当時は徳川幕府による封建社会(ほうけんしゃかい)であり、江戸時代の史実に基づく物語は上演を禁じられていたためにわざわざ太平記の世界を借りたのですが、仮名手本忠臣蔵には誰にでも「元禄赤穂事件の引き写し」と分かる様々な要素が散(ち)りばめられています。
例えば「仮名手本」は「いろは四十七文字」のことであり、討ち入った旧赤穂藩の四十七士と掛(か)けていますし、「忠臣蔵」は「忠臣大石内蔵助」からか、あるいは「蔵(くら)に一杯(いっぱい)になるほど多くの忠臣」という意味が込められています。
また高師直や塩谷判官高貞はそれぞれ実在の人物ですが、高師直は吉良の役職である「高家」を、塩谷判官は赤穂の名産である「塩」をそれぞれ掛けており、さらには判官の家老である大星由良之助の妻は「お石(いし)」であり、二人合わせて「大石」となります。
ただし、仮名手本忠臣蔵にはこれら以外にも「別のメッセージ」があります。それは物語のもっと奥深(おくふか)くに隠されており、またそのカギを握るのは仮名手本忠臣蔵がどこで初演されたのかということと、高師直の「官職名(かんしょくめい)」です。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
太平の世であったが故に
様々な文化が花開き、また、花開いただけにはとどまらずに、より深く物事を推測したり、
或いは小細工を施したり、そう言った細かな所にまで
発展させていくことが出来る世の中であった事が、悪く言わせていただくと、暇人が、余計な尾ひれや、
個人の思惑が介入する事で、より真実から遠のいてしまったのではないでしょうかね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方もありますね。
確かに仮名手本忠臣蔵には作者が住んでいた地域の強烈な思い入れが隠されています。
詳しくは次回(1日)の更新をご覧ください。
討ち入りから4年後の宝永(ほうえい)3年(=1706年)には、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が赤穂事件を題材(だいざい)にした人形浄瑠璃「碁盤太平記(ごばんたいへいき)」を書き上げて大坂(おおさか、現在の大阪)の竹本座(たけもとざ)にて上演(じょうえん)され、以後も浄瑠璃や歌舞伎の人気題材となりました。
そして、これらの流れの集大成(しゅうたいせい)となったのが、二代目竹田出雲(たけだいずも)らの合作(がっさく)で、奇(く)しくも刃傷事件から47年後の寛延(かんえん)元年(=1748年)に大坂で人形浄瑠璃として上演された「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」でした。
仮名手本忠臣蔵といえば浄瑠璃や歌舞伎などで現代にまで続く大ヒット作として有名ですが、その理由として日本人好みのドラマ性以外に「もう一つの隠されたメッセージ」があることを皆さんはご存知でしょうか。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
なるほど。
江戸の太平時代に突然起きた事件であったが故に
余計にこの話は大きく取り沙汰された訳だったんですね。
時代が後押しをしたという理由もあるんですね。
応援凸
オバrev いやいや驚きました。
まさに眼から鱗の元禄赤穂事件ですが、さらにこれが歪められた史実である忠臣蔵となるのに、まだ隠されたメッセージがあるとは(゜o゜;・・・歴史って、どこまでが事実でどこまでが作り事なのか分からないところがありますね。
裏で動く力によってプラスがマイナスにもなって歴史的事実として認識されているものがまだまだあるということでしょうね。
となると日本史も、再度論理的に様々な背景を検証して事実を突き止めるという、研究の余地がまだまだあるということですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、相当にインパクトのあった事件だったと思われます。
それだけに庶民の関心も高く、やがては仮名手本忠臣蔵として結実するわけですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 その通りです。
私たちは目の前にある事実だけで物事を考えがちですが、それだけでは真実の姿は見えてきません。
仮名手本忠臣蔵にもあっと驚くメッセージが隠されているのです。
その意味においては、日本史の研究はまだまだ道半ばだといえるでしょう。
しかし、ここで大石らを打ち首にすれば、今後の幕府と朝廷との関係がますます悪化(あっか)するのは目に見えていました。だからこそ彼らに武士の名誉(めいよ)としての「切腹」の処分を下(くだ)したのです。
