しかし、我が国にとってリットン調査団の主張は到底(とうてい)承認できるものではありませんでした。なぜなら、満州における我が国の軍事行為は日本人居留民の保護という正当な理由がありましたし、またそのために現地の満州族による国家を建国したということは、欧米列強による植民地化に伴(ともな)う簒奪行為(さんだつこうい)とは雲泥(うんでい)の差がありました。
加えて満州への進出は、アメリカやイギリスなどがブロック経済と化していく中で、資源を持たない我が国が生き残るための正当な手段であるとともに、広大な満州の権益以外に我が国が頼れるものがないに等しいという深刻(しんこく)な事情もあったのです。
それなのに、欧米列強は自分たちが好き勝手に植民地から収奪(しゅうだつ)しておきながら、我が国日本による正当かつ人道的な統治行為を一切認めようともしない。これまで我が国は世界の一流国をめざして欧米列強と妥協(だきょう)に妥協を重ねてきたが、これ以上の欧米による身勝手にもはや我が国が付き合う必要はないのではないか―。
そんな我が国の思いが、国際的に重大な決断をすることにつながったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル リットン報告は、日本の領土的野心による軍事行動の末に誕生した満州国を裏付ける証拠と受け取られています。
これは現地民族の蜂起によるものというより日本軍が主導した点をリットンらが指摘した事を後世のマスコミや歴史家が強調したものですが、御存知のようにリットンはそれだけを言ったのではありません。
たとえば、主権を有するはずの中国が満州に関心を示さず、その結果中央政府の管理も行き届いてない地方で日本人居留民が危険に晒されている点(ゆえに中国主権下の自治政府という結論か)。
隣接国(日本を指すか)の領土的野心で行われた単純な事件ではない点。
関東軍が自衛のために行なった動機は否定しない点。
中国の日本製品ボイコットなど一連の反日行動は不法と認めた点。
中国主権下の自治政府樹立後の行政の外国人顧問は満州が抱える特殊事情により主に日本人から選ぶ点。
概ね黒田氏が述べた当時の国際情勢と国際法と国際常識を背景にした内容(欧米の依怙贔屓はあるが)です。
ところが後世のマスコミや歴史家は日本軍の暴走のみを強調し定説としました。
このところの黒田氏は少し焦り過ぎている感がします。もう少し丁寧にしないと、世間はオウムの上祐の強弁と同列視します。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 まずはっきりさせなければならないことは、拙ブログは単なる「黒田史観」の公開の場ではない、ということです。
あまりにも偏向が多すぎる昨今の歴史教育に物申すだけではなく、我が国の立場を基本とはしながらも、可能な限り公平な立場で歴史教育の一環として史実を紹介する、というのが大前提です。
おかげさまで拙ブログには毎日多くの皆様のご訪問をいただいておりますが、基本的にはご訪問者一人一人がそれぞれの歴史観というものを持っておられ、ご自身との対比の中で新たな歴史に興味をお持ちいただく、というのも重要なステップです。
とはいえ、数多くのご訪問者の中にはオーソドックスを基本とする私の説ではご不満の方もおられるかもしれません。しかし、開設以来丸4年間、ずっと続けている当ブログの姿勢は今後も変えるつもりはございませんし、そもそも数多くのブログ読者に対して一所懸命に書き上げてきたブログの見解を否定する勢いで、他人がいきなり自己の見解を主張し出すのみならず、あまつさえ強弁だなどとと意見するなど、臆病者の私には僭越すぎてとても出来たものではありません。
なお、開設以来じっくりと歴史教育ブログとしてのスタンスを練り上げてきた私としては、少なくとも全く焦ってなどいないことを申し上げておきます。
これを理解するには
青田です。 黒田先生、晴雨堂ミカエル様
こんばんは
青田です。
このリットン調査団は、当時の日本人からすると
欧米列強が自分達の都合のいいように働きかけるために機関に思えたと思います。
つまり、この当時の欧米列強は、
一見、紳士的なようにふるまいながら
その裏側では、しっかりと自分の利益を得ることが出来る国だということを当時の日本人は、知っていたということです。
特に自分達のしてきたことは、棚に置いて。。
たとえば、
