煬帝も中国の皇帝が務まるほどですから決して愚(おろ)かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。
さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と小野妹子が隋からの正式な返書を紛失(ふんしつ)してしまったのです。外交官が国書を失(な)くすという信じられないミスに大あわてとなった朝廷でしたが、本来なら死罪(しざい)になってもおかしくなかった妹子は結局軽い罪(つみ)に問われたのみで、すぐに許されました。
これには、隋からの返書の内容があまりにも我が国にとって厳(きび)しく(例えば同じ天子と称したことに対する激しい怒りなど)、とても見せられるものではなかったゆえに「失くした」ことにしたからだという説があります。聖徳太子や推古天皇が小野妹子の罪を軽くしたのも、妹子の苦悩(くのう)を以心伝心(いしんでんしん、考えていることが言葉を使わないでも互いにわかること)で察(さっ)したからかもしれません。
さて、煬帝からの返書とは別に裴世清が我が国からの歓待(かんたい)を受けた際(さい)に送ったとされる国書が我が国の歴史書である日本書紀(にほんしょき)に遺(のこ)されていますが、その内容は従来の中国の諸外国に対する態度とは全く異(こと)なるものでした。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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オバrev まさに聖徳太子名人による王手に煬帝王将が詰んでいることを確認して、参ったと言って投了した感じでしょうか?
それは悔しかったでしょうね^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 上手な例え方ですね(^^♪
まさにそのとおりです。悔しさも倍増といったところでしょうか。
ぴーち おはようございます!
太子は自分が送った書状を煬帝が激怒することを
ちゃんと見込んでいて、その返答がどんな
ものであったかもしっかりと把握していたのでしょうね。
そして、妹子が返書を無くしたのは、太子への忠誠心が高い現れだと見抜いて、見逃したのでしょう。太子の予想する範囲には妹子が返書を無くす事は想定外では無かった事で、むしろ、自分の命に変えても太子を悲しませまいとする妹子の覚悟が太子の胸を打ったのかも知れませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
小野妹子の太子への忠誠心は、そのまま我が国の国益にもつながるものでした。
だからこそ彼が許されるとともに、我が国の恥辱を闇に葬ったのだといえます。