刃傷が起きた日である旧暦(きゅうれき)元禄(げんろく)14年3月14日(1701年4月21日)は、天皇の意思を直接伝えるために派遣(はけん)された勅使が江戸城内に入って将軍と面談し、天皇のお言葉を受けた将軍が挨拶(あいさつ)を返すという、勅語奉答(ちょくごほうとう)と呼ばれる最大の儀式(ぎしき)が行われる日でした。
そんな重要な日に、よりによって江戸城内で刃傷を起こして儀式をぶち壊(こわ)しにしたのが浅野であり、襲(おそ)われた吉良は城内で刀を抜(ぬ)くのがご法度(はっと)であったことから無抵抗(むていこう)でした。つまり、刃傷沙汰(ざた)の本質は「喧嘩(けんか)」ではなく、浅野による一方的な「傷害事件(しょうがいじけん)」だったというのです。
確かに結果だけを見ればその通りかもしれませんが、私たちが忠臣蔵の世界で良く知っているのが、浅野が勅使饗応役としての任務(にんむ)の過程(かてい)で受けた「吉良による陰湿(いんしつ)ないじめ」であり、儀式当日にも吉良から面前(めんぜん)で罵倒(ばとう)され、堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れたからこそ、すべてを投げ捨てて浅野が刃傷に及んだのだ、と誰しもが考えることでしょう。
しかし、そのようなことは現実には「有り得ない」のです。





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ぴーち なるほど、そもそも
江戸城で執り行われた儀式の前の事情から
よく把握しておかないと、浅野内匠頭がどうして
その様な行動を起こしたのかという事が理解出来ずに、一方的に吉良上野介に馬鹿にされた腹いせに・・といういかにもまことしやかに語られた様な話に出来上がってしまう訳ですか・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
まことしやかに語られた事情には裏があるわけですが、その裏の見方にも問題がある、というのが今回の講座の真髄でもあります。
吉良上野介の人柄…!?
鹿児島のタク 吉良上野介義央の「お人柄」として有名な話がありますね。
(お人柄なんて,その書いた人(の立場)によってどうにでも『歴史書!?』に書かれてしますのでしょうが…。)
吉良氏の領地だった三河国幡豆郡(吉良町もその一部)では,吉良氏は「名君」だったという“伝説”…この場合歴史と言っていいのか?…が残っていますね。
特に,「吉良の赤馬」は有名で,吉良上野介はこの馬に乗って領内を視察し,領民にとって比較的,“有難い”領主だったという類の著作物はいろいろな場所で出てきます。
でも,こう考えると,何が真実で,どうなっているのかよく分からない。…歴史学は,このような点でも難しいですね。
「忠臣蔵」は偽作というか劇作として楽しめればいいし,でも,歴史の真実に一歩でも近づきたいというのが一般の人々なのではないでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 確かに吉良上野介が「名君」であったことは有名な話です。
ただし、「名君の吉良を討つなんてとんでもない」という見方も一方的の裏返しとなります。
歴史学は両方の視点、あるいはまったく別の観点から見出すべきものでもあります。