しかし、当日の決済を終えていた東京渡辺銀行は現実には破綻していなかったのです。にもかかわらず議会において「破綻した」と口走ったのは、片岡蔵相による「痛恨(つうこん)の失言」以外の何物でもありませんでした。
かくして大蔵大臣に「破綻」を宣告(せんこく)された東京渡辺銀行に預金者が引き出しに詰(つ)めかけたことで、翌日には「本当に」休業に追い込(こ)まれただけでなく、東京渡辺銀行の破綻を不安に思った人々が他の中小銀行にも預金引き出しに殺到(さっとう)するという取り付け騒(さわ)ぎを起こしたため、連鎖反応(れんさはんのう)のように他の銀行も次々と休業を余儀(よぎ)なくされてしまいました。
これらの動きは今日では金融恐慌(きんゆうきょうこう)と呼(よ)ばれています。政府は日本銀行による非常貸し出しでこの騒ぎを何とか沈(しず)めましたが、金融恐慌の流れは「別の大手銀行」の経営破綻によってさらに拍車(はくしゃ)をかけることになってしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
私のような一般人がどんなに御託を並べても
何の影響も無いでしょうけれど、やはり上に立つ者の一言一句の重みは全く異なりますので、
気をつけていただきたいものですよね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、政治家のように人の上に立つ公人の発言には途方もない責任が伴います。
今も昔も変わることなく言葉は慎重に選んでいただきたいものですが、その一方で失言を求めようとする報道姿勢もおかしな話だと思いますね。
オバrev 政治家って、我々庶民から見ても、ちゃんと科学的検証をせずに思い込みで発言してるってありますね。
直近で言えば、O市市長H氏(^^ゞ
もちろん政治家ですから、ダイレクトに発言することも大事ですが、慎重でなくてはならない問題は慎重に、根拠を持った発言が求められると思いますけど。
「今」でも…
鹿児島のタク 現在でも、日本で、このようなこと有り得るでしょうか。
金融機関の破たんとは異なりますが、例えば、日本国債が…いつか…ただの紙切れに…。
これだけ国が借金をしていれば、可能性はないとは言い切れない…。経済のことは詳しくないのでこの程度で…。
考えただけでも恐ろしい。でも、日本国債…私もっていないのです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 おっしゃるとおり、政治家の思い付きでの発言は後に混乱を招きますよね。
特に今の政権には根拠ある発言を心がけてもらいたいものです。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 金融機関の破綻は20世紀末にもありましたね。
国債に関しては、ここでは詳しい説明は省略しますが、貸主と借主が同じ日本人で、主に国内で流通することを考えればそれほど心配することはないと思います。
政府と日銀が通貨量を調整すれば緩和できますからね。
確かに…・
鹿児島のタク 20世紀末の金融機関の破綻は、「公的資金」(つまり税金)の投入で難を逃れたという感じだったのでしょうか。
それと、確かに日本国債の8~9割程度(正確な数字!?)は日本人が持っているということなので、大丈夫だとは思うのですが…。この場合の「大丈夫」と「安全」は全く違うことでしょうから…。心配性なんです。ハッハッハッ!
「政府と日銀が通貨量を調整すれば緩和できる。」・・・マネーサプライ…!? このあたりを私ももっと勉強したいです。(歴史とはちょっと違いますが…)
鹿児島のタクさんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、公的資金の投入で金融危機は回避できますし、これまでもそれを続けています。
国債の件ですが、重要なヒントとなるのが実は今回の直後ともう一回後に登場します(2回目はおそらく3月頃になると思いますが)。
現在と状況がよく似ており、かなり参考になるのではと思われますのでそれまでお待ちください。
次官は大蔵大臣(おおくらだいじん)の片岡直温(かたおかなおはる)に対応を相談しようとしましたが、議会で審議中(しんぎちゅう)のため面会できず、事情を書面に記(しる)して蔵相(ぞうしょう)に言付(ことづ)けました。
一方、大蔵省(おおくらしょう)からの助力(じょりょく)が得られないと判断した東京渡辺銀行は改めて金策(きんさく)に走り、別の銀行の資金援助(えんじょ)を受けて辛(かろ)うじて決済を行い、その旨(むね)を大蔵省に伝えようとしましたが、担当の次官が不在(ふざい)ですぐには連絡できませんでした。
その頃(ころ)、片岡蔵相は議会から厳(きび)しい追及(ついきゅう)を受けていましたが、そんな折(おり)に次官から書面で「東京渡辺銀行休業」の報告を受けた蔵相は、追及をかわしたい一心(いっしん)からつい口走(くちばし)ってしまいました。
「東京渡辺銀行がとうとう破綻(はたん)を致(いた)しました」。





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ぴーち こんにちは!
