていますが、やはりアベノミクスの矢がまだ細く不安定なこともあると思います。
それを図太く確固たるものにするために、やはりベースとしての教育、人材育成が支えとなることは仰るとおりだと思います。未来を見据えて力を入れて欲しいです。
しかし現実は最近の若い人の社会人としての甘さと、仕事を追求して行こうという職人的モチベーションの無さに戸惑っています(?o?)
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
教育の欠如は様々な弊害をもたらしますから、将来を見据えた政策が望まれます。
特効薬と漢方薬の両方が必要ですね。
富国強兵が大事
- 黒田先生
青田です。
あらためて、この動画を一通り
拝見させて頂きましたが、
山田方谷の財政再建の本当の
目的は、『富国強兵』だった気がします。
この『強兵』の概念がなく、単に富国だけなら
間違いなく、官軍に蹂躙されていたと思います。
それは、現代の日本にも通じることですし、
間違いなく世界常識です。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、山田方谷は世界の常識にのっとって「富国強兵」を実現させましたよね。
だからこそ現代の私たちが学ばねばならないのです。
昨年11月の衆議院解散以後、1ドル70円台の超円高だった円相場は100円台にまで変化し、また日経平均株価も8,600円台から15,000円台を突破(とっぱ)するなど、アベノミクスは今のところ世界の投資家を中心に好意的な評価を受けているようですが、今後のさらなる戦略に大いに期待が持たれるところではあります。
しかし、経済政策の神髄は単なるデフレ脱却だけではなく、我が国の歴史や伝統、あるいは文化に根差(ねざ)した環境の下において、各人の努力や創意工夫(そういくふう)が正当な評価を受けるという「当たり前のこと」が実現できるところにあり、そのためにも次代を担(にな)う子弟に対する歴史や道徳を始めとする教育の正常化や、他国からの侵略(しんりゃく)を防ぐための防衛力の強化も同時に必要なのではないでしょうか。
そんな私たちに対して、大きな歴史の流れは格好(かっこう)のお手本を目の前に示してくれています。それはもちろん山田方谷のことです。





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ぴーち こんにちは!
仰るとおり、各人の努力や創意工夫が正当な評価を受けることが出来る世の中が一番ですよね。
そうは言っても、これがなかなか100%完全に評価の対象として認めて貰えるようになるには
難しいもので、それこそ各人が本気になって、そういう世の中を目指していこうとする意欲や、努力がこれからも
必要になって来るでしょうね・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
意欲や努力なくして我が国の未来はないでしょうね。
しかし、江戸幕府の老中首座だった藩主の板倉勝静(かつきよ)に長年仕(つか)え、同時に彼を支え続けてきた方谷は、年齢(ねんれい)のこともあって新政府への出仕を断りました。
その後の方谷は備中へ戻って私塾を開いたほか、我が国最古の庶民(しょみん)のための学校であった閑谷学校(しずたにがっこう)を再興するなど弟子の育成に力を尽(つ)くしましたが、明治10(1877)年に73歳でこの世を去りました。
方谷が亡くなってから約50年経(た)った昭和3(1928)年、方谷ゆかりの地に国鉄(現在のJR)伯備線が開通した際に、地元民の熱意によって「方谷駅」がつくられたほか、21世紀の平成18(2006)年には、それ以前の昭和52(1977)年に岡山県出身の天文学者が新たに発見した小惑星(しょうわくせい)に対して「山田方谷」と名づけることが認められました。
藩のためだけでなく、名もない多くの領民のために心血(しんけつ)を注いだ山田方谷の生き様は、時代を超えた今もなお多くの人々に慕われ続けているのです。





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ぴーち おはようございます!
小惑星にも方谷氏の名前が付けられていたのは
凄いですね!
方谷氏の事は何もかも存じておりませんでしたが、惑星にまで名を残すなんて・・
いかに彼の功績が偉大であったかということが
計り知れますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
小惑星も駅名も、地元の熱意がなければ名前には残りません。
方谷がいかに慕われていたかを証明しています。
「親殺しや主君殺しを意味する大逆無道を加えるとは何事か。我が藩は一度たりとも朝廷に刃(やいば)を向けたことがない以上、この四文字は自らの命に代えても受けいれられない」。
方谷による命がけの抗議(こうぎ)に対して官軍も折れ、最終的に「軽挙暴動(けいきょぼうどう)」に変更することで備中松山藩は無血開城(むけつかいじょう)しました。また方谷は旧幕府軍に随行(ずいこう)していた藩主の勝静(かつきよ)を強引に東京へ連れ戻して新政府へ自首(じしゅ)させたことで、5万石を2万石に削(けず)られこそしたものの、明治2(1869)年には藩の再興が認められました。
藩主が老中首座という重職にありながら備中松山藩の処分(しょぶん)が他藩に比べて軽かった背景には、方谷が組織した里正隊が本格的な軍隊であったことによる抑止力(よくしりょく)や、方谷が地元の農民から「生き神様」と慕(した)われていたこと、そして何よりも方谷の財政家としての類稀(たぐいまれ)な手腕(しゅわん)を惜(お)しんだからではないかと考えられています。
なお、方谷は慶応3(1867)年に行われた大政奉還において上奏文(じょうそうぶん、なお「上奏」とは天皇に意見や事情などを申し上げること)の草案を作成したという説もあります。





