そして、その日本の中心として存在するのが「万世一系(ばんせいいっけい)の皇室(こうしつ)」であり、神代(かみよ)以来絶(た)えることなく続く皇室こそが我が国の国体(こくたい、国家としての体制のこと)かつ中心であるという皇室尊崇論(こうしつそんすうろん)を説きました。
そんな山鹿素行の教えを熱心に学んだ赤穂藩が「尊皇(そんのう)の藩」となり、また当時の藩主長直の孫(まご)である浅野内匠頭長矩や若くして素行の薫陶(くんとう)を受けた大石内蔵助義雄らが「尊皇の士」となったのはむしろ当然だったのです。
では、もう一方の吉良上野介義央はどうだったのでしょうか。
吉良家は足利幕府(あしかがばくふ)以来の名家(めいか)でしたが、江戸時代になって徳川幕府に高家(こうけ)として取り立てられ、幕府の儀典(ぎてん)関係を取り仕切る家として存続(そんぞく)しました。つまり、吉良家は「幕府大事」の家柄(いえがら)であり、上野介義央自身も徳川幕府のために高家の身分を利用して「暗躍(あんやく)」することになるのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
やはり吉良上野介も何かしらの暗躍行為があったのですね。
何かしらそうした不穏な動きがあったからこそ、
そのしっぺ返しが思わぬ所から起こったのかもしれませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、吉良上野介は「ある不穏な動き」をします。
詳しくは次回(20日)に紹介しますが、当時の政治体制がよくあらわれた話ですね。
井上真太郎 お久しぶりです。ブログ凄い人気ですね。毎日の更新がすごいなーと思います。教師としても頑張ってらっしゃるみたいで。健康に気をつけて引き続き頑張ってください!
井上真太郎さんへ
黒田裕樹 これはどうもお久しぶりです。
ブログを開設してもうすぐ丸4年ですが、毎日更新を心がけて走り続けたらここまで来てしまいました。
今後も歩みを止めることなく頑張ります。
オバrev なるほど~、さすが大阪人の黒田先生。
見事に突っ込んでますね・・・えっ?ボケとツッコミの突っ込みとは違う^^;
それにしても浅野内匠頭は吉良上野介に斬りかからざるを得なかった背景があったんでしょうね・・・この流れからいくと(?o?)
歴史は、やはりそれを動かす力によって必然的にその方向に動いていくもんだなと思います。その背景を探っていかないと真実は見えてこないかもしれませんね。
次の記事が楽しみです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 いえいえ、突っ込みは大阪人の生命ですから(笑)。
仰るとおり、今後は吉良と浅野に隠された背景を探っていくことになります。
ご期待ください!
江戸時代初期の学者であった山鹿素行も初めは朱子学を学んでいましたが、時が経(た)つにつれて朱子学に疑問を抱(いだ)くようになり、寛文(かんぶん)5年(=1665年)に「聖教要録(せいきょうようろく)」を著(あらわ)しました。
聖教要録は武士道とは何かを説(と)き明かしたものでしたが、その中で朱子学を批判(ひはん)したために幕府の怒(いか)りを買い、翌寛文6(1666)年に、以前に家臣として仕(つか)えていた「ある藩」へ流罪(るざい)となりました。
実は、その藩こそが赤穂藩であり、当時の藩主は浅野内匠頭長矩の祖父(そふ)にあたる浅野長直(あさのながなお)でした。赤穂藩では山鹿素行を流人(るにん)ではなく師(し)として迎(むか)え、素行は藩士たちに学問を教えることになったのですが、その中に幼(おさな)き日の大石内蔵助義雄がいたのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
と、このお話の流れからすると
大石内蔵助は藩主である浅野内匠頭の仇討ちというよりも、
恩師である山鹿氏の為に何かできないものかと
子供の頃から心にいつも秘めていた・・という事でしょうかね。
たまたま、浅野内匠頭が失態を犯した事をチャンス到来と捉え、幕府に立ち向かって行った・・大石内蔵助の真意はそうだったかも知れないという事ですか・・。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、それも一理ありますね。
今後の展開で大石の考えを明らかにしていきたいと思いますが、忠義の精神も息づいていたことは間違いないと思われます。
お蔭様をもちまして、2月9日に行われました学ぼう会北摂主催の第36回よく分かる歴史講座「日韓併合と日本統治」は64名の皆様(61名より訂正)がご参加くださいまして大盛況でした。当日の講演の内容については下記のYouTubeをご覧ください。
今月(平成25年2月)は引き続き私こと黒田裕樹の講演を大阪府内において以下のとおり行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください。
第9回ワクワク歴史講座
「源平盛衰記 ~平家と源氏の栄枯盛衰」
日時:2月17日(日) 14:00~16:00
場所:豊能町立西公民館 中会議室
(※下線部をクリックすると、所在地等が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金500円
大阪なにわ経営者漁火会 平成25年2月例会
「それぞれの幕末史 ~会津藩の悲劇はなぜ起きたか~」
日時:2月22日(金) 18:30~ (受付18:00~)
場所:ハートンホール伊藤忠ビル 地下1階
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金1,000円(懇親会参加の場合は合計金5,000円)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
クラチー ろ、61ぃ!?
