「去年三月、内匠頭儀(ぎ)、伝奏御馳走(でんそうごちそう)の儀につき、意趣(いしゅ)を含(ふく)み罷(まか)りあり、殿中(でんちゅう)に於(お)いて、忍(しの)び難(がた)き儀ご座候(ざそうろう)か、刃傷に及び候(そうろう)…」。
主君である浅野が吉良に斬り付けた理由については「忍び難き儀ご座候か」、すなわち「何か我慢(がまん)できないところがあったのか」と書かれており、家臣ですら肝心(かんじん)なことがよく分かっていないということがうかがえます。
以上の考えをまとめれば、元禄赤穂事件における江戸城内の刃傷沙汰は浅野による勝手な「暴発(ぼうはつ)」がもたらした「不幸な出来事」であり、被害者でしかなかった吉良に対して大石らが討ち入ったのは私刑(しけい)、すなわち「リンチ」であったという結論も有り得ることになってしまうのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
確かに今日のお話の様な結末なら
今で言うと「集団リンチ事件」として
扱われて当然ですね(^^ゞ
理由なき反抗・・
いえいえ、理由なき犯行であったのなら
尚更ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。現在の「元禄赤穂事件」の考察もこれまで述べてきたようなものが主流になりつつあります。
しかし、実は「肝心なもの」が(あるいは意図的に)抜け落ちてしまっているのです。
詳しくは次回(17日)以降に紹介します。
「赤穂浪士」よりも「薩摩義士」を!
鹿児島のタク 「赤穂浪士」の一連の話が,ここまで広まり,現代まで親しまれているのには,いろいろな理由などが考えられるのでしょうね。
○ 討ち入りがあったとき,江戸の市民が非常に喜んだらしいという記録が残っています。当時は犬公方として有名な5代将軍「綱吉」の時代…。この綱吉の政治(実際は老中がするのでしょうが…)に対して江戸市民が非常な不満を持っていたとの背景もあるとされます。(まあ,武士の鑑…。武士は威張っているが,ここまでよくやった…。等の江戸市民の心情)
○ この「赤穂浪士事件」に対しては,多くの藩や,その藩の学者がいろいろな意見を文献と残しておりますが,意外と,批判的な記録が多く残っています。
○ 明治になって,外国に相対するときに,日本人の精神や文化を説明する際に「忠臣蔵」は非常に都合がよかった。(「忠臣蔵」だけではありませんが…。)
私は,鹿児島県人ですから…。全く全国的には知られていませんが,「宝暦治水事件」をもっと多くの人々に知ってほしいです。
これについては,“単なる”「主君の仇を討った。」「敵をうった!」という…『赤穂浪士』とは異なり,ある種の「ヒューマニズム」があります。これは,幕府が薩摩藩に命じた,いわゆる「お手伝い普請」ですから薩摩藩としては断わりようがないわけですが…,あまり,日本人に知られていません。
いろいろな著作物が出ていますが,『弧愁の岸』(杉本苑子)等の小説は,割と資料を調べ上げて書かれているので,機会があれば読んでいただけたらと思います。
すいません。「最後に郷土愛」が出てしまいました。鹿児島いいところですよ。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 本編とは関係のないお話ですが、郷土愛によるものですからね。
確かに世の中にはまだまだ埋もれたエピソードが多いです。
少しずつでも明らかになっていけばよいですね。
鳳麒 「喧嘩両成敗にならず、浅野が一方的に切腹させられたなんて、幕府の裁定は不公平だ!」
という批難もありますが、実は当然の措置だったんですよね。
江戸城内では如何なる理由があろうとも、刀を鯉口三寸切らせたら死罪、という法が当時はあったようですから。
それにそもそも「喧嘩」にもなってませんからね。
「喧嘩になった」というのは、両者とも刀を抜いていた場合であって、吉良の方は一切抜かず、刀を鞘に収めたまま防いだのですから、「喧嘩」は成立していません。
寧ろ事件後に吉良は、そういう咄嗟の非常事態に陥りながらも、冷静さを失わず、刀を抜かずに対処した振る舞いを、幕府で称賛されている位ですから。
そう、そういう事態には吉良のように刀を鞘に収めたまま対処するのが作法で、それならば法的に問題ない訳です。
だから喧嘩両成敗を適用させず依怙贔屓したという批判は成立しません。
このような最大級の不敬罪を犯した浅野は、本来ならば不名誉な斬首になる所でした。
それを切腹という名誉ある死に方を許されたのですから、これは幕府の温情ですよ。