実際に盧溝橋(ろこうきょう)における国民政府軍に共産党のスパイが紛(まぎ)れ込んでいて、彼らが日本軍に向けて発砲(はっぽう)したことが中国側の資料から明らかになっていますし、また日本軍側でも盧溝橋事件の直後に中国共産党司令部に向けて「成功せり」という緊急電報(きんきゅうでんぽう)が打たれたのを傍受(ぼうじゅ)したという証言が出されています。
なお、第二次世界大戦後に開かれた極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、別名を東京裁判=とうきょうさいばん)では盧溝橋事件の審査(しんさ)も進められましたが、なぜか途中(とちゅう)で中止されています。おそらくは中国共産党の陰謀(いんぼう)と分かったことで、裁判の進行に都合(つごう)が悪いと判断されたと考えられます。
また、盧溝橋事件の真相(しんそう)が明らかになるにつれて、最近では「そもそもそんなところに日本軍がいたから悪いのだ」という意見のすり替(か)えが平然と行われているようですが、日本軍が北京郊外(こうがい)の盧溝橋付近に駐留(ちゅうりゅう)していたのは先述(せんじゅつ)のとおり北清事変(ほくしんじじへん)後の北京議定書(ペキンぎていしょ)によって認められていたからであり、日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)によって現在の我が国にアメリカ軍が駐留しているのと同じ理由です。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんばんは!
「そもそもそんな所に日本軍が居たから悪い」
ですか・・
大層な言い草ですね。
それでも、この言い訳は自国にも多少なりとも否があると半分認めた様な解釈にも聞こえなくもありません。
卑怯な手段を取ってまでも勝利した者の言い訳は
いくら取り繕っても、的はずれな方向へ進んでいくもので、
とても大衆を納得させられる理由にはなりませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰ること、まさしくその通りです。
さらに問題なのは、このような言い訳をチャイナのみならず、我が国の反日的勢力が公言しているという事実です。
中国共産党…
鹿児島のタク 「公開された中国側の資料から明らかになっていますし。」…黒田先生,私は,こんなこと全然知らなかったです。
えっ,でも,中国がこんな資料を公開しているのですか。意外です。
ちょっとは「まし」になったのでしょうか。
それにしても,中国(共産党)はあの体制でしか,国を統治できないのでしょうか。
それとも,伝統的な「皇帝」を復活しなければだめなんじゃないの…なんて,半ば本気で考えてしまいます。
中国人民,14億の民を食わせて行かねば…,周近平国家主席は,人民から処刑されるのではないかなどと,余計な心配をしてしまいます。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 中国側の資料は盧溝橋事件の研究者が探し出していますね。
いずれにせよ、現代のチャイナに関しては今後の行方がどうなるかは難しいところです。
それに、発砲を受けた部隊はその直前まで夜間演習(やかんえんしゅう)を続けていましたが、誤射事故(ごしゃじこ)を避(さ)けるために実弾(じつだん)を使用しておらず、鉄カブトさえかぶっていませんでした。
また事件勃発(ぼっぱつ)後の日本軍は、事態の拡大を恐(おそ)れてできるだけ早く収拾(しゅうしゅう)しようと努め、8日には陸軍や外務省が不拡大の方針を決定したほか、現地においても9日午前2時に現場での停戦協議が成立し、事件から4日後の11日には早くも停戦協定が成立しました。なお、このときに我が国では盧溝橋事件のことを「北支事変(ほくしじへん)」と命名しています。
ところが我が国の意に反して中国との衝突はこの後ますます激化(げきか)し、ついには戦線が大陸全土にまで及(およ)んでしまうのです。なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。
当時は不明だったこれらの理由ですが、今では明らかになっています。実は、盧溝橋事件は中国共産党が仕掛(しか)けた罠(わな)だったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
メッキが剥がれる・・などと言いますが、
その時は本物と見まごうばかりに(いかにも真実であるが如く)皆の目をごまかす事が出来ますが、所詮嘘で固めたものというのは、年月と共に風化して剥がれ落ちてしまい、そこに現れるのはいつまでも朽ち果てることにない真実のみという事なのでしょうね。
勿論、その時を待たずに
黒田さんの様に、僅かなメッキの歪みを見逃さずに注目し、その内側に隠された本物を見抜く目を
少しでも養っていけるようにしたいものです^^
応援凸
罠にはまってしまったのですか?
