通常のブログ更新と並行して行っております「本物の歴史講座」ですが、次回(第32回)は講座の原点に戻って「聖徳太子 ~我が国の歴史を形づくった英雄」と題して行います。
国内においては蘇我氏の台頭、国外においては超大国であった隋の野望など我が国建国以来最大の危機を迎えていた6世紀後半から7世紀前半において、内政・外交ともに大活躍した聖徳太子は私が最も尊敬する我が国の英雄の一人であり、ブログを始めた当初も通史において1ヵ月近くも特集を組んだほか、茨木市の「学ぼう会・北摂」をはじめとする各講座に招かれた際には真っ先に紹介してまいりました。
しかし、これまでに31回を数える「本物の歴史講座」ではまだ紹介したことがありませんでしたので、ブログ開設以来3周年半を迎える今回を良い機会として、これまでの講演経験を活かした「決定版」を皆様の前で行いますので、是非とも多数の皆様のご参加をお願いたします。
なお、今回の講座は当初の思惑を超えて、我が国の今後を考える意味でも大変重要なものとなりそうです。
第32回「黒田裕樹の歴史講座」
「聖徳太子 ~我が国の歴史を形づくった英雄」
日時:平成24年9月29日(土) 午後6時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第3研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料(カンパを受け付けます)
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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
聖徳太子について
一言だけ言いたいことがあります。
『今の時代に、いて欲しかった!!』
青田さんへ
黒田裕樹 わたしもそう思いますね。
そのあたりを含めての講演になりますので、ご期待ください。
昨日は、お疲れさまでした。
- 黒田先生
こんにちは
青田です。
昨日は、私は、参加できませんでしたが、
お疲れ様でした。
次回は、必ず、参加しますね。
余談ですが、
安倍さんは、平成の聖徳太子に観えています。(●^o^●)
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに一理ありますね。
次回のご参加を楽しみにしております。
現在、打ち続く天災(てんさい)あるいは人災(じんさい)によって我が国は「失われた20年」ともいわれる混迷(こんめい)を深めていますが、こうした現状を打破するためには何が求められているのでしょうか。
「愚者(ぐしゃ)は経験に学び、賢者(けんじゃ)は歴史に学ぶ」とよく言われますが、過去の歴史を見つめ直して失敗も成功も両方理解することによって、二度と同じ失敗を繰り返さないことや、あるいは過去の成功例に自分がなぞらえることはいくらでも可能なはずです。
室町幕府はある意味自己を犠牲(ぎせい)にしてまで私たちに貴重な「教訓」を残しましたが、かつての江戸幕府がそうであったように、私たちは今こそ歴史に学んで、我が国の輝(かがや)かしい未来を自分たちの手でつかみ取れるように努力すべきではないでしょうか。
(※第31回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[9月27日]からは通常の更新[=明治時代]に戻ります)





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ぴーち おはようございます!
