それは「天子」という言葉です。天子とは中国では皇帝、我が国では天皇を意味する君主(くんしゅ)の称号(しょうごう)ですが、煬帝は自国よりも格下(かくした)である(と思っていた)我が国がこの言葉を使ってくるとは予想もしていなかったのです。なぜなら、中国の考えでは「皇帝」は世界で一人しか存在してはいけないことになっているからです。
今から2200年以上前に中国大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一(ゆいいつ)の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗り、後にこれが慣例(かんれい)となって中国大陸では支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。
そしてこの構図(こうず)はやがて大陸周辺の諸外国にも強制させることになり、我が国においても中国皇帝の臣下(しんか)となって許してもらうようにお願いするという朝貢外交(ちょうこうがいこう)を行わざるを得なくなったのですが、独立国である我が国、そして朝廷にとってこんな屈辱的(くつじょくてき)な話はありません。
聖徳太子は中国大陸に隋という新たな支配者が誕生したのを機会に、これまでとは違(ちが)う態度(たいど)によって、すなわち「『皇帝→天皇』と名乗れるのは我が国も同じだ」という強い意思で、対等な関係の外交に臨(のぞ)む姿勢を「天子」という言葉に示したのでした。





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ぴーち おはようございます!
聖徳太子とあろう方がわざわざ
相手国の怒りを買うような言葉を
投げ掛けたのは、どういうものかと
思いましたら、そこには太子の思惑が
込められていたわけですね。
何もかも承知の上での意図的な戦略。
その後の展開も楽しみです♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、聖徳太子は何もかも承知のうえで思惑があって「天子」という言葉を使用しています。
そのあたりの詳しい事情についてはこれから説明していきますね。
オバrev この自分が一番偉い!という認識のDNAが中国には引き継がれているんじゃないでしょうか?
現在の傲慢な態度をみると、長い歴史に培われた価値観のような気がしますけど(;・∀・)
オバrevさんへ
黒田裕樹 根底にあるのが「中華思想」ですからね。
「自分こそ一番だ!」という発想そのものですが、逆に言えばそう思わないとやってられなかったのかもしれません。
この頃、隋の皇帝(こうてい)は二代目の煬帝(ようだい)が務(つと)めていました。「日本からの使者が来た」との知らせに煬帝は宮殿(きゅうでん)に現れると、手にした我が国からの国書(こくしょ)を読み始めました。すると、みるみるうちに煬帝の表情が険(けわ)しくなり、ついには顔を真っ赤にして叫(さけ)びました。
「何だ、この失礼な物言(ものい)いは!」
煬帝のあまりの怒(いか)りぶりに隋の外交官たちが震(ふる)え上がった一方で、我が国からの使者である小野妹子は涼(すず)しい顔をしていました。
「こんな無礼(ぶれい)で野蛮(やばん)な書は、今後は自分に見せるな!」
さて、煬帝をここまで怒(おこ)らせた国書は以下の内容で始まっていました。
「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日没(ひぼっ)する処の天子に致(いた)す。恙無きや(つつがなきや=お元気ですか、という意味)」。
果たしてこの国書のうちどの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか?





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ぴーち おはようございます!
以前にも確か黒田さんから学ばせてさせていただいたことがありました!!
天子と名乗った所だったと記憶しております^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 覚えてくださっていて有難うございます(^ω^)
詳しくは次回(18日)の更新で明らかにしますね。
また、第3条や第8条については、この条文を入れることによって蘇我氏にも「天皇への忠誠」や「役人の心得(こころえ)」を従わせることに成功しているだけでなく、それを破れば「憲法違反(といっても現代とは意味が異なりますが)」になることも意味しています。
冠位十二階と同様に、憲法十七条の制定によって聖徳太子は蘇我氏による横暴や独走を抑(おさ)え、後の中央集権国家の誕生へ向けての布石(ふせき)を確実に打っていたのです。
「いつまでも蘇我氏の思うままにはさせない」。政治家という職業には、時として誰にも負けないくらいの執念深(しゅうねんぶか)さが必要なのかもしれません。





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ぴーち おはようございます!