あんわわわぎょひゃわ…恐るべし、黒田節!
(゚Д゚;)
もうYouTubeでアップされているんですね。
毎回、イラストの使用ありがとうございます!
別件のトラックバックもして下さり、ありがとうございます!
(*´▽`*)
今は、次回の講演に向けて、しっかり休んで下さい☆
クラチーさんへ
黒田裕樹 いえいえ、今回は主催者でいらっしゃる「学ぼう会北摂」様のご努力の賜物ですよ。
クラチー画伯のイラストも大変効果的に使用させていただきました。
YouTubeの映像の最後の方(8/8)をご覧くださると…。
韓国という国
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
日本人が韓国について、わかっていないことがありますね。
それは、韓国の外交というのは、
『強いものには、徹底的に弱く、
弱いものには、徹底的に強く』を繰り返していることです。
これは、明治時代以前からでした。
たとえば、
明の使節を迎える時は、そのために豪華な
建物を建てます。
しかし、今度、清(女真人)が明を攻める時は、
先兵になって、明を攻めました。
その後、
◎ 明に対する恨みの像を建てます。
◎ 今度は、清の皇帝の使節を迎える豪華な施設を建てます。
これって、
日韓併合の時は、『日本に対して、行為的になり、兵隊に志願する韓国人が多く』
第二次世界大戦が終わった後、従軍慰安婦の像を建てるという構図を全く、同じですね。
ということは、
今、日本は、韓国から、弱い国だと思われているのでしょうね。
おそらく、憲法改正するだけで、韓国の態度は、
変わると思いますが。。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにその傾向がありますね。
我が国は今後、とことん「強い国」になりましょうか。韓国がすり寄ってくるような(笑)。
ぴーち こんばんは!
今度のタイトルは「ワクワク」が付くのですね!
擬声語や、擬態語は特に関西の方の会話の中には
日常的に使われる会話技法だと伺った事がありますが、
「じわじわ」とか「ハラハラ」とか
擬態語がついただけでも、興味を引きますね(^^)v
映画などでも、タイトルというのは大切な要素ですが、講座のタイトルもそういう意味では大切だと思います♪
これからもどうぞ頑張ってくださいね♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
「ワクワク歴史講座」の名前は、主催者の方の「みんながワクワクするような楽しい歴史講座を行いたい」という意気込みによるものです。
そんな思いに少しでも貢献できるよう、次回の講演もしっかりと務め上げるつもりでおります。
韓国史上最もナショナリズムが蔓延る現代。
晴雨堂ミカエル 横コメ失礼します。
李朝時代までなら青田氏の仰る通りですが、今は潮目が変わってきています。
私はよく韓流映画やドラマを観ますが、作中で悪者になるのは日本だけではありません。中国や米国も傲慢不遜な支配者として描かれる事が多い。
また今の韓国や北朝鮮は通常文から漢字を排斥していますが、ハングル一色になったのは15世紀に考案されて以来、つい最近の話です。
黒田氏なら御存知と思いますが、戦前はむしろ日本が朝鮮に小中高大の学校制度とインフラを整備して、ハングルを普及させることで識字率上昇をはかったほどです。
北朝鮮では金日成政権が漢字を外国文字あつかいし、韓国では極右の朴政権が漢字排斥政策を始めました。おかげで、70年代までの韓国新聞はハングルを知らなくても漢字で読めたが、今はハングルを理解しないと読めません。
韓国がかたくなとも思えるナショナリズムを見せるようになったのは、ここ数十年の話です。
とくに21世紀に入ってからは、韓国は医療技術や芸能文化、電化製品や自動車などで自信を持ち、北朝鮮は中国に逆らってまで核を持ちました。
これほどまでナショナリズムを盛んにさせたのは朝鮮半島の歴史で初めてではないでしょうか。
日本が国力を「快復」しても、たぶん対抗心を燃やすだけでしょう。日本の軍国主義以上の偏ったナショナリズムになる危うさが今の韓国北朝鮮にあります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、彼らも時代の流れを受けて「進化」しつつある、ということなのでしょうね。
有難うございました。
もしそうであるのならば、なぜ忠臣蔵が300年以上も日本人の心をつかんで離(はな)さないのかを理解することができないではありませんか。