鹿児島のタク 日本が罠にはめられてしまったのでしょう。
それは,十分に考えられます。
私のような歴史を少ししかかじっていない者にも…。分かる…。
だって,真珠湾攻撃にしても,アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトにしてやられた…ような部分がありそうですよね。
罠にはまる方にも問題があると言われそうですが,歴史はこの罠の掛け合い的な部分がたくさんありそうだから,面白くて,そして怖いです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり真実を見抜く力は重要ですが、教えるだけの歴史教育のままではそれすらかないそうにないのが残念です。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
歴史は時として非情な罠が仕掛けられており、引っかかってしまうと当時の我が国のように亡国の危機にさらされます。
当事者としては恐怖でしかないですよね…。
昭和12(1937)年7月7日午後10時40分頃、北京郊外(こうがい)の盧溝橋(ろこうきょう)付近に駐屯(ちゅうとん)していた日本軍が演習(えんしゅう)を終えた時、何者かが軍に向けて発砲(はっぽう)しました。日本軍の周囲には国民政府軍が駐屯していたので、彼らの仕業(しわざ)ではないかと思った日本軍は軍使(ぐんし)を派遣(はけん)しました。
ところが、翌8日の深夜3時25分頃に再び日本軍に向けた発砲事件が起きたため、さすがにこの時は日本軍も戦闘態勢(せんとうたいせい)に入りましたが、事件の拡大を恐(おそ)れて直前で攻撃(こうげき)を中止しました。
すると、今度は日本軍が攻撃してこないと高(たか)をくくったのか、明け方の5時30分頃に国民政府軍が本格的な銃撃(じゅうげき)を浴(あ)びせてきたため、ついに日本軍も反撃(はんげき)を開始しましたが、最初の発砲からすでに約7時間も経過していました。
以上が盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)の真相(しんそう)です。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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鹿児島のタク 黒田先生,おはようございます。
盧溝橋事件については,まず日本軍が発砲したというのが定説と思っていました。
研究の結果,いろいろ新たに分かってくることがあるのですね。
どうもありがとうございました。
ぴーち おはようございます!
盧溝橋事件については全く経緯を把握していませんが、日本軍側は最初は慎重な態度を示していたのですね。軽率な行動をしないようにと思っていた事が、帰って仇になってしまったのでしょうか?それとも、歴史書には日本側が最初に攻撃してきたとでも書かれていたのでしょうか?
応援凸
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 > 盧溝橋事件については,まず日本軍が発砲したというのが定説と思っていました。
つい最近までは当たり前のように言われてきましたね。
プロパガンダの恐ろしさです。
盧溝橋事件に関してはもうしばらく考察を続けます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 盧溝橋事件については全く経緯を把握していませんが、日本軍側は最初は慎重な態度を示していたのですね。軽率な行動をしないようにと思っていた事が、帰って仇になってしまったのでしょうか?それとも、歴史書には日本側が最初に攻撃してきたとでも書かれていたのでしょうか?