確かに
憲法として制定されてしまえば、
何人足りともその決まりを犯せば
ただちに憲法違反として
封じ込める事が出来ますものね。
オセロで言えば、四隅をしっかり確保した
形ということでしょうか(笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 オセロですか(笑)。
確かにそのとおりですね。
蘇我氏の反乱の芽を摘み取り、野望を封じ込めるには最適な手法だったと思います。
例えば第2条では「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬(うやま)え」として仏教への信仰(しんこう)を説いています。なお、三宝とは仏・法理(ほうり)・僧侶(そうりょ)のことで、仏教の三つの宝物(ほうもつ)とされています。
また第3条では「天皇の命令には必ず従(したが)いなさい」と天皇への忠誠を説くなど儒教(じゅきょう)の道徳思想に基(もと)づく心構(こころがま)えを示している条文もいくつか存在しており、中には第8条のように「役人は朝早く出仕(しゅっし)して、遅(おそ)くなってから退出(たいしゅつ)しなさい」という細かいものまであります。
憲法十七条は政務(せいむ)をとる者に対して和の尊重だけではなく、仏教への信仰や天皇への忠誠など様々な心構えを説くことで役人としての自覚をうながす内容となっています。
それらはもちろん重要なことなのですが、憲法十七条が素晴らしいのはそれだけではありません。実は憲法で定められた内容には、聖徳太子が蘇我氏などの豪族に対して巧妙(こうみょう)に仕掛(しか)けた罠(わな)が含まれているのです。





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ぴーち おはようございます!
憲法の内容に罠ですか(゚д゚)!
これまでその様な観点で憲法を考えた事がありませんでしたので、どんな罠が隠されていたのか
興味があります!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ハイ、罠です(^^ゞ
実は条文の中に隠されています。どのような内容かは次回の更新をご期待ください!
こうして編(あ)み出されたのが、我が国最初の成文法であるとともに後年の法典の編纂(へんさん)にも多大な影響を与えたとされる、604年に制定された憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)でした。憲法十七条は文字どおり17の条文に分かれていますが、このうち最も有名なのは、第1条の「和(わ)を以(も)って貴(たっと)しとなし…」の部分ですね。
これは「和の尊重(そんちょう)が我が国にとって何よりも大事であり、みだりに争いを起こさないようにしなければならない」という意味です。似た内容の条文が最後の第17条にもあり、こちらは「物事の判断は一人では行わず、皆で話し合って決めなさい」と説(と)いています。
この「和」や「話し合い」を重要視する姿勢は、現代に生きる我々にもつながっていると思いませんか?
聖徳太子によって説かれた精神は、私たち日本人の本質を実に的確に捉えているのです。1400年も昔の政治家の発想とはとても思えませんね。





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ぴーち おはようございます!
仰るとおり、日本人本来は「和」の心や、自分たちの間で起きた問題は自分たちで話し合い解決して来たはずですものね。
いつのまにやら、外国の毒気に侵されたかのように、何か揉め事が起こるとすぐに裁判だ!訴訟だ!と大騒ぎをするようになってしまいました。
昨日も法律関係のテレビを見ていて思ったのですが、子供が隣の家の猫にいたずら描きをして、隣の家の方がそれを見て激怒し、賠償責任問題にまで発展させた例を挙げていましたが、昔なら
たかが子供のいたずら。子供に誠心誠意謝らせて反省させたら、それで済んでいた事を、少しでも相手の過失が認められると確信するとそれをネタに
お金が少しでも手に入るのではないかという思いなのか、人情などはそっちのけで、損得感情だけで物事が動いている様で、哀しい世の中になったものだと思いました。
それに常に勝ち負けに拘る為なのかも知れませんが、人生勝つことだけが勝者では無いはずなんですけどね・・(´・ω・`)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、近頃の我が国では「和の精神」が失われつつあるのが問題ですね。
何が何でも勝ちばかり求めていては、いったん挫折した場合に二度と復活できないような気がしますが…。
まず蘇我氏を冠位十二階から除外(じょがい)したということは、逆に言えば蘇我氏に対抗(たいこう)できるだけの人材を育成できるルートを新たに作ったことになります。また、その位は12段階に細(こま)かく分かれていますから誰(だれ)が見ても明確かつ客観的(きゃっかんてき)です。これらによって、長い目で見れば蘇我氏の勢力を圧倒(あっとう)できるだけの、しかも出世した優秀な人材のみをそろえることが出来るようになるのです。