確かに歴史に学び、現代が抱える問題に当てはめて解決の糸口を模索していく事は大変有意義な判断だと思いますが、私の知る限りでは百発百中、その通りに操作したとしても、思うようにいかない時もあるように思います(^_^;)
ある成功例はその時代では確かにうまく行ったとしても、違う時代でそれと同じ事を行なっても、何故か報われない時もある。
きっと、その時の時代、周りの環境、その人物の人柄等々全ての条件がうまく融合して、結果、一つの成功例として仕上がったものだと思います。
ですので、ただそれそのものやり方をそっくりそのまま模倣しただけでは成功出来ないものと存じます。
歴史に学び、それを実行しようとする人物はその事を重々踏まえ、慎重な判断で行動していただきたく思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史に学ぶといってもそのままそっくり猿真似をして良いはずがありません。
力を合わせ知恵を絞って難局に立ち向かう政治家が現れて欲しいですね。そのためにも一度は失敗し挫折を経験した実力者に我が国を託した方が良いのかもしれません。
歴史に学ぶことの難しさ。
晴雨堂ミカエル 大半の人は歴史に学ぶことの大切さは解っていると思いますが、問題はどの歴史をどう解釈しどんな形で役立てるか、人それぞれ異なります。
黒田氏の講座でときおり批判の対象にされる護憲派とて、軍部の暴走と敗戦の歴史的事件から学び教訓としているわけで、護憲派から見れば我々は歴史を曲解する頑迷な保守です。
歴史をどう把握するか、現代とどう結び付いているのか、そもそも歴史をどんな形で現代の我々の生活に活かせるのか、結論はなかなかでないでしょう。
ただ言えるのは、子供の頃からの考えですが処方箋は一つではない。歴史に限らずもっと広い世界を知れば、おのずと新たな処方箋が見つかります。
学校でのイジメが発生する原因の1つは、自宅と学校を結ぶ狭い世界しか知らないからであり、護憲派と保守派がやりがちな誤りは、自説に幻想を持ち自説の負要素から目を背け自説を万能薬と錯誤することです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに結論は難しいと思います。
ハッキリと言えるのは「長い目で見て我が国の将来に確実にプラスになること」を構築することでしょう。
重要なのはその場その場でタイミングを見極めることです。
金科玉条のごとく己が説にこだわるような人間は、時として脚光を浴びることがあっても、やがて時代に捨てられることになります。
江戸時代の大名は徳川家の縁戚(えんせき)に当たる親藩(しんぱん)と、関ヶ原以前から徳川家の家臣であった譜代(ふだい)、そして関ヶ原以後に徳川家に臣従(しんじゅう)した外様(とざま)とに大きく分かれており、これらのうち江戸幕府の政治の中心となって活躍した大名の多くは譜代でしたが、彼らの領地はそのほとんどが多くても10万石前後に留(とど)まっていました。
つまり、政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりに財力として広大な領地を与えたのです。室町幕府の失敗の教訓を生かした「大名の権力と財力との分散」によって、家康は大名の統治(とうち)に成功したのでした。
家康はこの他にも幕府安泰(あんたい)のために様々な対策を行ったことで、徳川幕府260年の基礎(きそ)を完全に築(きず)き上げました。失敗だらけだった「室町幕府の教訓」が、後世の人間が「歴史に学ぶ」ことによって見事に活(い)かされる結果となったのです。





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晴雨堂ミカエル 権威の配分も絶妙ですね。
豊臣政権では摂関家のモノだった摂政関白を豊臣家で世襲をはかり、五大老をはじめ有力大名を次々と公卿にしました。
これによって朝廷側はポスト不足になって公家たちは穏やかではなかったはずです。
徳川政権では、あくまで公卿は将軍と将軍後継候補になる可能性がある一門のみ。
利家の代は大納言だった大藩前田家は御三家に準ずる待遇を与えるが、滅多に三位に叙勲させず(しかし外様の前田家だけはたまに三位にするところが憎らしい)、武家政権に意味ある大納言などの中央官から遠ざけました。
家来筋はたとえ大藩の前田家であっても、大老を多く輩出した彦根の井伊家でも公卿にさせない明確な線引き。
徳川家の権威を保持する一方で摂関家や公家の権威には障らず京に押し込める。
将軍家は征夷大将軍と右大将で兵馬を束ね、三公を兼任することで国政権を掌握する法的根拠をつくる。
家康ら幕府の構想は、権力・経済・権威のバランス感覚に優れています。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、家康はバランス感覚に優れていますね。
苦労人にしかできない芸当であるともいえます。
ぴーち おはようございます!
そうですか・・。
家康が非情に振舞ったのは、豊臣家を滅亡させる事だけであり、その後の世の中を平和に安定させた事は庶民にとっては大きな功績であり、有難い存在であった訳ですね。
本当に庶民から恨まれ、憎まれる存在とは
庶民を苦しめ,無理難題を押し付ける様な悪政を行い、自分に抵抗するものは容赦なく切り捨てたり、拷問したりと非人道的な事を繰り返す人物の事ですものね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、結果を見ればありがたい存在だったわけです。
経緯はともかく、結果が良ければ人間は満足するものですからね。
一番厄介なのはむしろその逆で、甘言を弄して国民を苦しめる政治かもしれません…って、あれ?