仰るとおり、日本軍の行動は非常に紳士的でしたが、それが仇になった可能性は確かにありますね。
歴史書の記載は最近まではその通りでした(今でも書いてあるのもあるそうですが)。
そのあたりの考察を今後も続けます。
張学良がなぜ中国共産党に寝返(ねがえ)ったのかは諸説(しょせつ)ありますが、いずれにせよ西安事件によって蒋介石は共産党との内戦を中止して抗日(こうにち)へと方針を転換(てんかん)することになりました。
なお、1937(昭和12)年9月に国民政府は正式に中国共産党との内戦停止と抗日民族統一戦線(こうにちみんぞくとういつせんせん)の形成に踏(ふ)み切りましたが、これらの動きは今日では第二次国共合作(だいにじこっきょうがっさく)といわれています。
西安事件をきっかけとして中国大陸では国民党と共産党との内戦が中止され、彼らの牙(きば)が一斉(いっせい)に我が国に向けられることになるのですが、当時の日本政府がどこまで事態の深刻(しんこく)さを理解していたかは分かりません。
ただ、我が国で共産主義に共鳴(きょうめい)し、ソ連のスパイであった尾崎秀実(おざきほつみ)をブレーンとした第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が誕生(たんじょう)した直後に、まるでそれを待っていたかのように「ある出来事」が起きてしまったという、偶然(ぐうぜん)とは思えない歴史的事実があったことだけは間違いありません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
この蒋介石の中国共産党の寝返りの背景には、
交渉の達人の『周恩来』の存在があったと聞いたことがあります。
周恩来が蒋介石に
『今、中国人同士で、戦っている場合ではない。協力して、日本をやっつけよう。同じ中国人ではないか。』と
真偽のほどは、わかりませんが
周恩来の力なら、その可能性もありますね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに周恩来なら言いそうな言葉ですね。
いずれにせよ、生命の危険があったとはいえ蒋介石の「寝返り」がその後の様々な問題を引き起こしてしまいました。
ぴーち おはようございます!
他人事とは思えないですねぇ・(^^ゞ
悪い事というのは何故か上手い具合に
重なるものなんですよね・・・(;´д`)トホホ…
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 他人事とは思えないですねぇ・(^^ゞ
> 悪い事というのは何故か上手い具合に
> 重なるものなんですよね・・・(;´д`)トホホ…
その通りですよね。今回の流れも偶然がもたらした産物とは素直に受け取れない側面があります。
そして事態は最悪の方に…。
今、気づきましたが
青田です。 黒田先生
青田です。
今、気づきましたが、冷静に考えると
毛沢東(中国共産党)は、ゲリラの親分であり、
それが、現在の中国を支配しています。
その中国が、国連の常任理事国で、戦勝国になっています。
この中国が、『日本に謝罪を求めている。』
あきらかにおかしいです。
そういえば、中国では、日本のように名家(昔からの名門)は、存在しませんし、歴史的建造物もありません。モラルの規範である孔子を毛沢東は、否定し、文化大革命で、大粛清しました。
この『権威』の欠如が、『権力』の暴走(粛清)に繋がるのかもしれませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 なるほど、そのような一面も確かにありますね。
なぜなら、抗日救国運動や人民戦線運動は救国のためとか、あるいは世界の人民と連携(れんけい)して行動するといった建前(たてまえ)ばかりではなく、各国でナショナリズムをあおることによって共産主義への敵対心(てきたいしん)を緩和(かんわ)させることが本当の目的だったからです。
中国共産党が提唱した抗日救国運動は1935(昭和10)年から1936(昭和11)年にかけて数多くの在留(ざいりゅう)日本人が殺されるなどのテロ事件を起こしましたが、その間に共産党が山西省(さんせいしょう)に侵入(しんにゅう)するなど勢力の拡大をもたらしたため、国民政府の蒋介石(しょうかいせき)は中国共産党に対する本格的な掃討作戦(そうとうさくせん)を開始しました。
蒋介石の動きに対し、中国共産党は陝西省(せんせいしょう)の延安(えんあん)にまで追いつめられましたが、ここで起死回生(きしかいせい)の事件を起こすことによって共産党の勢力が回復するとともに、国民政府や我が国日本に対して深刻(しんこく)な影響(えいきょう)を与えてしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
この頃の中国共産党は、ゲリラの一派でしかなかったですね。
卑怯なずる賢さは、かなり、上手です。
特に人民へのマインドコントロールの仕方も
上手ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の中国共産党は追い詰められていました。
現在の中華人民共和国の姿とは大違いですね。ただ、生き残るための「ずる賢さ」は今も昔も変わらないようですが…。
ぴーち おはようございます!