あらら・・
いい所でお話が終わってしまいましたね(T_T)
まるで連続テレビ小説の様な展開w
それにしても、休業と破綻では
話が変わって来てしまうので、その後相当拗れたのではないですかね・・(゜レ゜)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 狙ったわけではないのですが、前後の流れでこうなってしまいましたね(^^ゞ
おっしゃるとおり、大臣による「失言」がこの後の我が国に大きな影響を与えてしまうのです。
こうして始まった昭和時代でしたが、いきなり大きな試練(しれん)を迎(むか)えることになってしまいました。大正12(1923)年に発生した関東大震災(かんとうだいしんさい)によって多額の民間手形が支払(しはら)い不能となった際、災害地を支払地とする手形は政府が信用保証して支払いを延長(えんちょう)しました。
しかし、それらは問題の先延(の)ばしに過ぎず、支払いの猶予(ゆうよ)が昭和2(1927)年で切れることから政府はその整理に着手(ちゃくしゅ)することになりました。なお、当時の内閣は病死した加藤高明(かとうたかあき)にかわって成立した、憲政会(けんせいかい)を与党とする第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣でした。
第一次若槻内閣は新たに公債(こうさい)を発行していわゆる震災手形(しんさいてがた)を整理しようと考え、そのための法案を議会に提出しましたが、議会では銀行の放漫(ほうまん)な貸し出しが今回の事態を招(まね)いたなどという非難の声が挙(あ)がり、なかなか前へ進みません。そうこうしているうちに、経営難に苦しむ中小銀行の資金繰(ぐ)りが限界に達しつつありました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
何やら時代が変わった途端に苦難というのは
訪れるものなのですね。
最近でも、民主党が政権を握った矢先に
大震災という災難が訪れ、再び自民党が政権を奪還した途端に、アフリカでの痛ましいテロ事件が
降って湧いた様に起こりましたが、
まるでその都度、国を司る者の力量を試すかのようです・・・( ´゚д゚`)
それにどう素早く対応出来るかが、その後の評価にも大きく影響してくるものですが・・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、新時代に対する苦難というのはある意味いつの時代も起こっているものですね。
こんな時こそ政治の力量が問われると思いますが、昭和初期はどうだったのでしょうか?
危機の時の政権
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
政治家というのは、危機の時に誰が政治の舵取りをするかで
決まりますね。
今の日本も、もし、あのまま、民主党があの悪法(人権法案)を通して政権をまだ、握っていていたらと思うと、
本当にぞっとします。
そう考えると、国の運命は、ギリギリのタイミングで、誰がリーダーになっているかで、決まるようなきわどいものなのかもしれませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにおっしゃるとおりですね。
国の命運を託すにふさわしいリーダーは危機にこそあらわれるのかもしれません。
なお、横山大観は「生々流転(せいせいるてん)」、下村観山は「白狐(びゃっこ)」などの作品が有名です。
洋画では、大正3(1914)年に文展(ぶんてん)から分離(ぶんり)した民間の美術団体である二科会(にかかい)の梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)や安井曽太郎(やすいそうたろう)、あるいは春陽会(しゅんようかい)の岸田劉生(きしだりゅうせい)らが活躍(かつやく)しました。
岸田劉生は娘の麗子(れいこ)を描(えが)いた作品で知られており、また二科会が開催する二科展(にかてん)は芸能人がしばしば入選することで有名です。
また、彫刻(ちょうこく)では詩人でもあった高村光太郎(たかむらこうたろう)の「手」が知られています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※これで大正時代は終了です。次回[1月29日]からは昭和時代・戦前の更新を開始します)





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ぴーち こんにちは!