一方、大石らの切腹と同時に吉良家は取り潰しとなってしまいました。先述したとおり「幕府に忠実な高家」であったはずの吉良家に対して、なぜ幕府は冷たい裁きを行ったのでしょうか。実は、大石らの討ち入り以前から吉良家は既(すで)に幕府に見限られていたのです。
幕府は大石らの討ち入り前の江戸での動きを事前につかんでいました。これは大石自身も証言している事実ですが、それでも幕府が大石らの行動を妨害(ぼうがい)せずに敢えて討たせたのは、皇室に憎(にく)まれすぎた吉良家が幕府にとって有害でしかなかったからでした。
だからこそ幕府は大石らの動きを見て見ぬふりをしていましたが、討ち入り後に大石らが自害せず、幕府に裁定を委ねたところまで見抜いていたかどうかまでは分かりません。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
幕府が事前に大石らの動きに気づいていて、
見て見ぬふりをしていたということが、
事実だとしたら・・
かなり汚い手口ですね(*_*;
そして我関せずとばかりに、うそぶく幕府に対して
大石内蔵助が裁きを迫った事については、
人として尤もな思いであると感じました。
応援凸
吉良側から見れば・・。
晴雨堂ミカエル 吉良側から見れば、幕府の意を受け難しい朝廷工作を展開し実積をあげ幕府の権威権力はもはや「国家主権」、朝廷は一種の宗教法人的存在にしたのに、純粋真っ直ぐ君の浅野に暴力を振るわれ、十分なフォローもされず悪者扱いで切り捨てられる。
そればかりか、やってもいない浅野君へのイジメの数々を歌舞伎などで喧伝され、大石ら暴徒に対し武士らしく太刀をふるって応戦したのに、検死報告書でも裏付けられているのに、往生際悪く官位をひけらかせて悪態をついたかのように喧伝され、挙げ句にお家とり潰し。
私が吉良なら徳川を末代まで祟ってやるでしょう。
綱吉以後、徳川宗家の血統が絶えて紀州家に取って代われ、さらに御三家の一つ水戸家が尊皇を声高に叫んで幕末の幕政を混乱させ、水戸家の血筋の慶喜が幕府を閉める。
吉良の祟りですな。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
幕府と知れば体のいい吉良家の「処分」だったのかもしれませんが、世の中そんなに甘くはないです。
大石ら四十七士の勇気と決断に感服ですね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、吉良家の怨霊化ですか。
この後の幕府の歴史を見ればさもありなん、という思いがしますね。
主君である浅野がすべてをなげうって吉良に刃傷に及んだ背景に「尊皇vs.幕府」があったことは大石らも当然分かっていました。しかし、そのことを公言(こうげん)すれば幕府によって揉(も)み消されるに決まっていますし、討ち入った理由に「尊皇vs.幕府」があったことを幕府に暗示(あんじ)させるためにもむしろ書かない方が良いと判断したと思われます。
そんな大石らの思惑(おもわく)は、討ち入り後の態度にも見受けられます。吉良の首級を挙げた大石らは、その足で主君が眠る高輪(たかなわ)の泉岳寺(せんがくじ)へ向かい、首級を墓前(ぼぜん)に供(そな)えましたが、もし大石らの考えが「主君の仇である吉良を討つ」だけであったならば、一同がその場で切腹を遂(と)げたことでしょう。
しかし現実には大石らは幕府に対して「自首(じしゅ)」し、自らの生死を幕府に委(ゆだ)ねました。彼らはなぜお預(あず)けの身となってまでして生き恥をさらしたのでしょうか。
もちろんそれは、幕府に対し「今度こそ『尊皇vs.幕府』の決着をつけてほしい」という願いがあったからに他(ほか)なりません。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
>「浅野が吉良を討とうとした理由」が書かれていませんでした。
恥ずかしながら、この時点で
その事実を存じませんでしたm(__)m
(いつもながら、勉強不足ですみません(^^ゞ)
仰るとおり、吉良上野介を討ち取るだけの
目的なら、墓前にて全員が切腹を果たす事と
なるでしょうね。
生き恥を晒してまでも、幕府の沙汰を待った
大石内蔵助は、そこで幕府に対して
一縷の望みを掛けて
下駄を預けたのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大石らが幕府に自らの進退をゆだねた段階で、単なる敵討ちとは全く異なることがわかります。
そんな重要な事情を理解しようとせずに「赤穂事件はリンチである」と短絡的に片付けようとする人々は何を考えているのでしょうか。
「天皇に対する侮辱は尊皇の士として絶対に許すことはできない」。そう固く誓ったからこそ、大石らは数々の試練を乗り越えた末(すえ)、翌元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜に吉良邸内へ討ち入り、上野介の首級(しゅきゅう)を挙げたのです。