窮地に追い込まれた時にこそ、それまで蓄えていたもの(物質的なもの以外に知識など)がどれだけ備わっているかという事が試されたりしますが、何も持ちあわせていなければ悪魔に魂を売ってまでも何かを得ようと必死になるものですが、
この頃の中国も、やはりそんな状態だったのでしょうか・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 中国共産党の場合は後者かもしれませんね。
コミンテルンの支持を受ければ言いなりになるしかないのですが、それでも生き残るためには仕方がない。
7世紀に唐への朝貢を決意した新羅を彷彿とさせます。やはり歴史は流れていますね。
停戦協定において満州と接した華北(かほく)地区にあたる河北省東北部(かほくしょうとうほくぶ)には非武装地帯(ひぶそうちたい)が設定され、その治安維持を中国側の警察が担当(たんとう)するようになりましたが、中国側の圧政(あっせい)に苦しんでいた地元民からは、いつしか国民政府(こくみんせいふ)からの独立を求める声が聞かれるようになりました。
なぜなら、当時の華北には日本軍や満州国、あるいは国民政府や中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)、さらには各地の馬賊(ばぞく)と呼ばれた地方有力者による軍閥(ぐんばつ)が入り乱れ、政治的に混乱を極(きわ)めていたからです。これらのうち平和と繁栄(はんえい)が保証されると当時最も信頼されていたのは日本軍や満州国であり、いつしか地元民は日本軍の支配下に入ることを願うようになっていました。
一方、関東軍(かんとうぐん)は満州のさらなる防衛強化のためには華北を日本の影響下(えいきょうか)に置(お)いた方が良いと考えており、地元民と関東軍との思惑(おもわく)が一致(いっち)したこともあって昭和10(1935)年に冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)が樹立(じゅりつ)されるなど、いわゆる華北分離工作(かほくぶんりこうさく)が進められました。
なお、日本政府は昭和11(1936)年1月に「第一次北支処理要綱(だいいちじほくししょりようこう)」を閣議決定(かくぎけってい)しており、これは華北分離工作を国策(こくさく)としたものと解釈(かいしゃく)されているようですが、その背景には「自国の軍隊が自国の判断に従って世界展開する事を自明の事であり、日本なくして国際秩序を維持できない」という当時の日本人の強い自負があったからだと考えられます。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
華北分離工作を国策だと解釈された時のデメリットは・・?
この場合、関東軍が単独で決断した事だという
事が、事実という事ですか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この場合、関東軍が単独で決断した事だという
> 事が、事実という事ですか?
元々は関東軍の施策だったのが追認した格好になりますからね。
軍部の当時の強さがうかがえる事実でもありますが。
ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」ですが、次回(第36回)は「山田方谷 ~江戸時代に学ぶ財政改革」と題して、幕末に窮乏(きゅうぼう)した藩の財政を劇的(げきてき)に立て直した山田方谷(やまだほうこく)についてご紹介します。
昨年(平成24年)末に誕生した第二次安倍晋三(あべしんぞう)内閣による「アベノミクス」と呼ばれる一連の経済政策によって、打ち続く不況からの脱却(だっきゃく)に期待が高まる昨今(さっこん)ですが、今から約160年前の江戸時代末期にも、10万両(現在の価値で約600億円)の借財を抱(かか)えて破産寸前だった藩の財政を立て直し、逆に10万両の蓄財(ちくざい)を成し遂(と)げたという驚(おどろ)くべき実績を持つ人物がいました。その名を山田方谷といいます。
備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)の財政再建を任(まか)された山田方谷は、20世紀の経済学者として有名なケインズに先駆(さきが)けて積極的な経済改革を行って充分過ぎる結果を残したのみならず、彼が編成した西洋風の兵学は幕末の雄(ゆう)である長州藩(ちょうしゅうはん)も参考にしたほどでした。
次回の歴史講座では、JRの駅にもその名が残る山田方谷の実績をたどりながら、現代のアベノミクスにもつながる経済改革とその神髄(しんずい)について、下記のとおり5月25日(土)には大阪、6月1日(土)には東京でそれぞれ詳(くわ)しく紹介したいと思いますので、多くの皆様のご参加をお願いいたします!