私はどちらかというと西洋画の展覧会などには足を運ぶことが多いですが、日本画の展覧会は有名な方のものは一度も本物を目の前にしたことがありません(^^ゞ
岸田劉生の「麗子像」はダヴィンチの「モナリザ」に匹敵するくらい謎めいた雰囲気があり、今でもあのほほ笑みについて物議を醸しているようですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私は美術館へ行くこと自体が稀ですので、もっと芸術にお目にかからねばなりませんね(^^ゞ
麗子像は歴史の教科書にはたいてい載っている有名な絵ですからね。確かにモナリザに通じるものがありそうです。
音楽では山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲(こうきょうきょく)の作曲や演奏(えんそう)を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団(こうきょうがくだん)である日本交響楽協会(にほんこうきょうがくきょうかい)を設立しました。
その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱退(だったい)し、新交響楽団(しんこうきょうがくだん)を立ち上げました。現在のNHK交響楽団のルーツです。この他、声楽家(せいがくか)ではオペラ歌手の三浦環(みうたたまき)が国際的な名声(めいせい)をつかみました。
大正から昭和にかけては文部省唱歌(もんぶしょうしょうか)や童謡(どうよう)も人々の間で親(した)しまれるようになりました。前述(ぜんじゅつ)の山田耕筰も「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」など数多くの作品を残しています。
なお、これは蛇足(だそく)ですが、山田耕筰は関西大学(かんさいだいがく)の学歌(がっか)も作曲しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
へぇ~(゚д゚)!
山田耕筰が黒田さんのご出身大学
の学歌をですか!
とても名誉ある事で、素晴らしいですね♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、名誉あることです。
交響楽団を創設した山田耕筰らしい勇壮な曲が関大のイメージにピッタリなんですよね。
ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」ですが、次回(第34回)は「真説・忠臣蔵 ~『浅野vs.吉良』本当の理由」と題して、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)に関する様々な考察についてご紹介します。
「忠臣蔵」といえば日本人なら誰もが知っている有名な「仇討(あだう)ち」であり、その悲劇的(ひげき)なストーリーが人々の感動を呼ぶとともに、これまでに数多くの浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)、あるいは映画やTVドラマとして演じられてきた年末年始の風物詩(ふうぶつし)でもあります。
しかし、忠臣蔵におけるストーリーの多くが後の創作であることや、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)本人の資質に問題があったなど最近の研究が進んだことによって、忠臣蔵に隠(かく)された「大きな意味を持つメッセージ」が分かりにくくなっている一面があるようです。
次回の歴史講座では、忠臣蔵の元となった「元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)」の真実に迫(せま)りながら、なぜ忠臣蔵がかくも私たち日本人の心をひきつけて離(はな)さないのかという「本当の理由」を、下記のとおり1月26日(土)には大阪、2月2日(土)には東京でそれぞれ分かりやすく明らかにしていきたいと思いますので、多くの皆様のご参加をお願いいたします!
第34回黒田裕樹の歴史講座
「真説・忠臣蔵 ~『浅野vs.吉良』本当の理由」
日時:(大阪)平成25年1月26日(土) 午後6時より
(東京)平成25年2月2日(土) 午後3時30分より
(※大阪と東京で開始時間が異なります。ご注意下さい)
場所:(大阪)大阪市立総合生涯学習センター 第3研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(東京)スター貸会議室 浅草 (井門浅草ビル5階)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます。なお、ビルの1階には有名なカレー屋さんがあります)
会費:いずれも無料(カンパを受け付けます)
なお、大阪・東京とも講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
最後に、おなじみのブロともであるクラチーさんからの素晴らしい画像を皆様にご覧いただきます!
(※クラチーさんのブログについては、下線部からご覧いただけます。)







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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この前、知人が、兵庫県の赤穂に行ってきて
良かったと言っていました。
忠臣蔵は、有名なのに、赤穂が、どこにあるのかを知っている日本人が少ないのは、不思議ですね。
それと、
知人が、大石蔵之助の子孫の娘さんと結婚したと言っていました。
大石蔵之助の血は、途絶えてなかったのですね。
驚きです。
講座が楽しみです。
青田さんへ
黒田裕樹 私も取材を兼ねて事前に行ってきました。
赤穂は大阪からだと新快速が直通していて便利ですが、一般的な知名度はどうなのでしょうか。
大石内蔵助は子沢山でしたから、子孫がまだご健在なのでしょうね。
忠臣蔵は子供のころから好きでした。
晴雨堂ミカエル 吉良氏の没落はえげつないですね。被害者なのに事件の責任を取らされて改易に断絶。
享保の時代にやっとお家再興になったものの、高家ではなく一般の旗本扱い。
従四位上左少将と、4千石クラスの旗本でありながら国持ちや10万石クラスの大名に匹敵する家格、源氏の流れをくむ主家徳川よりも明白な血統、それが御書院番の番士へ落ちぶれる。
再興後の吉良氏の官位や石高はどれくらいでしょうか?