1600年に関ヶ原(せきがはら)の戦いで豊臣家家臣の石田三成(いしだみつなり)を破った家康は、やがて戦いから10年以上が経過して豊臣家恩顧(おんこ)の大名が次々と死亡すると、豊臣家によって再建された京都の方広寺(ほうこうじ)の梵鐘(ぼんしょう、いわゆる鐘のこと)に刻(きざ)まれた「君臣豊楽(くんしんほうらく)」「国家安康(こっかあんこう)」という文字が「豊臣家の繁栄(はんえい)を願う一方で家康の名を二つに割って呪(のろ)いをかけている」と非難しました。
この事件がきっかけで1614年にいわゆる「大坂の役(えき)」が始まり、翌1615年に大坂城(おおさかじょう)が落城(らくじょう)して豊臣秀頼(とよとみひでより)と母親の淀殿(よどどの)が自害(じがい)しましたが、家康はさらに秀頼の子で8歳になる男子を探し出し、彼を捕らえると首をはねて豊臣家を完全に滅亡させました。
結果だけ見れば言いがかりをつけただけでなく、幼い子であっても処刑(しょけい)するといった容赦ない家康の手法に非難が集中しそうですが、かつて尊氏が南朝に情けをかけたがゆえに吉野に逃げられ、その結果として南北朝の動乱が半世紀以上も続いたという過去の歴史を振(ふ)り返れば、徳川家による安定した政権を維持するためにはむしろ当然の選択だったといえるのです。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
秀頼の8歳の子供を殺したのは、まさしく、室町幕府の教訓を活かしていますね。
というのも、
室町幕府では、出家した将軍の子供を成人後
将軍に担ぎだす勢力が出てきて、
権力闘争が激化しました。
さらに、徳川家康は、吾妻鏡が愛読書なので
これって、源頼朝が、静御前が生んだ源義経の赤子を殺したことからも学んだのかもしれませんね。
理屈では、本当に正しいとは、思いますが
そこまで、出来ないのが、ほとんどの人間です。
それを、遂行するとは、さすがに徳川家康です。
(相当、非情な心がないと出来ないですね。)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり極めて非情ですが、そこまでやらないと天下が長続きしないのが歴史に学んだ家康には分かっていましたからね。
だからこそ家康が嫌われるんですが…。
オバrev なかなか家康のように非情になれないトップが多いのが現状じゃないでしょうか。
かく言う私もそうなんですけど(^^ゞ
でもそれじゃぁ長くは続かないですね。
私のところも1代で終わりそう(・_・;)
ここまで非常になれた要因はいったいなんでしょうか。生まれ育った環境なのか、歴史をよく学んでいたからなのか、支えてくれる重臣が優秀で、家康もそれを受け入れたからなのか、どうでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 私もここまで非情にはとてもなれそうにありません(^^ゞ
原因としては、幼い頃から今川家の人質に取られて自身や松平家の家臣が地獄の思いを味わったことや、その今川家が豊かだったことで子供の頃から歴史書を読むことが出来て自然と知識を身に着けたこと、そして徳川四天王や本多正信など猛将・智将に恵まれたことが挙げられるでしょうね。
つまりはオバrevさんのご推察どおりと言うことです(^^♪
ぴーち おはようございます!