結論を言えば、そのような見方はもちろん全くの間違(まちが)いです。歴史というものは目に見える事実を追っただけではその「真実」はつかめず、前後の大きな流れを理解しなければ「隠(かく)された大きな意味を持つメッセージ」を見極(みきわ)めることができないのであり、それは元禄赤穂事件においても例外ではありません。
では、元禄赤穂事件や忠臣蔵の「隠されたメッセージ」とはいったい何なのでしょうか。そのカギを握(にぎ)る人物こそが「山鹿素行(やまがそこう)」なのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
仰るとおり、現代でも「集団リンチ事件」或いは薬物中毒による事件、精神病という病の為の犯行となどと言う事件が発生する度に、一時は話題に挙がり、世間を震撼させたりしますが、1年もすれば、「そんな事あったかしら」と人々の記憶の中でですら、葬られてしまいますね。
隠されたメッセージをとは何だったのでしょうか。気になります。
応援凸
オバrev 山鹿素行・・・確かに名前は聞いたことがあります・・・が、学者?何をした人かまでは記憶にないです orz
仰るとおり、この事件の真相が分からないとその評価もできません。黒田先生ならその真実に迫ってくれると期待していますよ(^o^)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 忠臣蔵を「集団リンチ」で片づけてしまうのは、あまりにも現代の価値観でしか物事を見ていませんね。
次回(18日)から「隠されたメッセージ」をじっくりと解き明かしていきたいと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 山鹿素行の名は最近ではほとんど聞かされる機会がないですからね…。
いよいよ次回(18日)から真相に迫ります。オバrevさんのご期待に添えればよいのですが(^^ゞ
朱子学への対抗・批判
鹿児島のタク 黒田氏のブログを読むには,予習と復習が必要!?なのでたいへんだ。このままでは,続かないので,これからは気楽に行こうと思ってます。
山鹿素行は幕府の正当聖学である「朱子学」を攻撃したために,何と「赤穂藩」流されたという実績を持つ人物ですね。
元禄文化の時代には,この「朱子学」に反対する学者が比較的多く出てきていますね。有名なのは,あの大塩平八郎に代表される「陽明学」…。
山鹿素行がすごいのは,それまでの「中華思想」の「中華」を本朝,…つまり「日本」だと考えた点ですね。有名な書に『中朝事実』という著書があることを復習しました。
日本は,確かに江戸時代よりだいぶ以前に,文化・文明について,中国を“師匠”としてきた部分は大きいですが,いわゆる「冊封体制」には,入っていないと考えるのが「一般的」でしょうね。
古代の一時期に,中国の皇帝から”天皇”(当時は天皇との称号は使っていない)が,確か「鎮西将軍」等に任じられている例はあるし,福岡県志賀島で発見された「漢倭(人弁なし)奴国王」(一応:かんのわのなこくおう)と読むという説が強です。
しかし,基本的には,「臣下の礼」をとったわけではないと考えるべきでしょうね。
有名な本朝から大陸王朝への文書としては,聖徳太子とされる「日出ずる処の天子,書を日の没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや…」。
時代が降りて「東天皇,書を西皇帝に致す…。」などとある通り,日本はいわゆる「中華国」と対等だった。
その点が,お隣の「朝鮮半島の王朝」と決定的に違う。
それには,勿論,朝鮮半島とは地理的条件が違いますからね~。朝鮮半島は,陸続きで“中華国”とつながっていたことが,ある意味,最大の不幸だったでしょう。
これから,山鹿素行に「陽の目」が当たりますね。楽しみです。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰る流れは確かのその通りです。
ただ、山鹿素行についてはこれからブログ上で紹介しますので、あまりネタバレ的な内容をお話しされると当方も辛いのですが…(^^ゞ
楽しい~
万金丹 こんにちは~黒田さん
"「元禄赤穂事件」の真実"シリーズ
とても楽しいですよ~
こんな隠された秘話を待ってました!
今年もカープが"セ"の荒らしの目
になるのは間違いないです
後は中畑君がどんだけ
ジャイアンツをイジメられるかですね!