● イギリスは、4億人のインドを4000人にイギリス人で、統治するために、部族間の対立を煽って、インドを植民地支配しました。(400年間も植民地支配をしてきたこと。)
しかし、リットン調査団は、インドに行って、
調査をしていませんし、たとえ、インドの独立は
提案されていなかったと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 青田さんのおっしゃるとおりだと思います。
国際的な組織の発想は今も昔も基本的にかわっていませんからね。
わかりました。この話はこれで終わりにしましょう。
晴雨堂ミカエル 念のため申し上げますが、私は黒田氏のお説に以前より共感・支持を表明してきた者です。
申し上げたのは極めてシンプル、政治的に微妙な問題に踏み込んだ講座を行うゆえ、もう少し丁寧な解説が必要、ということです。
現在は中国側に迎合した歴史観が文科省の検定で承認されていますから、保守的な市民でもそれが正しい、あるいは常識と思い込んでいる人は多々います。だからもう少し説明が必要だと感じたのです。
口頭で講座を受ける方々はある程度の内容を理解した上で、あるいは期待して参加されていますので、若干説明を割愛しても好意的に理解してくれますが、blogは極端にいえば70億の人間を前に教鞭をとるようなものです。油断すると事実を述べているのに強弁だの曲解だのと陥れられます。
いつになく言葉多い返信コメントに若干気がかりを感じますが、「焦っていない」との弁、信じましょう。
4年前なら何も申し上げません。黒田氏の地道な活動の結果、今日の発展を迎えたからこそ逆に老婆心から申し上げている点はご理解ください。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 ご理解いただき感謝いたします。
揚げ足取りはいつの時代にも存在しますが、確固たる信念を持って対処したいものですね。
今回の講演は「人権法案」「治安維持法」「自治基本条例」という3つの項目を一回の講座にまとめたものでしたが、それだけに内容も濃く、ご参加の皆様にも十分ご満足いただけたようです。また、それぞれの項目にお詳しい方が私の講演内容をフォローしてくださったのも大変有難く感じました。
次回(3月30日)は東京講演を行います。関東の皆様とお会いできることを今回も楽しみにしております!
第35回黒田裕樹の歴史講座(ブログ開設4周年記念講演)
「人権法案の矛盾 ~言論統制社会が国を滅ぼす」
日時:平成25年3月30日(土) 午後3時30分より
場所: スター貸会議室 浅草 (井門浅草ビル5階)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます。なお、ビルの1階には有名なカレー屋さんがあります)
会費:無料(カンパを受け付けます)
ブログをご覧の皆様(特に関東在住の方々)も、よろしければ是非ご参加ください。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、これまでと同様に後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になってください。
なお、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
最後に大阪での講座の様子を撮影した画像を追記にて紹介しますのでご覧ください。
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ぴーち おはようございます!
過去最高の34名の方ですか!
素晴らしいですね^^
黒田さんの日頃のご努力が実を結ばれたようで何よりです♪
東京講演の成功もお祈りしております。
人権法案問題の方の内容にも興味がありますので、また拝読させていただきます^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
いよいよ東京講演ですが、精いっぱい頑張ってきます!
人権法案の矛盾~東京講演を聴講して
小野寺 本日初めて参加させていただきました。やはり生だと迫力が違いますね。次回からも楽しみです。是非参加させていただきます。近々大東亜戦争についてお話し下さるとのこと。黒田史観がどんなものか・・今からわくわくします。本日は楽しい時間どうもありがとうございました!
ぴーち おはようございます!
東京講演、お疲れ様でした^^
桜はまだ咲いていましたか?