世界に目を転じても国を支配し続けている独裁的な人物はいますが、いづれの独裁者も、非情際なりない性格であることが伺えます。民衆からは当然恐れられ、時には民衆からクーデターが起こり、暗殺される独裁者もいますし、他国から襲われ、処罰される人も・・。
家康もこの様な非情な性格である事を十分ご存知である方は、家康を目の敵に思う事でしょうけれど、彼はそこまで民衆から批難されたり、暗殺を企てられたりという事実を伺った事がありません。勿論、私がそれを知らないだけの事なのかも知れませんが、例えばそれが事実であるとしたら、家康にはその他の多大な功績がその非情さを打ち消しているということなのでしょうか・・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 家康が評価されるのは、結果として徳川260年の平和がもたらされたことでしょう。何しろそれまでは「何でもあり」の戦国時代が100年以上も続いていたのですから。
他に考えられるとすれば家康を神様(=権現)と仰がせたり、主君に絶対の忠誠を誓う朱子学を導入したりしたことも挙げられますが、やはり平和の実現が大きいと思います。
ではなぜ平和を実現できたのでしょうか?
その辺についてはもう少し掘り下げる必要がありそうです。
しかも、権力を失った幕府に曲がりなりにも「権威」が残っていたため、将軍は時の権力者の「傀儡」として利用されるだけ利用され、逆(さか)らったり不要となったりすればたちまち「使い捨て」として処分されるという悲哀(ひあい)を味わうようになってしまったのです。
初期の対応を誤(あやま)れば、それこそ何百年も失敗を重ねることになる―。室町幕府の存在は後世(こうせい)の人間にとてつもなく大きな「教訓」を示してくれたことになりますが、歴史の大きな流れは、その教訓を徹底(てってい)して活用することで逆に260年以上もの長い間政権を担当(たんとう)し続けた「ある組織(そしき)」をこの世に送り出しました。
その組織とはもちろん、徳川家康(とくがわいえやす)が創設した江戸幕府(えどばくふ)のことです。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ここで、思う事は、
江戸幕府が当たり前の標準として、
(時代劇を見慣れていて。。)
つい考えてしまいますが、
江戸幕府が、世界史レベルでも、驚異で、特別だったと思います。
というのも、世界の国で、260年間、国内で戦争らしい戦争が、起こらない政治組織というのは
ほとんど奇跡です。
しかも、江戸幕府の15代将軍で、暗殺された将軍は、一人もいません。
実際、江戸時代の260年間の間にヨーロッパでは、革命が起こり、アメリカも独立戦争を起こしています。
そう考えると、鎌倉幕府のように源氏の直系が三代で終わり(暗殺)、宮将軍を迎えたり、
室町幕府のように将軍が暗殺されて、内乱が起こるのが世界常識のような気がします。
余談ですが、やはり、こういう芸当は、徳川家康でしか出来ないことだったんでしょうね。
(私の大嫌いな血も涙もなく、人の心もない徳川家康でしか。。。)(●^o^●)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
家康の平和のための非道(?)ぶりについては、次回(24日)以後の更新で明らかにしていきます。
ぴーち おはようございます!
バブル期の好景気の最中に倒産した近くのある会社が
ありましたが、その理由が社長の社員に対する気前の良さ故に社員に食い倒されてしまったと聞いた話を思い出しました。確かにその時期、少し働いただけでお金がどんどんと懐に入って来た今では夢の様な時代でもありましたが、その勢いに任せて全て使い果たしてしまった様です。
組織を束ねる役目のものは、確かに度量の広さや、優しさはある程度必要かも知れませんが、気前の良さだけは必要最低限に留めておくべきことだと改めて思いますね。(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、バブル期の倒産には仰るような一面があったんですね。
気前の良さは他人には魅力的ですが、何の計算もなくやってしまうようでは先が見えていますね。
本来ならばその類稀(たぐいまれ)なる武力で周囲を畏怖(いふ)させ君臨(くんりん)する幕府と将軍であるはずなのに、なぜこのような無惨(むざん)な結果に終わってしまったのでしょうか。その理由として真っ先に考えられるのは、やはり創設者の足利尊氏による「優柔不断」であると断言(だんげん)できます。
尊氏が幕府を開いたのは京都でしたが、本来ならば武家の本拠地である鎌倉で政治を行うことを本人も希望していたはずです。しかし、彼の優柔不断が結果として南朝を存続させてしまったため、万が一に備えて軍事力を確保するため京都を離(はな)れることができなくなりました。
南朝の存在はその後も室町幕府を悩(なや)ませるとともに、その対策として3代将軍の足利義満や6代将軍の足利義教が強引な政治を行ったため、二人とも無念の死を遂げることになってしまったのです。





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オバrev 確かに名ばかりの将軍が続いた足利将軍ですが、それでも弱いながらも15代続いたのが不思議でなりません。
本来なら遠の昔に滅ぼされて新たな将軍が誕生していても良かったんじゃないでしょうか。
それができななったのは、地方を抑えこむシステムができていたためか、国民の不満がそこまで高まらなかったのか、海外からの侵略がなかったためか、どうなんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、不思議な話ですよね。
海外からの侵略が明らかになったのは秀吉の時代ですから、その点では確かに恵まれていたといえます。
それ以外の理由としては、次回(23日)で明らかにしたいと思います。
河童工房('◇')」 義満の勘合貿易(当時のシナへの朝貢貿易)
はこう言う背景があって行われていたんだなと。
このことでシナ皇帝から日王と認められた云々という話も合わせて。
すっきり!しました。
ぴーち おはようございます!