万金丹さんへ
黒田裕樹 こちらこそお言葉有難うございます。
今年のカープも仰るとおり楽しみですね。
「去年三月、内匠頭儀(ぎ)、伝奏御馳走(でんそうごちそう)の儀につき、意趣(いしゅ)を含(ふく)み罷(まか)りあり、殿中(でんちゅう)に於(お)いて、忍(しの)び難(がた)き儀ご座候(ざそうろう)か、刃傷に及び候(そうろう)…」。
主君である浅野が吉良に斬り付けた理由については「忍び難き儀ご座候か」、すなわち「何か我慢(がまん)できないところがあったのか」と書かれており、家臣ですら肝心(かんじん)なことがよく分かっていないということがうかがえます。
以上の考えをまとめれば、元禄赤穂事件における江戸城内の刃傷沙汰は浅野による勝手な「暴発(ぼうはつ)」がもたらした「不幸な出来事」であり、被害者でしかなかった吉良に対して大石らが討ち入ったのは私刑(しけい)、すなわち「リンチ」であったという結論も有り得ることになってしまうのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに今日のお話の様な結末なら
今で言うと「集団リンチ事件」として
扱われて当然ですね(^^ゞ
理由なき反抗・・
いえいえ、理由なき犯行であったのなら
尚更ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。現在の「元禄赤穂事件」の考察もこれまで述べてきたようなものが主流になりつつあります。
しかし、実は「肝心なもの」が(あるいは意図的に)抜け落ちてしまっているのです。
詳しくは次回(17日)以降に紹介します。
「赤穂浪士」よりも「薩摩義士」を!
鹿児島のタク 「赤穂浪士」の一連の話が,ここまで広まり,現代まで親しまれているのには,いろいろな理由などが考えられるのでしょうね。
○ 討ち入りがあったとき,江戸の市民が非常に喜んだらしいという記録が残っています。当時は犬公方として有名な5代将軍「綱吉」の時代…。この綱吉の政治(実際は老中がするのでしょうが…)に対して江戸市民が非常な不満を持っていたとの背景もあるとされます。(まあ,武士の鑑…。武士は威張っているが,ここまでよくやった…。等の江戸市民の心情)
○ この「赤穂浪士事件」に対しては,多くの藩や,その藩の学者がいろいろな意見を文献と残しておりますが,意外と,批判的な記録が多く残っています。
○ 明治になって,外国に相対するときに,日本人の精神や文化を説明する際に「忠臣蔵」は非常に都合がよかった。(「忠臣蔵」だけではありませんが…。)
私は,鹿児島県人ですから…。全く全国的には知られていませんが,「宝暦治水事件」をもっと多くの人々に知ってほしいです。
これについては,“単なる”「主君の仇を討った。」「敵をうった!」という…『赤穂浪士』とは異なり,ある種の「ヒューマニズム」があります。これは,幕府が薩摩藩に命じた,いわゆる「お手伝い普請」ですから薩摩藩としては断わりようがないわけですが…,あまり,日本人に知られていません。
いろいろな著作物が出ていますが,『弧愁の岸』(杉本苑子)等の小説は,割と資料を調べ上げて書かれているので,機会があれば読んでいただけたらと思います。
すいません。「最後に郷土愛」が出てしまいました。鹿児島いいところですよ。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 本編とは関係のないお話ですが、郷土愛によるものですからね。
確かに世の中にはまだまだ埋もれたエピソードが多いです。
少しずつでも明らかになっていけばよいですね。
鳳麒 「喧嘩両成敗にならず、浅野が一方的に切腹させられたなんて、幕府の裁定は不公平だ!」
という批難もありますが、実は当然の措置だったんですよね。
江戸城内では如何なる理由があろうとも、刀を鯉口三寸切らせたら死罪、という法が当時はあったようですから。
それにそもそも「喧嘩」にもなってませんからね。
「喧嘩になった」というのは、両者とも刀を抜いていた場合であって、吉良の方は一切抜かず、刀を鞘に収めたまま防いだのですから、「喧嘩」は成立していません。
寧ろ事件後に吉良は、そういう咄嗟の非常事態に陥りながらも、冷静さを失わず、刀を抜かずに対処した振る舞いを、幕府で称賛されている位ですから。
そう、そういう事態には吉良のように刀を鞘に収めたまま対処するのが作法で、それならば法的に問題ない訳です。
だから喧嘩両成敗を適用させず依怙贔屓したという批判は成立しません。
このような最大級の不敬罪を犯した浅野は、本来ならば不名誉な斬首になる所でした。
それを切腹という名誉ある死に方を許されたのですから、これは幕府の温情ですよ。
様々な記録によれば、浅野には「痞(つかえ)」という持病があったとされています。「痞」とは「胸が塞(ふさ)がって苦しいこと」ですが、最近では「気が塞ぐ」といういわゆる鬱(うつ)の状態を指(さ)しているというのが定説になっているようです。
つまり、饗応役の頃(ころ)の浅野は精神的に不安定となっており、不幸にも儀式当日に「鬱」がピークに達し、いわゆる錯乱(さくらん)状態になってしまったのではないか、というのです。また、それを裏付(うらづ)ける間接的な証拠(しょうこ)として、浅野が江戸城内において帯刀(たいとう)が許されている脇差(わきざし)で「斬り付けている」ということが挙げられます。
脇差のような短い刀であれば、斬るよりも刺(さ)す方が相手を確実に殺傷(さっしょう)できます。それなのに、浅野は何度も斬り付けるだけで刺そうとはしませんでしたから、このあたりにも精神的に追い込(こ)まれて尋常(じんじょう)でない様子がうかがえる、というのです。
しかし、浅野が精神的に追い込まれていたにせよ、家臣の大石ならば何らかの事実を知っているはずではないでしょうか。何しろ大石は吉良邸(てい)への討ち入りの際に「浅野内匠頭家来口上書(けらいこうじょうしょ)」を書き残しているのですから。
ところが、その口上には「浅野が吉良を討とうとした理由」が何も書かれていないのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
Σヽ( ゚д゚)ノ ワッ!!