第36回黒田裕樹の歴史講座
「山田方谷 ~江戸時代に学ぶ財政改革」
日時:(大阪)平成25年5月25日(土) 午後6時より
(東京)平成25年6月1日(土) 午後4時30分より
(※大阪と東京で開始時間が異なります。ご注意ください。また、東京講演はいつもより開始時間が1時間遅くなっております)
場所:(大阪)大阪市立総合生涯学習センター 第3研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(東京)スター貸会議室 浅草 (井門浅草ビル5階)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます。なお、ビルの1階には有名なカレー屋さんがあります)
資料代:いずれも金500円(カンパも受け付けます)
(※今回の講座より資料代を頂戴します。ご容赦ください)
なお、大阪・東京とも講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
最後に、おなじみのブロともであるクラチーさんからの素晴らしい画像を皆様にご覧いただきます!
(※クラチーさんのブログについては、下線部からご覧いただけます。)






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ぴーち おはようございます^^
沢山の借財があり、ただそれをゼロにしただけではなく、更に蓄財まで成し遂げるとは(゚д゚)!山田方谷とはどんな
人物だったのでしょうかね・・・?
興味深い人物ですね^^
JRの駅にも名前が残されているんですね!
それにしても
いつもながら、クラチーさんのイラストは、和みを与えてくれますね♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
山田方谷はあまり知られていませんが、今の経済政策とも絡ませながら、日本人として絶対に押さえておきたい人物であると思っております。ご期待ください!
> いつもながら、クラチーさんのイラストは、和みを与えてくれますね♪
彼女の画才にはいつも助けられています(^ω^)
くらえ!必殺・安倍のミィ~ックス(謎)
クラチー ・・・・・。(゚。゚;)
ゴシゴシゴシ(⊃m-;)
・・・・・。(0。0;)
は、はわわわわ…!
いつの間にこのようなコメントが…!?
黒田先生、ぴーちさん、
本当にありがとうございます!
ああ、6/1がドキドキですね。
時間を間違えないようにせねば!
クラチーさんへ
黒田裕樹 ハイ、いつの間にかコメントが来ていました(^ω^)
6月1日はもちろん、ますは大阪講演をしっかりと成功させなければいけませんね。
それにしても我が国はもちろんのこと、特定の国家にも効きそうな必殺技です(爆)。
財政改革!
鹿児島のタク 黒田先生,お久しぶりです。
現在の日本の国家財政…心配です。
でも,江戸時代の幕府並びに藩財政も“火の車”だったようですね。
でも,財政改革に成功している藩も割とあるのだそうですね。現代の日本が歴史に学ぶことができるのでしょうか。
私は鹿児島生まれの鹿児島育ちです。
薩摩藩には,幕末に調所広郷という藩財政改革者が出ております。この人の名は高等学校の日本史教科書にも出ているのではないでしょうか。(?)
非常に“荒治療”で,「ひどいこと」もやっているようですが,500万両の借財が割と短いスパンで50万両のゆとりまで生んでいます。幕末から,明治維新の薩摩藩の活躍はこのような財政的な裏付けがあったのでしょう。
黒田先生の「備中松山藩の山田方谷」の研修,楽しみにしております。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 我が国の国家財政は「外部への借金」が少ないのでまだ大丈夫ですが、当時の藩財政はこれが中心だったために火の車でした。
調所広郷は仰るとおり歴史教科書にも紹介されていますが、今回紹介する山田方谷とは根本的に異なるところがありますので、そのあたりも解説できればと思っております。
今日は、ありがとうございました
- 黒田先生
青田です。
今日は、素晴らしい講座に参加させて頂きまして、本当に有難うございました。
今回は、不思議に、質問があまり、できませんでした。
正直、山田方谷は、完璧すぎて、ツッコミを入れることさえできませんでした。
歴史上の人物は、人の見方で、是と非があったり、好き嫌いが
あって、意見が分かれるのが普通ですが
山田方谷は、マイナスの部分が見つかりません。
本当に凄い人物でした。