追伸
晴雨堂ミカエル もし講座に参加する事ができたら、当日は正月に相応しい形で行きます。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 まだ講座が始まっていないのでネタバレは控えますが、吉良家再興後に関しての石高や官位までは私もよくわかりません。ただ、吉良家再興前の旗本としての家格は500石だったようですね。
もし講座にご参加いただけるのであれば、当日はよろしくお願いします。
吉良さんが可愛そう
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私も、晴雨堂ミカエルさんの全く、同じ意見です。
『吉良さんが、可愛そうで仕方ありません。』
そう考えると、国民世論というのは、恐ろしいですね。
善人、悪人を創るわけですから。。
そのあたりも、講座で、明らかにしてくれるのでしょうね。楽しみにしています。
青田さんへ その2
黒田裕樹 繰り返し申し上げますが、ネタバレになる事項についてはコメントを控えさせていただきます。
当日までお待ちください。
失礼しました
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
大変、失礼しました。
今後は、このようなことがないように致します。
当日を楽しみにしています。
青田さんへ その3
黒田裕樹 ご理解くださり、ありがとうございます。
こちらこそ、当日はよろしくお願いします。
面白い講座でした。
晴雨堂ミカエル 三度目の正直と申しましょうか、やっと参加できました。
本当は正月らしく羽織袴で行こうと思いましたが、夜勤明けで帰宅後に仮眠を取ったら講座の時刻が迫っていましたので着替える暇がありませんでした。またの機会にしましょう。
(着付けを忘れないよう年に何度か着る機会を無理やり設けていますが、普段着ではないのでどうしても帯の締め具合や位置の調節に時間がかかってしまいます)
ネタばれになりますので詳しくは申せませんが、黒田氏の見解は私とほぼ同じなので我が意を得たりという思いです。だからこそ吉良が気の毒という思いなのであります。幕府に精一杯つくしてきたのにあの処分はまことにもって冷酷。
吉良家が幕末にどんな動きをしたのか気になります。朝廷に行けば源氏を名乗る出自の明白な家柄なのに享保以降の消息が掴み難いのはやはり哀れです。
大正時代には庶民(しょみん)の娯楽(ごらく)としての読み物である大衆文学(たいしゅうぶんがく)も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌(たいしゅうざっし)の「キング」が創刊され、たちまち100万部を突破(とっぱ)する売れ行きとなりました。
大正11(1922)年には「サンデー毎日」が創刊され、週に一回発行される週刊誌(しゅうかんし)も人気を集めたほか、関東大震災(かんとうだいしんさい)後には「現代日本文学全集」のように一冊一円で販売(はんばい)する円本(えんぽん)や岩波文庫などの文庫本も登場しました。
その他の大衆文学としては、鈴木三重吉(すずきみえきち)が創刊した児童文学雑誌「赤(あか)い鳥(とり)」を基本とした北原白秋(きたはらはくしゅう)らによる童謡運動(どうよううんどう)が始まったり、中里介山(なかざとかいざん)の「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)」や吉川栄治(よしかわえいじ)・直木三十五(なおきさんじゅうご)らの時代小説、あるいは江戸川乱歩(えどがわらんぽ)らの探偵小説(たんていしょうせつ)などが人気を呼(よ)んだりしました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
江戸川乱歩の描く世界は嫌いではありませんね(^^ゞ
ミステリーものが流行る世の中は、比較的平和な世の中である証拠でもあるようなので、
大正時代も現代の様に、人々のくらしが
安定し、平和な時代であったという事がこのことからも伺えますね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 江戸川乱歩といえば明智小五郎ですよね。私は明智光秀の名を初めて聞いたときに「あれ?小五郎さんの名前をパクってるのか?」と勘違いしました(爆)。
確かにミステリーが流行るとそんなイメージがありますよね。
そういえば今日(平成25年1月26日)の誰かさんの歴史講座の内容も…。
一方、雑誌「スバル」では独自(どくじ)の唯美主義(ゆいびしゅぎ)を主張した耽美派(たんびは)があらわれ、永井荷風(ながいかふう)が「腕(うで)くらべ」を、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)が「痴人(ちじん)の愛(あい)」を著(あらわ)しました。
また、横光利一(よこみつりいち)や川端康成(かわばたやすなり)らが新しい感覚と表現を主張した新感覚派(しんかんかくは)もこれに続きました。
詩では高村光太郎(たかむらこうたろう)や萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)らが口語(こうご)による自由詩を発表し、短歌では伊藤左千夫(いとうさちお)門下の斎藤茂吉(さいとうもきち)が島木赤彦(しまきあかひこ)らとともにアララギ派を確立しました。
この他、俳句では河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らが従来の五七五調の形にとらわれない新自由律俳句(しんじゆうりつはいく)を開拓(かいたく)しています。
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ぴーち こんにちは!