忘れてました(((( ;゚д゚))))アワワワワ
お誕生日、おめでとうございます


これからは実年齢はプラスされても、
精神年齢はマイナス方向でいきたいですね(^^)v
所で、精神的な病が絡む事件は
厄介ですよね・・。本人の意志ではなく
すべて病のせいにされてしまうのも
実際に危害を加えられた者の立場からすれば、
憤りを感じますね。(T_T)
応援凸
HAPPY☆BIRTHDAY
クラチー お誕生日おめでとうございま~す!
おお…現在の自分の2倍…!
これからも講演頑張ってください!
(*゚д゚*)
浅野くんの性格論のところですか。
鬱病は今だから有名ですが、
当時は鬱について詳しくなさそうですね。
誰かケアしてあげなよ~。
。゚(゚´Д`゚)゚。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございますm(_ _)m
精神年齢のマイナス方向、良いですね。マイナス過ぎて子供にならないようにしなければ(爆)。
精神面での病気は仰るとおり、本人のみならず周囲を不幸に巻き込んでしまうところが確かに厄介ですね。
クラチーさんへ
黒田裕樹 倍ですか(^^ゞ
自分も随分歳をとったものです。
鬱に対するケアが理解され出したのは最近のことですからね。
江戸時代の頃はとてもそんな状況ではなかったでしょう…。
あっという間に五十ですよ。
晴雨堂ミカエル おめでとうございます。また一年、生き延びましょうぞ。
四十の半ばにきたら五十はすぐそこです。私が四十になった時は、意外に若い、まだまだ青春や、と思ったものですが、あっという間に四十七、半年前から五十肩に悩まされています。
忙しさにかまけて身体のケアを怠ると、一気に老化が襲ってきますから、気をつけてください。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 お祝いと励ましのお言葉有難うございます。
確かに身体のケアは重要ですね。一昨年末にヘルニアを発症してからは特に気を付けております。
誕生日おめでとうございます。
鹿児島のタク 44歳の誕生日おめでとうございます。
四捨五入すると,最後の40台の誕生日ですよ。来年は45歳…四捨五入すると50歳ですから…。(笑)
実は,私が45歳で,四捨五入すると50歳になりました。昔から言うでしょう。「人間50年 化天の内を比ぶれば…」(敦盛)
信長は49歳で「死」…私には,あと4年しか残っていないのかなと思ってしまいます。(泣)
さてさて,「精神的なプレッシャー⇒ある種の“精神疾患”説」ですね。
ここまで来ると,難しいですね。どうしても,今のところ私の中では,“想像”の域を大きくでないです。それを裏らづける資料出てくることが楽しみです。
でも,新しい史料等が出てくると,また,歴史が明らかにされる…。それを,また楽しみにしています。
結局また,その説もひっくり返されるのでしょうけれども…。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございます。
現代は長生きが当たり前ですのでもっと頑張りたいですね(笑)。
確かに歴史は新資料の発見によって定説が覆されることがよくあります。
それはそれで結構なことなのですが、肝心な「何か」を意識して忘れさせることはプロパガンダにつながり、危険なことでもあるのです。
「梶川と吉良が立ち話をしていると、誰かが吉良の後ろから『この間(かん)の遺恨(いこん)覚(おぼ)えたるか』と声をかけて斬(き)り付けてきた。驚(おどろ)いて誰がやったのかと見れば浅野であり、吉良が浅野の方へ振(ふ)り向くと顔に太刀(たち)を浴びせられた」。
「あわてて逃(に)げようとする吉良に対して浅野がまた二太刀浴びせ、吉良が倒(たお)れたところでようやく梶川が浅野を押しとどめた」。
つまり、浅野は卑怯(ひきょう)にも吉良を後ろからいきなり斬り付けたというのです。そこには「吉良による浅野への罵倒」などあるはずもなく、しかも老人の吉良に対して壮年(そうねん)の浅野が何太刀も浴びせながら、殺害することすらできませんでした。
実は、この「殺害できなかった」ことが浅野自身の「資質(ししつ)」による影響(えいきょう)ではないか、という見方もあるのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
仰るとおり、後ろからいきなり斬りつけるという
行為そのものが本当であれば、かなり卑怯な手口であることは間違いありませんよね。
卑怯な手口でしか相手に立ち向かえないという
事事態、それだけの資質しか備えていなかったという事でもありますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
ここで問題になるのは、浅野がなぜ卑怯とも言える手法を取ったかということになります。
次回(15日)でその流れを明らかにしたいと思います。
オバrev う~ん、なるほど~!