講演の様子を拝見させていただくのを
楽しみにしています♪
応援凸
小野寺さんへ
黒田裕樹 こちらこそ昨日は有難うございました。
仰るとおり、年内には大東亜戦争(=太平洋戦争)に関する歴史を拙ブログで詳しく紹介することになりますので、こちらもご期待ください。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
桜はぎりぎりOKでした。今朝ほども桜の舞い散る靖国神社近辺を楽しく散策しましたよ(^ω^)
講演に関しては4月4日からブログ上でも公開予定です。
ただ、事情はどうあれ満州国が日本の影響(えいきょう)を強く受けているという事実は動かしがたいものがあるかもしれませんが、これも国際的な慣例(かんれい)からすればそう珍(めずら)しいことではないのです。例えばモナコ公国(こうこく)は長い間フランスの保護国(ほごこく)として外交権を委(ゆだ)ねていましたが、だからといってモナコがフランスの傀儡政権(かいらいせいけん)だという見方が成立するでしょうか。
それに満州国は我が国のみが承認したわけではありません。満州の権益を狙(ねら)っていたアメリカは満州事変を九ヵ国条約違反(いはん)として我が国を非難(ひなん)しましたが、イギリスは「満州国の独立宣言は九ヵ国条約によって禁じられない」という見解を示し、満州国を事実上容認しました。
なぜなら、満州事変や満州国の建国が日本人居留民(きょりゅうみん)の保護を目的としていたことを、同じように中国大陸に利権を持っていたイギリスが理解していたからです。また、イギリスにとっては自国の利権を侵害(しんがい)さえしなければ、満州国の存在が対ソ連の防波堤(ぼうはてい)としてかえって好都合(こうつごう)であることを見抜(みぬ)いていたと思われます。
ただし、国民政府が柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)を日本の侵略(しんりゃく)として国際連盟(こくさいれんめい)へ提訴(ていそ)したため、その後に連盟理事会が満州へ調査団を派遣(はけん)することになり、昭和7(1932)年にイギリスのリットンを団長とするいわゆるリットン調査団が約5ヵ月にわたって日本や満州・中国など各地を訪問した後、同年10月にリットン報告書を連盟理事会に提出しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル リットン調査団の報告が満州国の「偽満性」と日本一国が領土的野心から起こした侵略行為の証拠と位置づけられている感がありますが、これは相当に誤解とマスコミと歴史家の故意による「編集」があります。
ネタばれになるので、コメントはここまでにしましょう。黒田氏の次回の解説に期待します。
満州国にたいする批判について
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
まず、このことを考えるうえで、2つの視点から
考えると観えてきますね。
<中国の歴史から、観ると>
仮に、満州国が日本の強い影響を受けていた国だとしても
中国の歴史からすると、
◆ 中国の中にいろいろな国に分割されている歴史がほとんどであり、中国統一王朝自体、わずかでしかないということ。
◆ 中国は、三国志の時代に人口が10分の1に減り、それ以来、大量の異民族が流入し、完全に異民族が支配して、創った王朝も存在しているということ。
(元、清など)
とりたてて、満州が日本の影響を受けていたからといって、批判される理由にはならない。
<当時の世界常識から、観ると>
イギリス、フランスなどのヨーロッパでは、戦争と植民地支配の歴史から、
日本の満州国への介入を世界常識と考えていた。
明治以来、日本は、ヨーロッパから、その当時の世界常識を学んで、それを基にした行動なので、
今の価値観で、その当時の日本の行為を批判しても、全く、無意味である。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 ご配慮いただきありがとうございました。
こちらも31日のご見解で改めてコメントいたします。
青田さんへ
黒田裕樹 冷静な分析だと私も思います。
日本史に限定する分野でなく、世界史レベルで判断すると満州国の真実がはっきり見えてきますね。
もし満州国が我が国の傀儡国家として植民地のような厳(きび)しい対応をしていれば、少なくとも執政(後の皇帝)となった溥儀(ふぎ)を強引にその座に就(つ)かせたはずなのですが、実際には溥儀は自(みずか)ら望んで執政や皇帝の地位に就きました。
なぜなら、清国はもともと満州から中国大陸に進出した国家であり、満州国の建国は元来(がんらい)の発祥(はっしょう)の地に清朝が復活したことを意味していたからです。だからこそ、溥儀は父祖(ふそ)の故郷である満州への帰還を自ら希望したのであり、言わば満州族の正当な皇帝が故郷に戻(もど)っただけなのです。
さらに言えば、万里(ばんり)の長城(ちょうじょう)の北に位置する満州は、それまで歴史的に中国の領土になったことは一度もありません。確かに清朝は満州を自己の領土としましたが、同時にそれは中国が満州に併合(へいごう)されたことを意味していました。
また、満州国の統治者として満州族の本来の皇帝が就任するというアイディアは、民族自決(みんぞくじけつ、各民族が自らの意志によって、その帰属や政治組織、あるいは政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利のこと)という意味でも理に適(かな)っており、当時の国際常識からすれば非常に穏健(おんけん)な方法でした。何しろ他の列強は1915(大正4)年にアメリカがハイチを侵攻(しんこう)した際に約20年間も占領(せんりょう)し続けたように、明らかな侵略(しんりゃく)の意図(いと)を持っていたのが当然だったからです。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
非常に納得できました。
ただ、満州国について知るには、日本の歴史だけではなく、支那の歴史そのものも知らないと
わからないですね。
清という国が、満州人という異民族によって
創られた国という大前提を知らないと
満州国が、傀儡政権だと錯覚してしまうのだと
思います。
なまじ、日本の知識者も偏った少ない知識で
論じるから、歪んだ近現代史になってしまうような気がします。
さらに
溥儀については、映画『ラストエンペラー』を観て、溥儀は、日本軍に利用された悲劇な人物と思っていたのですが、実際は、かなり、違うようですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
満州国についてまともに語るのであれば、満州族のことについてもっとよく勉強しないと話になりません。
溥儀の件はいずれ戦後に詳しく紹介しますが、終戦直後に彼の生命の危険もあったという背景もあります。
ぴーち おはようございます!