実は中学の時に自分が本格的に小説らしきものを最初に読ませていただいたのが、武者小路実篤の「友情」でした(^^ゞ
タイトルの清いイメージとは別に男女の三角関係という少々背伸びをした内容だったことで
あの当時は何となく後ろめたい気持ちで読んでおりましたが、
今思うと、純情であったのだなと懐古します(*^_^*)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 武者小路実篤の「友情」は色々と考えさせられる作品ですよね。
個人主義を尊重する白樺派ならではですが、青少年の純情さが懐かしく思えます。
オバrev 大正という時代は、明治と昭和に挟まれた短い時代だったこともあって、あまり印象にないですが、現代の教育や研究や文学、芸術への影響という点では実際の長さ以上に大きな時代だったんじゃないかなと思いながら読ませて頂きました。
何しろ、小・中・高と日本史の授業でまともにこの時代まで進んだことないもんで(^^ゞ
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大正時代は我が国の現代の文化にもつながることの多い様々な実績を残しています。
時代は短くとも中身は濃いですね。
確かに勉強する機会がないですね(´・ω・`)
ぜひとも私の講座で勉学に励んでくださいm(_ _)m
人間社会の現実をありのままに描写(びょうしゃ)する自然主義(しぜんしゅぎ)が作者自身のありのままを写(うつ)しとるだけの私小説(ししょうせつ)へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮(しんしちょう)」を発刊(はっかん)して、知性を重視して人間の心理を鋭(するど)くえぐり出した理知主義(りちしゅぎ)の文学を発表し、新思潮派(しんしちょうは)と呼(よ)ばれました。
芥川龍之介の代表的な作品には「羅生門(らしょうもん)」「鼻(はな)」「杜子春(とししゅん)」「河童(かっぱ)」などがあり、現代の国語の教科書にも採用されています。
菊池寛の代表的な作品には「恩讐(おんしゅう)の彼方(かなた)に」「父帰(ちちかえ)る」などがあります。また、菊池は大正12(1923)年に月刊誌(げっかんし)の「文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう)」を創刊しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち こんにちは!
菊池寛の「父帰る」はモノクロの映画作品で
鑑賞した事がありますが、未だに印象深い作品として脳裏に残っていますね・・
そう言えば、主人公の父の名前は黒田さんという方だったような・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「父帰る」は3回映画化されていますが、一番新しいのが60年前ですからね。
>そう言えば、主人公の父の名前は黒田さんという方だったような・・(^^ゞ
さすがよくご存知ですね(^^♪
私は父親になったことはありませんし(爆)、父も失踪しておりませんが(^^ゞ
また、研究機関として理化学研究所(りかがくけんきゅうじょ)が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次(あいつ)いで設立されたりしました。
ところで、この当時の教育の普及(ふきゅう)はめざましく、義務教育の就学率(しゅうがくりつ)はほぼ100%となったほか、中等・高等教育機関も充実(じゅうじつ)しました。
例(たと)えば中学校の数は大正4(1915)年には321校であったのが大正14(1925)年には500校を超(こ)え、また生徒数も大正9(1920)年の約17万人から昭和5(1930)年には約34万人と倍増(ばいぞう)しています。
なお、原敬内閣(はらたかしないかく)は高等教育機関の充実を進め、旧制高等学校が大幅(おおはば)に増加したほか、大正7(1918)年には大学令(だいがくれい)を公布して、総合大学である官立(かんりつ)の帝国大学以外にも単科大学や公立・私立の設置を認めました。
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ぴーち こんにちは!
たった10年間程で随分と学校の数も、生徒の数も増えたものですね!
現在もまだ義務教育は中学校までとなっていますが、近い将来、高等教育も義務化になるんのでしょうかね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、当時の教育の水準は高まる一方だったっですね。
高校の義務教育化ですか…。確かにほとんどの中学生が高校に進学しますが、こればかりは分かりませんね。