歴史的事実と、歴史的認識には大きなズレがあるという典型ですかね。
何の疑いもなく赤穂浪士を信じていましたが、眼から鱗とはこのことです。
と言うか、歴史ってのはこういうものかとも思いました^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
ただ、ネタバレしない程度に先に申しあげますが、今紹介している見方にも「何か」が足りないのです。
歴史は本当に深いですね。
浅野内匠頭…大失態!!!
鹿児島のタク “もしもしもし”,「耐え難い屈辱」を吉良上野介から受けていたとしても,浅野内匠頭は,やってはならないことをやってしまったと考えます。
江戸城内で,このような重要な日に,刃傷に及べば,どういうことになるか…。そんなこと,大名なら当然知っていなければなりません。
話は変わりますが,江戸城内では,大名の家格に応じて,詰め所が決まっています。そこで,大名同士でいろいろなコミュニケーションをとったり,情報交換をしたりすることがあったことでしょう。そのような場面で,他の大名に対してある種の“遺恨”を持つのは,日常茶飯事であったと想像できます。
でも,大名たるもの,「耐えがたき屈辱」を受けても,じっと我慢をするのが当然なのであります。
江戸城内で,刃傷事件など起こせば,最悪の場合「改易」である。その瞬間,自分の部下は全員「失業者」になってしまうのだ…。
だから,想像するに,大名の嫡子は幼いころから,このような件について「しっかりとした躾・立ち振る舞い」の指導・訓練を受けていたはずで,このように浅野内匠頭のような行動に出てはならないのだと思います。
大名と言うと,どうせ「バカ殿」が多かったろう…というイメージをもたされているが,実は,非常につらい立場であり,「胆力」がなければ,やっていけなかったという認識を,我々はもっともってもいいのではないかと考える今日この頃です。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
問題は「そこまで分かっていながら浅野がなぜ刃傷に及んだのか」ということです。
最近の通説では本文にあるように「浅野自身の資質に問題があった」となっておりますが、その真相は…。
鳳麒 「遺恨覚えたるか!」の台詞は創作だという話もありますが、真相は果たして?