こうして伺っていると、
これまで実しやかに語られてきた歴史というのは、確かに史実に基づいた確かなものも多い中、、ほんの一部の人間の思惑や、欲望余る外国による捏造説によって、全く別物のシナリオに書き換えられてしまうという危険を常に孕んでいるものなのですね。
そして何も知らない(或いは知ろうとしない)私のような人間は、簡単に嘘を刷り込まれ、それが正しいものだと誤解してしまう・・。
そう考えると、黒田さんの様に常に歴史に疑問を
持ち、冷静な目で見つめていく姿勢が大切であるのだと改めて感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 僭越ながら、仰るとおりだと私も思います。
純粋な人間ほどだましやすい。だからこそ歴史教育には大きな責任が伴うんです。
満州全土における独立の機運はやがて昭和7(1932)年3月に日・朝・満・蒙(もう)・漢の諸民族(しょみんぞく)の協和、すなわち五族協和(ごぞくきょうわ)を理想に掲(かか)げて満州国(まんしゅうこく)の建国が宣言され、清朝(しんちょう)最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)が執政(しっせい)として迎(むか)えられました。なお、溥儀はこの2年後に満州国の皇帝に即位(そくい)します。
当時の犬養毅(いぬかいつよし)内閣は満州国の承認に消極的(しょうきょくてき)でしたが、五・一五事件で犬養内閣が崩壊(ほうかい)すると(詳しくは後述します)、次に成立した斎藤実(さいとうまこと)内閣は昭和7年9月に両国間で日満議定書(にちまんぎていしょ)を締結(ていけつ)して、満州国を承認しました。
ちなみに日満議定書の主な内容は満州における日本の権益の承認や満州国防衛(ぼうえい)のための日本軍の駐屯(ちゅうとん、軍隊が一定の地にとどまっていること)だけであり、これは満州事変以前と基本的に変わっていません。ちなみに誕生したばかりの満州国には、国家の運営を手助けするために多数の日本人が要職に就(つ)きました。
なお、満州国建国後の昭和8(1933)年5月に日中軍事停戦協定(にっちゅうぐんじていせんきょうてい、別名を塘沽停戦協定=タンクーていせんきょうてい)が結ばれて満州事変が終息(しゅうそく)しました。この後、日中間においては昭和12(1937)年の盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)まで停戦状態が続きます(詳しくは後述します)ので、この事実だけでもいわゆる「十五年戦争」の嘘(うそ)がはっきりします。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
またまた、頭が大混乱になりました。
おそらく、私が習った歴史教育と
今知る中国の近現代史が、全く、違うからなのでしょうね。
というのも、
満州は、正式な国だったということです。
ということは、この満洲国は、中国とは、全く違うということになりますね。
よく、中国人が、満州を偽満と言い、中国の一部を日本が占領して、創った傀儡政権の国だと語っていて、私もそう頭が洗脳されていたのですが、
そう考えると
黒田先生、日本人の頭の中を再インストールしないと駄目ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
満州国の立ち位置についてはもう少し先で詳しく紹介しますので、ここでは割愛します。
そもそも現地の居留民(きょりゅうみん)に危害(きがい)が及(およ)んだ場合に本国政府が彼らの安全を守ろうとするのは今日でも当たり前に行われていることであり、またそのために軍隊が出動するというのも当時の国際社会では広く認められていたことでした。
関東軍も満州にいた日本人居留民の安全を守るために実力行使をしたのであり、これは外交上においても特に非道(ひどう)な行為であるとはいえないのです。
さらに付け加えれば、関東軍は満州を制圧した後にそのまま占領(せんりょう)を続けたわけではなく、満州の安全を維持するために、清朝(しんちょう)最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)を迎(むか)えて新たな国家である満州国(まんしゅうこく)を建国しています。





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ぴーち おはようございます!