さらに蘇我氏の立場で考えてみましょう。聖徳太子から「あなたは特別だから冠位十二階の位は授けませんよ」と言われれば、確かに自分の方が下であると認めるわけにはいきませんから、聖徳太子の深慮遠謀(しんりょえんぼう、先々のことまで考えた深いはかりごとのこと)に気付いたとしても首を縦(たて)に振(ふ)らざるを得ません。
そうこうしているうちに聖徳太子が朝廷での人事権を握(にぎ)って自身が抜擢(ばってき)してきた優秀な若者をどんどん増やしていけば、蘇我氏としては自分の影響力が少しずつ削(けず)られていくのを、それこそ指をくわえて黙(だま)って見ているしかないのです。
おそらくは蘇我氏も地団駄(じだんだ)を踏んで悔(くや)しがったことでしょう。それにしても、オモテの世界で堂々と大義名分(たいぎめいぶん)を述(の)べながらウラでは蘇我氏打倒(だとう)のために色々と策謀(さくぼう)を練(ね)り続けるという、聖徳太子の優秀な政治家としての顔を垣間見(かいまみ)ることが出来るエピソードですね。





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晴雨堂ミカエル 中学の授業で、蘇我氏の存在があまりに巨大であったために官位十二階に組み込むことができなかった、と教えられました。
しかし超大国隋との対等外交を推し進めたり、朝鮮半島情勢にも目を光らせ、太子でありながら御位に就かず摂政として朝廷の実権を握るほどの人物が、蘇我氏にはなすがままとは考えられませんでした。
黒田氏の説明なら納得できます。
ぴーち おはようございます!
なるほど、相手の欲望をバッサリ奪うのではなく、今蘇我氏が一番欲しがっているものは何かをよく検討し、逆にそれを与え、尚且つプライドをも傷つけずに相手を立てながら、己の計画も着実に達成していく・・。
やはり、人間の心理や物事の通りをちゃんと知り尽くしていた人物だったのですね。
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 「(自分たちが捏造した)規定どおりのことしか教えない」学校教育の悪弊の一つですね。
少し頭をひねれば生徒にも理解できる内容のはずですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
聖徳太子のしたたかさはこれだけではありません。今後の彼の行動に対して私たちはさらに舌を巻くことになるでしょう。
『冠位十二階』の外交的側面について
nanashi こんにちは。とある古代史家の端くれ者です。
「冠位十二階」の制定の目的が、内政の面からいえば、「冠位を授与することができる唯一の存在」として、冠位という秩序に超越する王権(天皇)の権威を確立することにあったのは間違いないでしょう。
しかし一方で、「冠位十二階」の制定が、外交的側面においても大きな役割を果たした(というよりも、外交を行うためには冠位制が不可欠な要素であった)ことはほとんど授業では教えられていません。
当時の朝鮮半島、例えば百済では、一品官の『佐平』に始まる十六等の体系的な官位制が整備されていました。
しかしこの百済と外交を行うにあたって、相互の尊卑が制度化されていない(見掛け上は横一列の)、日本の伝統的な「カバネ」秩序では、外国からやってきた使者に対して、誰が応対すれば良いのかわかりません。
通常、外交では、「首脳会談」「外相会談」というように、各国の同ランク(ここでは『大臣』クラス)の人間の間で交渉が行われますが、当時の日本の制度化(ランク付け)されていない「カバネ」制のままでは、体系化された官位制をもつ朝鮮三国との交渉の際に支障が出るのです。
このような観点から見ると冠位十二階は、単なる内政的な問題からのみ生れたのではなく、外交を行うにあたって、当時の東アジア諸国でスタンダードとなっていた「官位制」を取り込む必要性が生れた所に、その端緒を見ることもできるのです。
まだまだ書き足りないところが多くあるのですが、以上極々簡単ですが、『冠位十二階』の外交的側面について、書かせていただきました。
nanashiさんへ
黒田裕樹 なるほど、冠位十二階には外交的にも大きな意義があったというわけですね。
大変貴重なご見解を有難うございました。
冠位十二階は朝廷に仕(つか)える人々に対する新しい身分秩序(ちつじょ)でした。まずは階級として徳(とく)・仁(にん)・礼(らい)・信(しん)・義(ぎ)・智(ち)という6つを定め、さらに大と小とに分割(ぶんかつ)することで12段階の区別をつけました。また、それぞれの階級で冠(かんむり)の色を以下のとおりに分けました。
大徳(だいとく、濃い紫)・小徳(しょうとく、薄い紫)・大仁(だいにん、濃い青)・小仁(しょうにん、薄い青)・大礼(だいらい、濃い赤)・小礼(しょうらい、薄い赤)・大信(だいしん、濃い黄)・小信(しょうしん、薄い黄)・大義(だいぎ、濃い白)・小義(しょうぎ・薄い白)・大智(だいち、濃い黒)・小智(しょうち、薄い黒)