不意打ちを仕掛けておきながら、結局トドメを刺し損ねた。しかも老人を相手に。
だから浅野は馬鹿殿、資質に欠ける暗君。
こういった評価は疑問に思いますね。
もはや世は戦国時代ではなく、平和になってから百年も経っていたのですから、生まれてこの方、人を殺した経験がなく、為に武器の扱いに不慣れだったとしても、別に何ら不思議ではないでしょう。
この頃には戦国の世を生きた世代は皆死んでいて、誰も実戦経験などなかったのですから。
仮に武芸の稽古を積んでいたとしても、実際の斬り合いとなるとまた話は別です。
だから行為自体は決して褒められたものではない、という事は別として、殺すのに失敗したというだけの事で暗君扱いは、さすがに違うと思います。
こういった評価を下すのは、北条氏政の「汁掛け飯」「麦の昼飯」の逸話を鵜呑みにして、だから器量がなかったのだと貶すのと同じだと思います。
そして徳川秀忠を関ヶ原の遅参の件ですっかり味噌を付けてしまった事だけを論って、「人柄が好いだけが取り柄の凡君」の烙印を押すのと同じだと思います。
もっとも氏政の方のは後世の創作で、仮に史実だったとしても、言い掛かりでしかありませんが。
しかし、これらを現代に置(お)き換(か)えればどうなるでしょうか。重要な営業などの接待(せったい)において、相手に対して葬式(そうしき)のような料理を出させ、さらには宿泊先の掃除(そうじ)すら出来ていないような有様(ありさま)だった場合、接待の指導並(なら)びに監督(かんとく)役の吉良は相手にどう申し開きをするでしょうか。
「いや、これらはすべて担当者である浅野の不始末(ふしまつ)であって、私には一切責任がありません」。
そんな言い訳(わけ)が通用するはずありませんよね。つまり、浅野の勅使饗応役としての任務に落ち度があっては指南役の吉良の責任が真っ先に問われるのですから、忠臣蔵で見られるような「吉良による浅野へのいじめ」は現実には有り得ないのです。
では、刃傷当日の「吉良による浅野への罵倒」はどうなのでしょうか。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
確かに、現代に置き換えれば
指南役である吉良上野介の采配は、よくありがちな状況であり、その言葉に部下がいちいち恨みを
持つようになるとしたら、それこそ上司の命はいくらあっても足りませんよね(^^ゞ
そう考えると、「忠臣蔵」の話は双方の意見を公平な立場の者が書き記したものではなく、一方だけの意見だけで描かれた物語であるように思えて来ました。
よく「いじめ」問題で、「虐められた」と申告した者の意見だけを聞くと、確かに可哀想に聞こえて来ますが、虐めを行ったとされる人物に理由を求めた時に、虐めようと思って言った言葉ではないと、それが虐めであったという事すら、認識していないという事もありますよね。
やはり双方側の意見を聞くと一方だけの話を
聞いた時とは随分、展開が異なっているものですよね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、物事の善悪の判断は一方的な意見だけで判断できるものではありません。
少なくとも「吉良のいじめ」があり得ないことは容易に想像できますね。
江戸元禄期の生産能力
鹿児島のタク 「200畳(じょう)に及ぶ屋敷の畳替(たたみが)えは無用である」…。(史実!?)
「忠臣蔵」では,この話がよく出てきますね。
筋書きでいけば,一晩で(非常に短期間で),浅野家は江戸中の畳生産関係者に,頼み込んで作っています。
もし,これが本当なら,江戸時代元禄期の畳の生産能力が,これほどすごかったと言えるでしょう。
畳は,今でこそ機械で作っています。もう原料も現在では「イグサ」ではなく,化学繊維みたいなものかもしれませんが…当時は,マニファクチャー(工場制手工業)と言うのが,それほど発達していなかった(?)でしょうから…。
何といっても,我々の感覚からすると,産業革命を起こした英国がすごい…となる。
でも,やっぱり,この時期の江戸(日本)はすごい。江戸一極集中がよいか悪いかは別として,江戸は,ある時期から,人口が世界一の年になっていますね。
この短期間で「畳200畳」を作り上げつ能力が当時の日本人にあったということは,現在の日本の持っている技術力や人材がその当時から綿々と受け継がれているということになりそうな気がします。(考え過ぎでしょうか?)
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 残念ながら、忠臣蔵における「200畳の畳替え」は本文中にもあるように史実では有り得ません。
ただし、数日の間にそれだけの数の畳替えをする必要はあったでしょうから、当時から技術の高さがあったということに間違いはないでしょう。
鳳麒 どうも初めまして。
そうですよね。これらの説は創作の『忠臣蔵』の影響を受けた俗説ですよね。
こんな真似をしたら、第一に責任者である吉良こそが御咎めを受けるのですから、わざわざそんな自分で自分の首を絞めるような真似などする筈がありませんよね。
刃傷が起きた日である旧暦(きゅうれき)元禄(げんろく)14年3月14日(1701年4月21日)は、天皇の意思を直接伝えるために派遣(はけん)された勅使が江戸城内に入って将軍と面談し、天皇のお言葉を受けた将軍が挨拶(あいさつ)を返すという、勅語奉答(ちょくごほうとう)と呼ばれる最大の儀式(ぎしき)が行われる日でした。
そんな重要な日に、よりによって江戸城内で刃傷を起こして儀式をぶち壊(こわ)しにしたのが浅野であり、襲(おそ)われた吉良は城内で刀を抜(ぬ)くのがご法度(はっと)であったことから無抵抗(むていこう)でした。つまり、刃傷沙汰(ざた)の本質は「喧嘩(けんか)」ではなく、浅野による一方的な「傷害事件(しょうがいじけん)」だったというのです。
確かに結果だけを見ればその通りかもしれませんが、私たちが忠臣蔵の世界で良く知っているのが、浅野が勅使饗応役としての任務(にんむ)の過程(かてい)で受けた「吉良による陰湿(いんしつ)ないじめ」であり、儀式当日にも吉良から面前(めんぜん)で罵倒(ばとう)され、堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れたからこそ、すべてを投げ捨てて浅野が刃傷に及んだのだ、と誰しもが考えることでしょう。
しかし、そのようなことは現実には「有り得ない」のです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち なるほど、そもそも
江戸城で執り行われた儀式の前の事情から
よく把握しておかないと、浅野内匠頭がどうして
その様な行動を起こしたのかという事が理解出来ずに、一方的に吉良上野介に馬鹿にされた腹いせに・・といういかにもまことしやかに語られた様な話に出来上がってしまう訳ですか・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
まことしやかに語られた事情には裏があるわけですが、その裏の見方にも問題がある、というのが今回の講座の真髄でもあります。
吉良上野介の人柄…!?