青田さんへ
黒田裕樹 こちらこそご参加いただきありがとうございました。
ブログ上での更新もぜひお楽しみください。
お蔭様をもちまして、5月18日に行われました桃下村塾特別講座「日本一出世をした男 豊臣秀吉の真実」には18名の皆様がご参加くださいました。全体的な内容はもちろんのこと、特に朝鮮出兵について解説した後半部分は「黒田節」全開の熱のこもった講演ができました。主催者の方々並びに当日ご参加の皆様に厚く御礼申し上げます。

なお、当日の講演の内容については下記のYouTubeをご覧ください。
ちなみに、今後(平成25年5月~)も引き続き私こと黒田裕樹の講演を以下のとおり行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください。
我が町を考える会
(大阪府茨木市)
「自治基本条例の恐るべき実態」
日時:5月25日(土) 14:00~16:00
(「我が町を考える会」の総会後に講演を行います)
場所:茨木市クリエイトセンター 204号室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
参加費:無料
(※同日の18時より大阪・梅田で「第36回黒田裕樹の歴史講座」を行います)
(※以下は追記にて紹介します)
(大阪府茨木市)
「明治天皇」
日時:6月9日(日) 14:00~16:00
場所:茨木市福祉文化会館 202号室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
羽曳野を教育日本一にする講演会。
(大阪府羽曳野市)
第2部「日本の歴史を知る」
(※第1部は別の方が講演されます)
日時:6月9日(日) 18:30~20:50(受付18:00~)
(※第2部の講演は19:30以降に開始予定ですが、ぜひ第1部からご参加ください)
場所:LICはびきの(羽曳野市立生活文化情報センター) ホールM
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料





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近衛の思惑(おもわく)は結局実現しませんでしたが、この大赦論は皇道派(こうどうは)の将校の救済が主な目的だったとされている一方で大赦の対象者の多くが社会主義あるいは共産主義者の熱心な運動者であったからではないかという見方もあります。
要するに近衛はかつてのロシア革命のように「直接行動」も辞さない共産主義に共鳴(きょうめい)していたのであり、彼がなぜそう考えたのかという理由としては、尾崎秀実(おざきほつみ)をブレーンに迎えていたように、やはり彼自身が共産主義に染(そ)まっていたからではないでしょうか。
そして、そんな彼の思想が首相就任の翌月に起きた「ある出来事」をきっかけとして、我が国はおろか全世界を揺(ゆ)るがした大きな戦争へと導(みちび)いてしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル 近衛文麿はプリンスを絵に描いたキャラですね。摂関家出身で将軍家とも縁続き、千年単位で日本の権力中枢にいた血縁集団の氏の長者です。
不本意ながら、少し近衛を弁護する形になりますが、今でこそ社会主義思想の破綻は明らかですが、つい二昔前まで「革新」などと良いイメージで呼ばれていました。保守は「反動」とか「守旧派」などと良くないイメージでした。
ましてや当時の社会主義は学生や知識人の間に広がった流行思想です。早い話がカッコイイ思想でした。スペイン内戦では欧米各国から学生や知識人が義勇兵として参加したものです。
近衛文麿は、(異論はあるでしょうが)根は善良で世の中を良くしたいと考えるお坊っちゃん。左翼にかぶれても無理ないでしょう。
保守の論客の多くは青少年時代に左翼にかぶれました。かぶれたからこそ、内部で左翼の欺瞞を思い知り保守の正しさを再確認するのです。
私は左翼にかぶれることは成長過程で必要な通過儀礼とさえ思っています。
近衛文麿は時代のタイミングが悪すぎた。
極端な理想主義者
- 黒田先生
こんには
青田です。
今の時点で、近衛文麿について、わかりませんが、
ただ、言えることは
苦労知らずにお坊っちゃんは、絵に描いた餅
お花畑思考になる気がします。
226事件の青年将校も、実戦経験のないエリートでした。
この前の民〇党の鳩〇元首相のように。。
(本人は、悪気がないだけに、さらにタチが悪いです。)
ぴーち おはようございます!