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ぴーち おはようございます!
大勢の命を救う為に、(松山藩)自ら体を張り、また間違った認識を是が非でも正そうとする信念に感服しました。
そうですよね。間違った認識ならば、命がけで撤回し、覆すくらいの押しが必要ですよね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
無血開城に導いたのは弱腰だったからではなく、「ならぬものはならぬ」という強い意志でもあったわけですね。
お蔭様をもちまして、6月9日に行われました第40回よく分かる歴史講座「明治天皇」並びに羽曳野を教育日本一にする講演会「日本の歴史を知る」にはそれぞれ多くの参加者を集めて盛況に行われました。前者の講演はもちろんのこと、後者は大きなホールで下記の画像のように初めてパワーポイントを使用しての講演をさせていただいたことは、私自身にとっても大きな財産になりました。両会場の関係者の方々、並びに講演にご参加くださった皆様に厚く御礼申し上げます。

なお、当日の講演の内容については下記のYouTubeをご覧ください(ただし「明治天皇」のみです)。
ちなみに、今後(平成25年6月)も引き続き私こと黒田裕樹の講演を以下のとおり行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください。
第13回ワクワク歴史講座
(大阪府豊能町)
「元寇(蒙古)来襲」
日時:6月16日(日) 14:00~16:30
場所:豊能町立図書館 集会室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金500円
(※中学・高校生の方は学割で金300円です)
(※以下は追記にて紹介します)
(大阪市浪速区)
「政権交代の歴史に学ぶ」
日時:6月23日(日) 15:00~18:00 (開場14:30)
(※質疑応答、懇親会の時間を含みます)
場所:討論Bar“シチズン”
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
参加費:金1,000円(1ドリンク付)
(※懇親会はドリンクオーダー制、食べ物持ち込みOKです)
上記講演は定員24名で、満員になり次第受付を終了します。
詳しくはこちらのリンク先をご参照ください。





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ぴーち おはようございます!
パワーポイントを使用しての講座でしたか^^
黒田さんの講座が年々盛況さを増している
証ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
今回の講演は貴重な体験になりました。
今後に生かしたいですね。
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オバrev 確かに大勢を対象にした講演や、画像や動画がポイントとなる講演ではパワポが便利ですけど、やっぱ黒田先生の歴史講座は少人数制で白板に直接書き込みながら、寺子屋的にされるのが一番似合っていると思います(^_^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 確かに大勢を対象にした講演や、画像や動画がポイントとなる講演ではパワポが便利ですけど、やっぱ黒田先生の歴史講座は少人数制で白板に直接書き込みながら、寺子屋的にされるのが一番似合っていると思います(^_^;)
今回が初めてのパワポを使用しての講演でしたが、確かに寺子屋的な良さも魅力がありますよね。
レジュメを持って帰っていただけるという大きなメリットもありますし。
ぜひともオバrevさんのお力で広島での講演を実現したいところですm(_ _)m
管理人のみ閲覧できます
-
勝静がこれらのような出世街道(しゅっせかいどう)を歩んだ理由としては、元々の血筋が松平定信の孫であったこともあると思われますが、やはり方谷による藩政改革の成功によって藩財政が豊かになったことや、それに伴って勝静自身の評判も高まったことが考えられます。
しかし、時は幕末の動乱期であり、やがて大政奉還(たいせいほうかん)が行われて戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まると、老中首座(しゅざ)である勝静を藩主とする備中松山藩はいわゆる「朝敵(ちょうてき)」となり、朝廷から松山藩の征討(せいとう)を任じられた備前岡山藩(びぜんおかやまはん)など近隣(きんりん)の藩の大軍が押し寄せてくるという騒(さわ)ぎになりました。
このとき、藩主勝静は旧幕府軍側の立場で参戦して不在であり、重臣たちは抗戦(こうせん)か降伏(こうふく)かをめぐって激(はげ)しい議論が続きましたが、最後には方谷が独断で降伏を決めました。
「戦争になって一番困るのが藩民である以上、彼らの生命を救うのが我が天命である」。場合によっては自身の切腹(せっぷく)も辞さないという決死の覚悟でした。