鹿児島のタク 吉良上野介義央の「お人柄」として有名な話がありますね。
(お人柄なんて,その書いた人(の立場)によってどうにでも『歴史書!?』に書かれてしますのでしょうが…。)
吉良氏の領地だった三河国幡豆郡(吉良町もその一部)では,吉良氏は「名君」だったという“伝説”…この場合歴史と言っていいのか?…が残っていますね。
特に,「吉良の赤馬」は有名で,吉良上野介はこの馬に乗って領内を視察し,領民にとって比較的,“有難い”領主だったという類の著作物はいろいろな場所で出てきます。
でも,こう考えると,何が真実で,どうなっているのかよく分からない。…歴史学は,このような点でも難しいですね。
「忠臣蔵」は偽作というか劇作として楽しめればいいし,でも,歴史の真実に一歩でも近づきたいというのが一般の人々なのではないでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 確かに吉良上野介が「名君」であったことは有名な話です。
ただし、「名君の吉良を討つなんてとんでもない」という見方も一方的の裏返しとなります。
歴史学は両方の視点、あるいはまったく別の観点から見出すべきものでもあります。
徳川幕府(とくがわばくふ)から東山天皇(ひがしやまてんのう)の勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)に命じられた赤穂藩主(あこうはんしゅ)の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)こと浅野長矩(あさのながのり)は、彼の指南役(しなんやく)であった吉良上野介(きらこうずけのすけ)こと吉良義央(きらよしひさ)による数々のいじめに耐(た)えかね、ついに江戸城松の廊下(ろうか)において刃傷(にんじょう)に及(およ)ぶも、無念にも上野介を討ち漏(も)らしてしまいました。
浅野はお家断絶(いえだんぜつ)のうえ即日切腹(そくじつせっぷく)、一方の吉良には一切お咎(とが)めなし。幕府による理不尽(りふじん)ともいえる裁(さば)きに対して、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)こと大石義雄(おおいしよしお)をはじめとする旧赤穂藩の四十七士(しじゅうしちし)は数々の苦難を乗り越(こ)えて吉良家の屋敷(やしき)へ討ち入り、ついに主君の仇を討ったのです。
私たちが良く知っている「忠臣蔵」は日本人の好みに最も相応(ふさわ)しい物語であるといえますが、実は最近の歴史研究では全(まった)く別の評価となりつつあるのを皆(みな)さんはご存知(ぞんじ)でしょうか。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
確かに今では年末年始の風物詩となって
いますよね^^
ずっと座って最初から最後まで
テレビの前で見たことは無いですが
あれってほぼ半日以上放送してませんか?(∀`*ゞ)エヘヘ
真説があるんですか^^
明日の記事をたのしみしますね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 昔はテレビドラマで半日かけてやっていたこともありましたし、あるいは映画も普通よりも時間をかけて丁寧に描いていますね。
真説ですが、まずは最近の学説から紹介させていただきます。その内容は…。
「仮名手本・忠臣蔵」…
鹿児島のタク 現在TVや映画の「忠臣蔵」関係は,今だに元禄末期の「仮名手本・忠臣蔵」等がベーシックにあるでしょう。全くの劇作ですから…。
本当の歴史というものを証明できるとすれば,…全く異なることは当たり前でしょうね。
以前と比べれば,年末のテレビや映画の数はすごく減ったでしょう。でも,私もこの手の「忠臣蔵」を観るとついつい涙が出てしまいます。
偽作とは知っていても,これはもはや「仕方がない」の世界です。でも,真実(真相)を知りたいですね。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 我が国の「歴史に残る名作」は、仮に偽作であったとしても某国のように「全くのでっち上げ」ではなく、必ず何らかの「下敷き」が存在しているものです。
今回の講座もその観点から詳しく説明していきたいと思っております。