一方、隋と激しく戦った末(すえ)に一度は追い払(はら)うことに成功した高句麗でしたが、いつまた隋が攻め寄せてくるかわかりません。そこで、高句麗は隋に勝ったにもかかわらずその後もひたすら低姿勢を貫(つらぬ)き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開し続けました。
隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実(こうじつ)を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には果たして勝算があったのでしょうか。それとも、自国の実力を無視したあまりにも無謀(むぼう)な作戦だったのでしょうか。
結論を先に言えば、当時の隋には我が国へ攻め寄せる余裕が実は全くといっていいほどなかったのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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- 黒田先生
こんばんは
青田です。
超大国の煬帝を怒らせても、こちらの要求を相手に
100%認めさせた聖徳太子の外交手腕は、何度聴いても、爽快ですね。
この内容は、非常にタイムリーだと感じます。
今の日本の政治家にこの動画を見せたい気持ちになりました。
ぴーち おはようございます!
互いの立ち位置が対等であることが
外交をする上では基本的な条件だと
思います。
太子の戦略の一つとして
相手のいかりのツボをわざと啄いて
どれだけの度量が備わっているのか、相手の出方を推し量ってみたのかも知れませんね。
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
現代の政治家のほとんどは真似ができないのではないでしょうか。
それにしても、意識したわけではないのになぜかタイムリーな講座になってしまいます(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰る一面はありますね。
煬帝の怒りがどのあたりからくるのか、これも検証する価値がありそうです。