ところで、「忠臣蔵」の世界では討ち入りの際に山鹿流(やまがりゅう)の陣太鼓(じんだいこ)を打ち鳴らしたことが有名ですが、実際には吉良邸の裏門(うらもん)を木槌(きづち)で打ち破る音か、あるいは銅鑼(どら)の音(ね)がそのように聞こえたからではないかとされており、真実のほどは分かりません。
しかし、大石をはじめ討ち入った四十七士の心の中には藩を挙げて学び続けた「山鹿流」の精神が息づいており、少なくとも各自(かくじ)の胸の奥で陣太鼓が高らかに鳴り響(ひび)いていたことは間違いありません。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
なるほど、ここまで読ませていただき
忠臣蔵の真相をより深く知る事が出来ました事、
感謝申し上げますm(__)m
人を殺める事は、自分も死ぬ覚悟がなければならないと言いますが、大石内蔵助は自分の命を掛けてでも、守りたい理由があったのですね。
ただ、そういう思いというのはなかなか世間には
伝わらないものですので、最高最善のパフォーマンスとして後世に語り継がれなければならないものだと思います。
そういう意味では、討ち入りをした中の一人を逃して、この事実を広く知らしめて欲しいという
大石内蔵助の心中は、自分たちの真意を分かって貰いたいという思いで満ち溢れていたのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそありがとうございます。
仰るとおり、忠臣蔵は決してリンチなどではなく、日本人として守るべきものを守るための生命をかけた戦いだったのです。
逃げたとされる寺坂吉右衛門には様々な説がありますね。
それまでの吉良による勅使への仕打ちに対して懸命(けんめい)に耐え続けてきた浅野も、天皇への悪口を耳にして不意に「殺気」がよぎり、堪忍袋の緒が切れると同時に吉良への怒りが爆発(ばくはつ)し、我(われ)を忘れて錯乱状態のようになって刃傷に及んだのです。
刃傷後の取り調べで浅野は吉良への「遺恨」を認めましたが、その理由が吉良による数々の天皇に対する「不敬(ふけい)」であることが分かっていても、それを自(みずか)らが口にすることは天皇の恥(はじ)にもなりかねないため、原因の一切を語らずに堂々と切腹しました。
一方の吉良は「浅野の乱心(らんしん)であり、遺恨はない」と証言しましたが、もちろん自分の勅使に対する数々の仕打ちや城内での不用意な一言が刃傷につながったことは分かっていました。しかし、それを口にすれば自分だけでなく幕府の立場をも危(あや)うくしかねないため、敢(あ)えて「分からない」ととぼけたのであり、悪口を耳にした梶川も同じ考えで記録から「吉良の天皇に対する悪口」を省(はぶ)きました。
しかし、主君と同じ「尊皇の士」である大石内蔵助義雄らの目はごまかせなかったのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
なるほど!確かに仰るような推測が
ぴったりあてはまりそうですね^^
壁に耳あり、障子に目あり。
やはり、いつ何時も
不用意に人の陰口など口外すべきでは
無い様ですね。
まわり回って、必ず自分へ返って来る
ものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ご賛同くださり有難うございます。
元禄赤穂事件は私たちに大きな教訓を残していると実感しております。
管理人のみ閲覧できます
-
お蔭様をもちまして、2月17日に大阪府豊能町(とよのちょう)で行われました第9回ワクワク歴史講座「源平盛衰記 ~平家と源氏の栄枯盛衰」は20名の皆様がご参加くださいました。
参加者の皆様のご感想も好評でして、主催者の方に喜んでいただけたことが何よりも嬉しかったです。今後の講演に向けての大きな励みにもなりますし、このような誰にでも楽しんでいただける講座をこれからも続けていきたいですね。なお、当日の講演の内容については下記のYouTubeをご覧ください。
今月(平成25年2月)は私こと黒田裕樹の講演を大阪府内においてあと一回以下のとおり行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください。
大阪なにわ経営者漁火会 平成25年2月例会
「それぞれの幕末史 ~会津藩の悲劇はなぜ起きたか~」
日時:2月22日(金) 18:30~ (受付18:00~)
場所:ハートンホール伊藤忠ビル 地下1階
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金1,000円(懇親会参加の場合は合計金5,000円)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
クラチー 2月の三回目?の講演、お疲れ様です!