映画の中のセリフなどでも、(これはアメリカ人的な発想ですが)
「我らの様な狩猟民族ならまだしも、日本の様な農耕民族は田畑を耕していればよい」
とありますが、
確かに農耕民族を先祖に持つ私達の気質の根源を辿ってみた時に、根っから戦いを好む民族ではなく、窮地に立たされた時に已む無く武器を手に取ると言った所があると思います。
そして手に取ったは良いですが、振りかざした手は必要以上の流血をせずに、目的だけ果たせれば、すぐに下ろして退散するといった行動を取る傾向が強いと思います。
そう考えると、日本人が大量に人を殺めたなどという報道は外国の捏造である部分が多大だと思います。
硫黄島の戦いの場面でも、一人でも多くのアメリカ人を殺せ!とアメリカ的な考え方を学んだ栗原中尉は叱咤しましたが、
日本人的考えの上官達は、その考えに同意出来ずに、自決の道を選んでしまいます。
日本人とは、相手に立ち向かう事を好まない気質であることを前提に鑑みた時、自ずと日本の悪い噂は誇張された話しであると解釈出来る事件が多いのではないでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
ぴーちさんのお考えのような平均的日本人にプロパガンダを押し付けることによって、ウソを信じ込まさせようとする輩の悪質さが大きな問題だということです。
ところで、一般的な歴史教科書では、満州事変は中国に対する侵略戦争(しんりゃくせんそう)の第一歩であるとともに、昭和20(1945)年の終戦までのいわゆる「十五年戦争(じゅうごねんせんそう)」の始まりと断じているところが多いようですが、これらは本当のことでしょうか。
まずはっきり言えることは、満州事変は侵略戦争ではない、ということです。確かに柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)が関東軍の自作自演という事実は動きませんが、ではなぜ関東軍はわざわざそんなことをしてまで満州事変を起こしたのでしょうか。
これまで述べてきたように、我が国は国際的な条約によって満州に正当な権益を持っていました。にもかかわらず張学良軍や国民政府が不法行為を繰(く)り返したのに対して、当時の幣原外相(しではらがいしょう)による協調外交は弱腰(よわごし)でしかなく、日本が何もして来ないと見越した中国側の嫌(いや)がらせがますますエスカレートしていきました。
やがて昭和6(1931)年には先述した中村大尉事件(なかむらたいいじけん)や万宝山事件(まんぽうざんじけん)が起こり、このままでは満州に在住する日本人の生命や財産が風前(ふうぜん)の灯(ともしび)となるまで追いつめられていました。だからこそ、満州を守る義務を負っていた関東軍が、もはや政府や陸軍参謀が頼りにならないと覚悟(かくご)を決めて柳条湖事件を起こし、結果として満州から国民政府軍や張学良軍を追い出すことに成功したのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
今回の内容は、本当に腰を抜かすほど驚きました。
というのも、
私は、今まで、日中戦争は、関東軍の暴走と
中国の権益を喰い物にしようとする日本が背景にあると思っていたからです。
ただ、黒田先生の言われるように
◎ 中国にいる日本人の生命・財産を守るため。
(そんな事件があったことを全く、知りませんでした。)
→ その当時の中国人は、中国にいる日本人に優しかったと思い込んでいました。
(NHKのドキュメンタリー番組を観て)
◎ 中国の権益は、正式な手続きによって、得たモノ。
この2点を知ると今までの日中戦争への考え方が180度変わりました。
ただ、このことは、
教科書、テレビ番組などしか知らない多くの日本人が今だに、日本が中国に一方的な侵略をしたと
思い込んでいるでしょうね。
ただ、これって、日本人自身の歴史の捏造ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、チャイナのプロパガンダに唯々諾々と迎合する我が国の「進歩的文化人」の責任は重いですね。
少し考えれば誰でもわかることなのに、その考えを封じ込めようとするあたりがなお悪質です。
4周年でございますか
わにまろ いつもご訪問いただき、誠にありがとうございます。
わたくしめのブログは、来月でやっと一年でございます。
これからも、我が国の名誉をかけた戦いを繰り広げるべく、ご指導ご鞭撻賜りますよう、心よりお願い申し上げます。 拝
わにまろさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
今後とも当ブログをよろしくお願いいたします。
ぴーち おはようございます!