冠位十二階は、それまでの氏姓制度(しせいせいど)による世襲制(せしゅうせい)ではなく、個人の才能や実績(じっせき)によっては昇進も可能になるという画期的(かっきてき)な身分制度であった一方で、蘇我氏は冠位の例外とされていました。おそらくは蘇我氏が従来(じゅうらい)どおりの大臣(おおおみ)として、冠位をもらう側よりも授(さず)ける立場にあったからと考えられています。さすがの聖徳太子も蘇我氏の立場にまで一気に踏(ふ)み込んで改革することはできなかったのでした。
しかしながら、聖徳太子もなかなかの食(く)わせ者(もの)でした。曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことにより、冠位を授ける立場の朝廷の権力が向上した一方で相対的に蘇我氏の権力が後退(こうたい)する遠因(えんいん)をつくったことにもなったからです。





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蘇我氏打倒の布石
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、聖徳太子について、誤解していました。
というのも、聖徳太子が生きている間に蘇我氏を
滅ぼしていなかったからです。
しかし、冷静に考えると
後の『大化の改新』が成功したのは、冠位十二階
により、中臣鎌足というブレインが出現したからだという気がします。
聖徳太子の時に冠位十二階の制度を創ってなければ、『大化の改新』が実現できないほど、蘇我氏の力が膨張していたかもしれませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
確かに聖徳太子の時代には蘇我氏を滅亡させることができませんでした。
しかしながら、そのための布石を着実に打っており、だからこそ後の大化の改新につながっているのです。
そのあたりの裏ワザ(?)についてこれから詳しく紹介しますので、どうぞご期待ください。
日本型のリーダー
- 黒田先生
こんにちは
青田です。
実は、私は、黒田先生の講義を聴くまでは、
聖徳太子があまり、好きではありませんでした。
とういうのは、織田信長、平清盛のよう強引なやり方で、敵対勢力を武力で、倒すような強力なリーダーこそ、社会に必要だと思っていたからです。
ただ、織田信長、平清盛も結果的に周囲に潰されました。(暗殺・反乱)
それにたいして、
聖徳太子は、協力な武力も使わず、強力な権力も行使せず、強大な敵対勢力も表面的には、友好関係を保ちながら、こちらの理想のカタチにしました。
日本という風土・国民性を考える時、聖徳太子型の表面的には、友好で、相手も気づかぬうちに
で、引っ張っていくリーダーのほうが日本に合っているのかもしれませんね。
もし、聖徳太子が強引な権力を行使するリーダーなら、聖徳太子も暗殺された崇峻天皇の二の舞になったかもしれません。
歴史から、学び現代に活かすという意味において
自◎党のA総裁こそ、聖徳太子の再来と私は、期待しています。
(優秀なのに潰されたAS氏、N氏にのようにならない願いを込めて。。)
青田さんへ その2
黒田裕樹 聖徳太子の場合は蘇我氏という強力な豪族がいましたからね。
自身が蘇我氏の血をひいていたからこそ摂政の地位についたということや、仰るように崇峻天皇が暗殺されたという現実を間近に見ていたからこそ、知らず知らずのうちに実権を回復していく「腹芸」を行ったのだと思います。
現在の世界ですが、「一度死んだ人間」はとてつもない底力を発揮するのではないでしょうか。
まず内政面においてですが、蘇我氏による横暴を打開するためには最終的に朝廷がすべての土地や人民を所有する公地公民制(こうちこうみんせい)を目指(めざ)すという思い切った改革(かいかく)を行うしかないと決断しました。しかし、現状(げんじょう)でいきなり大ナタをふるえば蘇我氏などの豪族の猛反発(もうはんぱつ)を受けるのは必至(ひっし、必ずそうなること)であり、慎重(しんちょう)な手続きが必要であるとも同時に考えていました。
また、外交面においては何よりも大国である隋の実力を知ることが重要であると考えた聖徳太子は、600年に初めて遣隋使(けんずいし)を送ったほか、高句麗の高僧(こうそう)であった恵慈(えじ)などから東アジアにおける国際情勢を学びました。ちなみに恵慈は熱心な仏教徒であった聖徳太子によって我が国で仏教を広めるために高句麗から招(まね)かれたのですが、仏教を学ぶことは当時の最先端(さいせんたん)の情報や技術を入手する意味も込められていました。
こうして我が国の内政あるいは外交における立ち位置を正確につかんだ聖徳太子は、まずは内政面において大胆(だいたん)な政治改革を断行(だんこう)することになるのです。





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ぴーち おはようございます!