何でもそうですね。
基礎の部分が軟弱だと上に積み重ねた
ものは、直ぐに傾き始めてしまいますね(^_^;)
土台がしっかりしていてこそ、上に積み上げた
ものも安定する。
何でも最初が肝心なのでしょうね。
応援凸
河童工房さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義満は室町幕府の地位を高めるために外国を利用したとも言えます。
それがやがて自分自身の権力を高めるためにもなったのですが、こうした手法は外国に付け入るすきを与えますから好ましくはないですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、最初が肝心です。
だからこそ後述の「活かしきった男」につながるんですよね。
いくら戦国の世とはいえ主君に対する謀反というのはダメージが大きく、後の天下取りにも影響(えいきょう)を及(およ)ぼすのは避(さ)けられません。だからこそ信長は義昭の誘いを断り、その代わりに最大の貿易港の一つであった堺を抑えるために和泉の支配を義昭に認めさせたのでした。
さて、義昭が将軍になったばかりの頃の二人の関係は良好でしたが、信長は次第に義昭を圧迫(あっぱく)するようになっていきました。やがて信長の本意を悟(さと)った義昭は激怒し、信長を倒すべく様々な作戦を練(ね)り始めました。
後の世に「信長包囲網(のぶながほういもう)」と名付けられた義昭の行動によって一時は信長を追いつめたものの、頼りにしていた武田信玄(たけだしんげん)の急死もあって結局は失敗に終わりました。ところが、信玄の死を知らなかった義昭は、もはや起こり得ない信玄の上洛を信じて居住(きょじゅう)していた将軍御所(しょうぐんごしょ)で挙兵しましたが、信長に攻められて降伏せざるを得ませんでした。
諦(あきら)め切れない義昭はこの後もう一度挙兵しますが敗れ、1573年旧暦7月に義昭が信長によって京都を追われたことで、235年続いた足利氏による室町幕府は事実上滅亡(めつぼう)しました。時代は信長による新しい秩序(ちつじょ)に向けて着実に進んでおり、足利将軍はもはや必要とされなくなっていたのです。





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晴雨堂ミカエル 後に信長は右大将や右大臣に任ぜられますが、それ以降は左大臣任官を断り、太政大臣や征夷大将軍の内定も断ったそうで、おまけに京で騎馬軍団の軍事パレード。
正親町帝や公家たちは肝を冷やした事でしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 今回は室町幕府の話で信長は直接関係ありませんので簡潔に記しますが、仰る一面は確かにありますね。
皇室をないがしろにする様に見えたことが後に様々な憶測を呼ぶことになりました。
ぴーち おはようございます!
なるほど!