先日、ある方のお話を聞かせていただいて、
恥ずかしながら、この歳にしてまた改めて
思いを言葉にすることの大切さを思い知らされました。
同じ民族、或いは家族の中だけで暮らしていれば、自然に阿吽の呼吸というのは身につき、何を考えているのかということは、態度や仕草だけで大方の検討は付くものですが、自分を知らない他人の前では、自分の考えている事を口に出して発信していかなければ、誰も気持ちを理解してくれません。
ましてや、外国とのお付き合いの中で、黙っていても分かってくれるはず。という妄想は一切通用しないという事ですね。
今回の記事の中に、そんな日本の甘えが
失敗を招いてしまった様に感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
「話せば分かる」は日本人同士の美徳であり、外交においては何の役にも立たないことが満州事変に至る過程で証明されています。
それなのに我が国の外交は同じことを何度も繰り返そうとするのですから、あきれてものが言えません。
オバrev 満州事変が関東軍の自作自演による侵略戦争であったというのは、日本人として大変残念に思っていましたので、超ビックリです(゜o゜;
亡くなられましたが、お世話になった小学校の先生の奥様とお話した時に、その先生が実は志願されて前線へ行くはずだったことや、その前に敗戦となってしまって大変悔やんでおられたこと、そして太平洋戦争では国民一人ひとりが日本を守るために必死で戦ったのだということを強く思っておられたと聞きしました。
そういう先生でしたので、校長となった時には当時の日教組教員と激しく対立したそうで、体調を崩して早くに退職されたそうです。
奥様も日本を守るために戦ったのだということを強く仰っていましたが、こういう観点が太平洋戦争もですが、満州事変については特に欠けているように思います。
是非黒田先生には、機会があれば当時の生き証人の方々のお話等もお聞きいただけたらと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 満州事変を十五年戦争の入り口として教えられている限り、今回のような「思い込み」は続くでしょうね。
私はそれこそが残念でなりませんし、何としても改善しなければなりません。
私は沖縄集団自決の冤罪を受けた当時の部隊長からお話をお聞きしたことがありますが、こういった経験をもっと積んでいきたいですね。
ところが、かねてより自分たちに乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を続けてきた張学良軍に対する満州の住民の不満は強く、住民の支持を得られなかった張学良軍が各地で敗北を重ねたことで、戦いは関東軍の優位に展開しました。一方、当時の第二次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣や参謀(さんぼう)本部は、自分たちに対して何の連絡もせずに勝手に兵を動かした関東軍の行動を牽制(けんせい)して不拡大方針を発表したものの、関東軍はこれを無視して攻撃を続け、事変から半年以内で満州全土を統一しました。
当時の日本国民世論は関東軍の独断専行(どくだんせんこう)が満州の権益を、すなわち我が国の権益を守るものとしてこぞって支持し、そのあおりを受けて昭和6(1931)年12月に第二次若槻内閣は総辞職し、代わって立憲政友会総裁(そうさい)の犬養毅(いぬかいつよし)内閣が成立しました。
満州事変によって中国の対日感情は極端(きょくたん)に悪化し、翌昭和7(1932)年には日本人僧侶(そうりょ)が上海(シャンハイ)で殺害された事件をきっかけとして我が国の海軍陸戦隊が中国軍と衝突(しょうとつ)しました。これを第一次上海事変といいます。
第一次上海事変はイギリスなど列強の調停によって5月には停戦協定が結ばれ、日本軍はただちに撤退(てったい)しました。これを上海停戦協定といいますが、この間4月29日の天長節(てんちょうせつ、後の天皇誕生日→昭和の日)祝賀会の際に朝鮮人によって爆弾(ばくだん)が投げられ、列席していた上海派遣軍司令官が死亡したほか、重光葵(しげみつまもる)公使が片足を失う重傷を負っています。





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晴雨堂ミカエル 護憲派の見解は大きく異なりますね。まず、張学良軍が人民の支持を得ていなかった点を見落としているか、あるいはワザと見ていない。中国の軍隊で略奪暴行を例外的にやらなかったのは毛沢東の八路軍だけ、と言いながら。
次に石原完爾の謀略を単に「卑怯」「卑劣」で片付けています。僅な兵力で満州を制圧してしまった意味をあまりに単純に考えすぎていますし、未だに石原の信奉者がいる意味も考えない。
困ったものです。
石原完爾の「最終戦争論」には、平時の言論戦・政治戦について、ややイラついているともとれる箇所がありますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 護憲派の発想はいわゆる「斜め上を行く」ことが多いですからね。
自己に都合の良いように歴史観を決めつけることは百害あって一利なしです。
ぴーち おはようございます!