おお、懐かしい清盛さんがいる…!
再利用、ありがとうございます!
(@。@)
今月の講演も、
あとは金曜日だけになりましたね。
ファイトです!
(>m<)q
クラチーさんへ
黒田裕樹 有難うございます(^ω^)
以前の有効な財産は積極的に使用させていただいておりますm(_ _)m
仰るとおり、いよいよあと一つですね。
しっかり務め上げたいと思います。

平成24(2012)年8月、韓国(かんこく)の当時の李明博(イ・ミョンバク)大統領(だいとうりょう)は我が国日本の固有(こゆう)の領土でありながら不法に占拠(せんきょ)を続けている竹島(たけしま)に上陸しただけでなく、以下のような天皇を侮辱(ぶじょく)した声明を発表しました。
「日王(にちおう、韓国による天皇をさげすんだ呼び方)は韓国民に心から土下座(どげざ)したいのなら来い。重罪人(じゅうざいにん)に相応しく手足を縛(しば)って、頭を踏(ふ)みつけて、地面に擦(す)り付けて謝(あやま)らせてやる。重罪人が土下座もしない、言葉で謝るだけならふざけた話だ。そんな馬鹿な話は通用しない、それなら入国は許さない」。
皆さんはこれを聞いてどんな感情をお持ちになりますか。普通の日本人であれば激しい憤(いきどお)りを感じるのは当然ですし、世界に誇(ほこ)れる万世一系の皇室が我が国にご存在することの気高(けだか)さ、そして有難さを理解している人間ならば「殺気(さっき)」がよぎっても決して不思議ではありません。
現代の私たちですらそうなのですから、「尊皇」の藩主である浅野内匠頭長矩が「幕府大事」の吉良上野介義央に対して何らかの事情によって咄嗟(とっさ)に「殺気」がよぎり、反射的(はんしゃてき)に刃傷に及んだ、とは考えられないでしょうか。
直接の原因は吉良と梶川与惣兵衛との「会話」にあると思われます。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
元李大統領は己の保身の為に
本当に見苦しい発言をしたものです。
日本の天皇に対して、
このような謂れの無いことを
公式に発表しなければならないとは、
韓国と言う国そのものの考え方、体制が
欠陥だらけで、腐りきっているということを
言っているのと同じだと思いました。
憤りを通り越して、哀れみさえ感じます。
さて、吉良と梶川との会話が気になります^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も全く同意見です。
軽率な発言が、国家として絶対に消すことのできない大きな汚点を残しましたね。
さて「会話」ですが、大統領の発言に匹敵することと言えば…。
奇跡!?
クラチー 遅ればせながら330,000HIT、
おめでとうございます!
(^∀^)
そして、竹島の日にこの話題が被るとは凄いですね。
ひょっとしてコレは、
竹島自身からの何かのメッセージでは…!?
