これらの事実や歴史の流れから分かるように、浅野家は「尊皇」、吉良家は「幕府大事」と当時の国家意識がまるで「水と油」のように全く異(こと)なっていました。そして運命のいたずらか、両家が勅使饗応役並びにその指南役として勅使下向(げこう)の接待を担当(たんとう)することになってしまったのです。
実は、両家の組み合わせは天和(てんな)3年(=1683年)に一度あり、この時は浅野内匠頭長矩が無事に饗応役を務(つと)め上げましたが、当時の長矩は17歳と若かったため、吉良上野介義央の言いなりにならざるを得なかったと考えられます。
そもそも「尊皇」の浅野家からすれば、勅語奉答の儀式以外の勅使の席次(せきじ)は将軍よりも上座(かみざ)であるべきですが、「幕府大事」の吉良家からすれば将軍家が上座となるのが当然でした。それ以外にも勅使以外の席次や料理を出す順序、あるいはお部屋の位置に至(いた)るまで、両者の意見がことごとく対立するのは目に見えていました。
饗応役と指南役との意見が異なれば、指南役の考えが優先されるのが常(つね)ではありましたが、二度目の饗応役となった元禄14年は長矩も35歳の堂々たる大名(だいみょう)です。その心中(しんちゅう)はさぞかし無念であり、持病の「痞」も悪化して錯乱状態となり、ついに刃傷に及んでしまった、という考えも成り立ちそうですが、私はそれだけではないと思っております。
殿中での刃傷は本人の切腹はもちろん藩は取り潰(つぶ)しとなり、多くの家臣が路頭(ろとう)に迷(まよ)うという一大事です。それが分かっていながら刃傷に及び、しかも脇差で斬り付けるというまるで錯乱したような激(はげ)しい怒りを呼んだ「ある出来事」が両者の間にあったとは考えられないでしょうか。





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ぴーち おはようございます!
まずは、33万ヒットおめでとうございます♪
「ある出来事」とは一体・・・?
また、後ほどお邪魔させていただきますね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございます。
「ある出来事」。
これを検証するために、まずは今日(2月22日)にふさわしい内容の更新をすることになります。ご期待ください!