なるほど・・・近衛文麿は真の平和主義者という訳ではなく、共産主義、社会主義者だけをひいきして
いた事で、融和政策を打ち出したのですね。
しかし、その思惑も当時は既に周知のことだったのですね。
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大赦の関係者・・・
鹿児島のタク 黒田先生,おはようございます。
2.26事件にかかわったような将校が「社会主義あるいは共産主義」の熱心な運動かだったとの見方があるなんて知りませんでした。
何となく「右側」だった方々だったのでは…というイメージがあります。
でも,このころ政党政治への不満や昭和恐慌,特に東北地方で娘を身売りにださなけらばならないような状態を考えると…。
こんなこと書いたら叱られるでしょうが,2.26事件には「義挙」の面がありますよね。(?)
でも,昭和天皇はこの2.26事件に対して御怒りになったと何か本で読んだことがあります。これは昭和天皇としては当然だったと思いますし,そうせざるを得なかったのでしょう。ご判断に,お悩みになられたことでしょうね。苦しまれたことでしょう。
明治憲法は天皇が「絶対的な主権者」ですが,総理大臣をはじめ各国務大臣が「輔弼」をすることになっています。実際には最終的な責任は,総理大臣をはじめする国務大臣で終わり。実質的に明治天皇も,大正天皇のことはよく存じ上げないのですが,昭和天皇も政治的なご発言はできるだけ,御控えになったと聞いています。
2.26事件は日本の歴史(近現代史)にとって,大きすぎる事件ですね。
長文となってしまいました。
黒田先生,すみません。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方も確かにありますね。
今さらながら一人の人間が歴史に及ぼす影響の恐ろしさを思い知らされます。
青田さんへ
黒田裕樹 分かりやすいたとえ(?)を有難うございます。
悪気のなさは同じかもしれませんね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 大赦論を出した時点で「お里が知れる」状態でしたね。
ただ、それがスパイなど一部の人間にとっては都合が良かったことで、彼はさらに「利用」されることになります。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 二・二六事件に関する私の見解は以下の内容をご覧ください。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-1675.html
色々と意見が分かれる事件だと思います。
河上のもとで熱心にマルクス経済学を学んだ近衛は共産主義に大いに共鳴し、20代の頃には「私有財産制が諸悪の根源であり、財産や貧困の害悪を断ち切るには社会主義を実現するしかない」という論文を発表しています。
近衛はやがて昭和11(1936)年に政策集団の昭和研究会を結成しましたが、その有力メンバーには革新派の官僚や学者・評論家・ジャーナリストなどが参加し、政党関係者としては社会大衆党の幹部が多く加わりました。
近衛が首相に就任する直前の昭和12(1937)年4月には、朝日新聞の記者で後に近衛の有力なブレーンとなった、かのゾルゲ事件で有名な尾崎秀実(おざきほつみ)も参加しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
近衛文麿が、社会主義思想に染まっていて
そのブレインが尾崎秀実がいたという事実は
本当に本当に驚きました。(驚天動地)!!
ただ、同時に疑問を感じたのは、当時の
日本は、特高警察があり、『社会主義運動には
過敏になっていたのになぜ?』と思いました。
やはり、
『大衆迎合主義』と『軍部の権力拡大』が真実を観えなくしたのしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 意外と知られていない事実ですからね。
個人的には、近衛文麿は歴史が生んだ我が国最大の「売国主義者」だと分析しています。
これからも折に触れて彼の名前が出ることでしょう。
ぴーち おはようございます!
砂場で大きな山を作りあげるときの工程に
まずは砂を周りからどんどん集めて盛りつけて行き、ある程度砂が盛りつけられると、上から圧力を掛けて、一旦表面を平らに踏み固めて
そして再び、砂を集めて盛りつけていくと
次第に大きな山に形成されていきますが
ひとつの国を大きく、豊かにしていく工程も
この砂山作りに類似している様だとふと感じました。砂を集める作業は、私財を蓄える作業。
一旦踏み固めて平らにする作業が、社会主義的圧力。そんな歴史を繰り返しながら、次第にこの国は成長して来たのかと思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそのようなたとえも考えられますね。
それが国家のためになればそれはそれでよいのかもしれませんが…。