今何が国内で起きていて、まず何をするべきかを
慎重に見極めて判断する事こそ国の情勢を安定させることへの第一歩なのでしょうね。
仏の教えの基本は慈愛の心ですので、
例えば相手に対していつまでも憎しみ持ち、怒りの炎を燃やし続けるのではなく、相手を赦すエネルギーを精一杯燃やしていきたいものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今何が国内で起きていて、まず何をするべきかを
> 慎重に見極めて判断する事こそ国の情勢を安定させることへの第一歩なのでしょうね。
仰るとおりです。
その意味においても聖徳太子がとった対策は万全でしたね。
> 仏の教えの基本は慈愛の心ですので、
> 例えば相手に対していつまでも憎しみ持ち、怒りの炎を燃やし続けるのではなく、相手を赦すエネルギーを精一杯燃やしていきたいものですね。
国内においてはその精神で間違いありません。
ただし(内政面を含む)対外的な問題に関しては、それだけでは通用しない時もあるのが現実でもあります。
聖徳太子の内政・外交策をじっくりとご覧いただいて、彼の「凄み」をご理解くださればと思います。
ぴーち おはようございます!
仰るとおり、相手を赦すという事は非常に難しい事ですし、私達凡人がその境地に達するには、様々な心の葛藤を経験し、苦しみ抜いてようやくたどり着く最上階の次元の心境だと思います。
我が国にはそれが理解出来る方が多くても、
他の国はまだまだ精神的に豊かになるまでには道半ばで、そう簡単には
理解されないことが多いでしょう。
ですので、そういう国に崇高な考えを語っても
馬耳東風でしょうから、こちらが次元を引き下げて相手と同等のレベルで対話しなけばなりませんよね。
経済的に豊かになることと、精神的に豊かになることはまるで違うように、経済的に豊かだからそこに住む人々が豊かだとは限りません。むしろ、正反対に下降して行くものかも知れません。
精神的に次元の高い国が、低い国と上手く共存し歩調を合わせていくには、我が国から階下に降りて行かなければいけない場合が多いので、世話が焼ける話ばかりです。
応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりであると私も思います。
現代の私たちが対外的にどのような行動をとるべきなのかを、聖徳太子の実績を鑑みながらじっくりと考察したいものです。
この事実はそれまで朝鮮半島(ちょうせんはんとう)で独立(どくりつ)を保っていた高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の各国のみならず、我が国にも大きな衝撃(しょうげき)を与えました。なぜなら新(あら)たなる統一国家である隋の誕生によって、大陸の内に向けられていた巨大なエネルギーが外へ押し出されることとなり、東アジアの政治情勢(せいじじょうせい)が非常に微妙(びみょう)になってしまったからです。
果たして隋は陸続きの高句麗に積極的に遠征(えんせい)して国力(こくりょく)を高めようとしました。一度は隋の攻撃(こうげき)をはね返した高句麗でしたが、依然(いぜん)として危機にあることに変わりはありません。
隋の動向(どうこう)によっては朝鮮半島がすべて侵略(しんりゃく)されるばかりか、我が国にも攻(せ)め寄(よ)せる可能性が十分考えられました。もしそうなればまさに亡国(ぼうこく)の危機となることから、我が国は外交面においても非常に難(むずか)しい立場に追い込(こ)まれてしまっていたのです。





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晴雨堂ミカエル 韓国の右翼は、高句麗の旧領の領有権を主張しているようですね。南満州から沿海州にかけて。
ぴーち おはようございます!