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ぴーち おはようございます!
なるほど、方谷氏は主と同じ権限を与えられていた事で、独断で判断したのですね。
降伏という決断が藩民にとっては良い結果となったとしても、方谷氏自身にとってはその判断は本当に良かったのでしょうか。。
その後の行方が気になります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
方谷の判断は正しかったのかどうか、次回の更新をお待ちください。
里正隊を中心とする見事な訓練ぶりに感嘆(かんたん)した久坂は、単なる財政改革の成功だけではなく、教育面や軍事面など身分制度にとらわれない様々な改革によって優秀な人材を輩出(はいしゅつ)しているところに軍政の神髄が存在することを理解しました。
後に久坂は元治(げんじ)元年(=1864年)の禁門(きんもん)の変において負傷して自刃(じじん)しますが、生前(せいぜん)の久坂から方谷の話を聞いていたとされる高杉晋作(たかすぎしんさく)によって「奇兵隊(きへいたい)」が組織され、幕末における長州藩を軍事面から支えましたが、方谷による里正隊は奇兵隊よりもおよそ10年近くも早く結成されていたことになります。
これらのように、方谷による藩政改革の成果は全国的な評判を呼んで他藩の改革にも多大な影響を与えましたが、それは同時に備中松山藩自体にも数奇(すうき)な運命をもたらすことになりました。





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ぴーち おはようございます!
奇兵隊の方は確かに記憶に残っていますが、
方谷氏の里正隊の方は今回黒田さんの記事にて初めて知ることが出来ました。ありがとうございます。
しかしながら、高校の教科書でも習った記憶が無いのですが(私が忘れているだけかも知れませんが(^^ゞ)
何故にこれほどまでの功績を残した方なのに、
もっと人々の記憶に残るほどの教育がされなかったのか疑問です・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 山田方谷は現在の歴史教科書でも紹介されておりません。
その理由は色々ありますが、また後半でお知らせしたいと思います。
備中松山藩の改革成功の噂(うわさ)を耳にした越後長岡藩士(えちごながおかはんし)の河井継之助(かわいつぎのすけ)は、本当かどうかを自分の目で確かめたくなって安政6 (1859)年に方谷を訪ねました。当初は農商出身の方谷を「山田」と呼び捨てにしていた継之助でしたが、方谷による言行一致(げんこういっち)の見事な振(ふ)る舞(ま)いや、彼が進めた藩政改革の成果を見て「山田先生」とすぐに態度を改め、深く心酔(しんすい)するようになりました。
方谷から多くを学んだ継之助は帰藩後に越後長岡藩の藩政改革を断行して多くの成果を収(おさ)めましたが、後に北越戦争(ほくえつせんそう)において官軍(かんぐん)と戦った際に負傷し、慶応(けいおう)4年(=1868年)に42歳で亡くなりました。
臨終(りんじゅう)の際、継之助は「もし備中松山に行くことがあれば、河井は生涯先生の教えを守ったと方谷先生に伝えてもらいたい」と言い残したそうです。





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晴雨堂ミカエル 幕末ファンの間では、継之介はガトリング砲で有名ですね。
奥羽諸藩の多くが、火縄銃やヤーゲルやゲベールなど先込め銃で薩長を相手に戦いましたが、越後長岡藩は最新のスナイドル銃で武装し日本で当時3機しかなかったガトリング砲を1機を配備、すべて継之介の手配です。
今週の大河ドラマ「八重の桜」で、會津の佐川官兵衛と河井継之介がガトリング砲の図面を見ながら意気投合、「奥羽越一丸となって薩長を返り討ちにすんべし!」「おう!」という場面がありました。
タイムリーですね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 偶然ではありますが確かにそうですね。
ぴーち おはようございます!
言行一致。
言うは易しですが、
これが普通の人間にはなかなか
到達できない境地ですよね(^^ゞ
己の口から発せられた言葉通りに
行動も伴える人間こそ、
もっとも信頼を勝ち得る存在と
確信しています。
また、逆に
口先ばかり、その場限りの
逃げ口上ばかりで
全く行動を起こさない、あるいは
口では大層な事を言っていても
態度はいい加減だったりする場合は
信用ならない人物というレッテルを
直ぐに貼られてしまいますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
陽明学の神髄でもある知行合一が、言行一致の素晴らしい実行力を生んだとも言えるでしょう。
山田方谷の実績の確かさを証明するエピソードでもあると思います。