いくら戦法が上手であっても、日頃の行いが粗悪であれば、いづれは何処かで足を引っ張られるものですね。日頃の誠実で地道な行いは、その人の保険の様なもの。その時は陽の目を見なくても、何かの時に必ず味方になってくれるものなのでしょうね。
それと昨日のお返事の中で、日本の自己満足と
ありましたが、少し前にも日本人を人質にした外国でのテロ事件に対して、日本政府は常に「人命第一」と声明を発表する事に対して、外国からは「日本人の命は、それほどまでに大切なものなのか」と反発の声も挙がった様ですが、(きっと、日本人の命ばかりではなく、世界中の人々皆、平等なはずだと言いたいのでしょうけれど)そういう所1つにしても、日本人が訴えようとしている思惑と外国人が考えている思惑とのズレが誤解を産んでいき、次第に敵対心が増幅していく様に感じました。
日本人は優秀だから。或いは日本人の命は守られて当然という思いが少しでも言葉に感じられるとしたら、それはやはり日本の悪いクセと言わざる負えないかも知れません・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、仰るとおりかもしれませんね。
世界平和の感情というのは、自国第一が当たり前ではなかなか思い浮かばないのかもしれません。
満州における排日運動(はいにちうんどう)が強まるに従って、日本人と中国人との間の衝突(しょうとつ)が増加し続けたほか、昭和4(1929)年11月にはソ連が東満州に侵入(しんにゅう)して東支鉄道(とうしてつどう、東清鉄道=とうしんてうどう、の別名)を奪(うば)い取るなど、満州に対するソ連の軍事的脅威(きょうい)も本格化しました。
関東州(かんとうしゅう)や満鉄の警備を任務としていた我が国の関東軍(かんとうぐん)は、日本政府を通じてこれらの事態を打開しようとしましたが、当時は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外務大臣による協調外交(きょうちょうがいこう)が復活しており、武力に頼らずに話し合いによる解決を目指そうとしていました。
しかし、そのような弱腰(よわごし)な姿勢は相手を増長させるばかりとなり、昭和6(1931)年に入ると、我が国の参謀本部(さんぼうほんぶ)の参謀が満州とソ連の国境付近を調査旅行中に張学良の軍隊に殺害された中村大尉事件(なかむらたいいじけん)や、満州の長春(ちょうしゅん)の北にあった万宝山(まんぽうざん)で朝鮮半島からの入植者(当時は日本人)と中国人とが水利権や耕作権をめぐって衝突した万宝山事件が起きました。
中国側による度重なる不法行為やそれらを黙(だま)って見過ごそうとした幣原外交の軟弱(なんじゃく)ぶりに業(ごう)を煮(に)やした石原莞爾(いしわらかんじ)ら一部の関東軍将校は、昭和6年9月18日に柳条湖(りゅうじょうこ)付近の鉄道線路の爆破(ばくは)事件を起こしました。これを柳条湖事件といいます。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
確かに協調外交は、それ自体、平和的外交を目指すには最良の方法なのだと思いますが、
野望の強い相手には時として、その方法は無力と化してしまいますね。
話し合いで解決出来るような次元の高さに
世界の国々が普通に持てるようになるには、
これからもまだまだ苦難が続くでしょうけれど、
次元の低い考えには、その方法がいかに
間違いであるかということをしっかり
相手に判らせてあげる為に
時として毅然と立ち向かえる様な気概も持たなければいけなくなりますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
結果から見れば、協調外交は我が国の自己満足のためだけの政策でした。
それがある意味「最悪」の形で具象化したのが柳条湖事件だったわけですね。
ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」。ブログ開設4周年記念講演でもある次回(第35回)は「人権法案の矛盾 ~言論統制社会が国を滅ぼす」と題して、久しぶりに公民分野を含めた講演を行います。
21世紀を迎えてから、我が国では「人権擁護法案(じんけんようごほうあん)」「人権侵害救済法案(じんけんしんがいきゅうさいほうあん)」「人権委員会設置法案(じんけんいいんかいせっちほうあん)」という名の法案が次々と作成され、昨年(平成24年)には「人権委員会設置法案」が国会に上程(じょうてい)されました。