なるほど、随の勢力が強かったからこそ
我が国も亡国の危機を逃れる為の対策がなされたわけですね。いくら海を隔てた所であっても
中国大陸はお隣の国。
「対岸の火事」だと安心はしていられませんものね(^_^;)
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 聖徳太子とは直接的に無関係ですが、好太王(広開土王)の碑の存在を考えても高句麗の領土が南満州や沿海州あたりまで広がっていた可能性が高いですからね。
もっとも、当時の高句麗と現在の朝鮮民族との関連性の有無といった問題もあるかもしれませんが。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、海を隔てた大国の存在が我が国の存亡に大きくかかわるようになってしまったのです。
海があるからといって安心することなく、速やかな「次の一手」を考える。これぞ政治ですよね。
まず内政においては聖徳太子もその血を引いていた蘇我氏(そがし)による横暴(おうぼう)が激(はげ)しくなっており、なかでも我が国が仏教を積極的(せっきょくてき)に受けいれることを表明(ひょうめい)して、反対派だった物部氏(もののべし)との争(あらそ)いを勝ち抜(ぬ)いた蘇我馬子(そがのうまこ)は、自身と対立した崇峻天皇(すしゅんてんのう)を他人に命じて暗殺させていました。
また、当時は朝廷(ちょうてい)と蘇我氏のようないわゆる豪族(ごうぞく)とがお互(たが)いに土地や人民(じんみん)を所有していましたが、聖徳太子が摂政になった頃(ころ)には蘇我氏の支配地が朝廷をおびやかすほどに大きくなっており、政治上のバランスが不安定になっていました。
この状態を放っておけば蘇我氏の勢力が朝廷を大きく上回ることで、やがて両者に争いが起こって罪もない民(たみ)が迷惑(めいわく)するだけでなく、何よりも海の向こうに誕生(たんじょう)した「巨大な帝国(ていこく)」の介入(かいにゅう)すら考えられる大きな危機を迎(むか)えていたのです。





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- こんばんは。この度のビデオを拝見させていただきました、とある古代史家の端くれ者です。
突然ですが先生は、戦後日本古代史研究の出発点ともなった、石母田正『日本の古代国家』を、お読みになられていますでしょうか?本書はマルクス主義歴史学を基盤に据えて書かれているとはいえ、その古代国家の切り取り方には敬嘆する所があります。
特に今回の先生の講義で触れられなかった(がこの時代の日本の最重要課題であった)対朝鮮半島諸国との関係や、聖徳太子のカリスマ性、隋とのいわゆる『対等』外交などについては、詳しく述べられております。(第一章第二節・権力集中の諸類型 推古朝)今回の講義の内容により一層深みが生れると思います。
また古代国家成立期の対外関係(特に軍事と外交)を考える上でも、本書の第三章「国家機構と古代官僚制の成立」などは、教材研究においても、また現代の日本の置かれている状況を分析する上でも非常に参考になると思います。
「百済とは同盟関係で仲が良かったから白村江の戦いに出兵した」だとか、「悪者の蘇我氏が権力を独占した」といった安直な説明が罷り通っている現代の歴史教育において、大きな示唆を与える書であると、個人的には思っています。(当然ですが全部が全部を賞賛している訳ではありませんが)
もしまだ読まれていないということでしたら、ぜひ読んでみて下さい。(万一既読でしたらすみません。)
以上、長文失礼致しました。
名無しさんへ
黒田裕樹 この度は大変建設的なご意見を有難うございます。
ご紹介くださった書物は未読ですが、ぜひ拝読させていただきたいと思います。
なお、お名前をお書きでなかったゆえに「名無しさん」と表記させていただくことをご容赦ください。
ぴーち おはようございます!
現代も尚、海の向こうの巨大帝国からの
内政干渉やら、侵略行為やらで頭を悩まされている我が国ですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 現代も尚、海の向こうの巨大帝国からの
> 内政干渉やら、侵略行為やらで頭を悩まされている我が国ですね(^_^;)
仰るとおりです。
だからこそ、同じ状況で敢然と立ち向かった聖徳太子の実績を探る意義があると思います。