(゚。゚;)
おめでとうございます。
晴雨堂ミカエル blogも講座も御盛況、地道な活動の成果ですね。
民主化以降の韓国大統領は再選できないので任期末期になると急速に求心力を失います。
日本では落選した大物候補者をターゲットに警察は選挙違反容疑で「落武者狩り」を行うが、韓国では人気が衰えた大統領に狩りを仕掛ける。日本の政界と違い、子分に忠誠度はかなり低いので、内部リークなどの裏切りも多い。
だから民主化以降の歴代大統領はみな保身のために反日言動を繰り返す。真の愛国的行動で日本を批判している訳ではない。本当に志ある反日なら、逆に今上陛下へ唐突な品のない罵詈雑言を外交文にしないはずです。
クラチーさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
別に狙ったわけでなく、全くの偶然だったんですが…。
そういえば昨年9月の聖徳太子の講演も尖閣諸島の国有化で国内が揺れていた時期でしたし、運命のようなものを感じます。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
確かに仰るとおりですね。保身のための言動であれば、なおさら悪質だといえるでしょう。
これらの事実や歴史の流れから分かるように、浅野家は「尊皇」、吉良家は「幕府大事」と当時の国家意識がまるで「水と油」のように全く異(こと)なっていました。そして運命のいたずらか、両家が勅使饗応役並びにその指南役として勅使下向(げこう)の接待を担当(たんとう)することになってしまったのです。
実は、両家の組み合わせは天和(てんな)3年(=1683年)に一度あり、この時は浅野内匠頭長矩が無事に饗応役を務(つと)め上げましたが、当時の長矩は17歳と若かったため、吉良上野介義央の言いなりにならざるを得なかったと考えられます。
そもそも「尊皇」の浅野家からすれば、勅語奉答の儀式以外の勅使の席次(せきじ)は将軍よりも上座(かみざ)であるべきですが、「幕府大事」の吉良家からすれば将軍家が上座となるのが当然でした。それ以外にも勅使以外の席次や料理を出す順序、あるいはお部屋の位置に至(いた)るまで、両者の意見がことごとく対立するのは目に見えていました。
饗応役と指南役との意見が異なれば、指南役の考えが優先されるのが常(つね)ではありましたが、二度目の饗応役となった元禄14年は長矩も35歳の堂々たる大名(だいみょう)です。その心中(しんちゅう)はさぞかし無念であり、持病の「痞」も悪化して錯乱状態となり、ついに刃傷に及んでしまった、という考えも成り立ちそうですが、私はそれだけではないと思っております。
殿中での刃傷は本人の切腹はもちろん藩は取り潰(つぶ)しとなり、多くの家臣が路頭(ろとう)に迷(まよ)うという一大事です。それが分かっていながら刃傷に及び、しかも脇差で斬り付けるというまるで錯乱したような激(はげ)しい怒りを呼んだ「ある出来事」が両者の間にあったとは考えられないでしょうか。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
-
ぴーち おはようございます!
まずは、33万ヒットおめでとうございます♪
「ある出来事」とは一体・・・?
また、後ほどお邪魔させていただきますね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございます。
「ある出来事」。
これを検証するために、まずは今日(2月22日)にふさわしい内容の更新をすることになります。ご期待ください!
この事実一つだけでも天皇に対する幕府の姿勢(しせい)が分かるようなものですが、やがて幕府は天皇の譲位(じょうい)にまで口を挟(はさ)むようになりました。例えば、承応(じょうおう)3年11月(1655年1月)に18歳で即位(そくい)された後西天皇(ごさいてんのう)は若くして非常に英邁(えいまい、人格や才知が特別に優れていること)なお方(かた)でしたが、優秀な天皇の存在は朝廷を統制したい幕府にとっては都合の悪いことでした。
そこで、後西天皇のご在位時に伊勢神宮(いせじんぐう)や京都御所(きょうとごしょ)、あるいは江戸で大火事が相次いだ(特に江戸の火事は「明暦(めいれき)の大火」として有名です)ことから、「災害(さいがい)が多いのは天皇の徳が足りないからだ」という理由で寛文3(1663)年に強引に後西天皇を退位(たいい)させ、わずか10歳の霊元天皇(れいげんてんのう)を即位させました。
実は、この折(おり)に朝廷に対して退位の工作を行った人物こそが若き日の吉良上野介義央であり、後に彼はこの功績によって従四位(じゅしい)に昇進しています。
なお、京都御所は寛文元(1661)年に炎上(えんじょう)しましたが、その後の修復(しゅうふく)を幕府から命じられたのが赤穂藩主の浅野長直でした。長直は当時赤穂城(あこうじょう)を新築中でしたが、天守閣(てんしゅかく)の建造を断念(だんねん)までして御所を見事に再建(さいけん)しています。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
そうですよね。
己の野望を達成する為には、いかなる事にも
首を突っ込んで、理不尽な理由をこじつけては
相手を失脚させようとしますね。
けれど、一度はそれで成功したと思われる事でも、天知る 地知る 我知る 人知るではありませんが、必ずや後に痛い目に遭わされるものですよね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、野望実現のためには人間は手段を選びません。
ただ、それゆえに当人も同じ報いを受けることになります。
吉良上野介の場合も、その背後にいる勢力も同じなんですよね。