「人権を守る」という言葉に対して私たちはどちらかといえば好意的にとらえる傾向(けいこう)がありますが、これらの法案がもし可決されれば、その後に待っているのはおぞましい「言論統制社会(げんろんとうせいしゃかい)」であり、特にネットの世界が壊滅的(かいめつてき)な被害(ひがい)を受けて最後には我が国が滅亡(めつぼう)の危機(きき)を迎えるという恐ろしい事実を皆さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。
次回の講座では一連の「人権法案」の矛盾(むじゅん)やこれらに似た法律とされる「治安維持法(ちあんいじほう)」の歴史、そして地方において「人権法案」と同等の破壊力(はかいりょく)を持ち、すでに一部の市で深刻(しんこく)な影響(えいきょう)を及(およ)ぼしている「自治基本条例(じちきほんじょうれい)」などについて、下記のとおり3月23日(土)には大阪、3月30日(土)には東京でそれぞれ詳(くわ)しく紹介したいと思いますので、多くの皆様のご参加をお願いいたします!
第35回黒田裕樹の歴史講座(ブログ開設4周年記念講演)
「人権法案の矛盾 ~言論統制社会が国を滅ぼす」
日時:(大阪)平成25年3月23日(土) 午後6時より
(東京)平成25年3月30日(土) 午後3時30分より
(※大阪と東京で開始時間が異なります。ご注意下さい)
場所:(大阪)大阪市立総合生涯学習センター 第4研修室
(※いつもの第3研修室ではありません。ご注意ください!)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(東京)スター貸会議室 浅草 (井門浅草ビル5階)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます。なお、ビルの1階には有名なカレー屋さんがあります)
会費:いずれも無料(カンパを受け付けます)
なお、大阪・東京とも講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
最後に、おなじみのブロともであるクラチーさんからの素晴らしい画像を皆様にご覧いただきます!
(※クラチーさんのブログについては、下線部からご覧いただけます。)






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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
いよいよ、『平成の治安維持法』についての
講座ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 そうですね。
次回の講座では治安維持法についてもできるだけ分かりやすく紹介する予定です。
理想主義の怖さ
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
言葉というのは、恐ろしいですね。
麗しい美しい正義の味方的な言葉を羅列すると
抽象的なのに、ヒトは、素晴らしいものだと錯覚しますから、
そのあたりも黒田節で、斬りまって下さいね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 ご期待に添えられるよう努力します。
あのときのCMが!
クラチー 今回もイラスト使用ありがとうございます!
三月の講演、楽しみです♪
(^w^)
「人権」という言葉は「善」ですが、
その中にも「裏の顔」があるってことですね?
歴史人物から公民の講演となる今回、
はたしてどんな内容なのやら…ドキドキ。
(・x・;)
クラチーさんへ
黒田裕樹 ハイ、イラストもCMも使用しております(^ω^)
今回は公民講座ですのでいつもと毛色が違うかもしれませんが、おそらくは間違いなく「黒田節」が炸裂すると思いますよ(爆)。
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こんにちは。
ボス。 先生! ブログ改設周年おめでとう

講義参加は出来ませんが、家で



ボス。さんへ
黒田裕樹 いつも応援ありがとうございます。
いつの日か講座にお越しいただける日を願っておりますm(_ _)m
仏教界
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
日本の仏教界のある宗派も、人権侵害救済法案を推進しているようですね。(政教分離のはずなのに)
今回の講座を受けると、その理由もわかると思うので、楽しみです。