信玄の死を義昭は知らなかった事で、情勢は一気に傾いてしまった訳ですか。。。
今とは違い情報の伝達も遅く、またその信ぴょう性も薄い時代の話でしょうからね。
情報をいち早く、正確に捉えて判断することは今も昔も情勢に打ち勝つ最たる手段なのでしょうね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、情報収集の能力は今も昔も必須ですね。
それを含め、かなりの能力を備えていた信長による新しい秩序を中心に世の中が動き始めたのも時代の流れとして当然だったのかもしれません。
その間に義輝の弟の足利義昭(あしかがよしあき)が織田信長(おだのぶなが)によって上洛を果たすと、久秀が信長に降伏(こうふく)して同1568年10月に義昭が新たに15代将軍となりました。なお、将軍を追われた義栄は失意のうちに間(ま)もなく亡くなっています。
義昭は自分を将軍にしてくれた信長に深く感謝し、管領もしくは副将軍(ふくしょうぐん)になるよう勧(すす)めましたが、信長はいずれも辞退して、代わりに堺(さかい)を含む和泉(いずみ、現在の大阪府南西部)の支配を認めさせました。
地位や名誉(めいよ)を欲しがらない信長の意外な行動を周囲は不思議に感じましたが、いわゆる「名よりも実を取った」信長の行為の裏(うら)には彼によるしたたかな計算があったのです。





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ぴーち おはようございます!
いよいよここで信長の話が登場ですね!
どんなしたたかな野望がこの当時の信長には
あったのでしょうか・・興味があります。
続きを楽しみにしています♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、室町幕府の末期でついいに信長が登場しました。
彼と幕府との関わりが結果として室町将軍の幕引きになるわけですが、そのあたりは次回(21日)の更新をぜひご確認ください。
足利義昭の能力
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この織田信長に目を付けた足利義昭は、凄いと思います。
というのも、
それまで、将軍の権威を利用しようと後ろ盾になったのは、
名門の大名だったのに、この当時の織田信長は、
京都から、離れた身分も低い
美濃、尾張を統治する単なる田舎大名です。
しかも、織田信長が凄いのは、京都に入っても
一切の略奪行為を禁止して、京都の治安維持に努めたことです。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義昭は決して凡人ではありません。
信長包囲網は信玄さえ死ななければ完成していた可能性もありますから。
しかしながら、義昭は稀代の天才である信長と同時代であったというのが不運すぎましたね。
それが時の流れの選択でもあったのでしょうけれども。
信長包囲網
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
信長包囲網について、第一次信長包囲網、
第二次信長包囲網を創りましたが、
ドラマでは、信長が困難を勇断に乗り切り、
足利義昭は、最後まで、愚かな無能将軍のように
描かれますが、
信長包囲網の時、織田信長は、非常に気が弱くなっていました。
その当時の手紙でも
『気が弱い内容ばかりです。』
織田信長の能力は、認めますが、運も良かったですね。
これは、歴史のifですが、もし、織田信長がいなければ、足利義昭の力で、室町幕府は、延命したかもしれませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 今回は信長ではなく室町幕府の講座ですので筋違いの話になりますが、仰るとおりかと思います。
そんな経緯(けいい)で将軍になった義晴ですが、約25年もの間地位を維持し続けたものの、最後には細川氏の内紛をきっかけに将軍職を子の足利義輝(あしかがよしてる)に譲りました。
その後、細川氏が内紛を繰り返す間に実力をつけた家臣の三好長慶(みよしながよし)によって13代将軍の義輝は傀儡(かいらい、自分の意志や主義を表さず他人の言いなりに動いて利用されている者のこと)となりましたが、義輝は諸大名の抗争(こうそう)の調停を行うなど徐々(じょじょ)に政治的手腕を発揮(はっき)し、幕府権力の復活に努めました。
しかし、こうした義輝の動きを疎(うと)ましく思った三好氏の家臣の松永久秀(まつながひさひで)らが1565年に謀反(むほん)を起こすと、義輝は奮戦(ふんせん)むなしく無念の最期(さいご)を遂(と)げました。これを当時の年号から永禄の変(えいろくのへん)といいます。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
いよいよ、松永久秀が登場ですね。
◆ 将軍殺しの悪役であり、
(足利義輝は、かなり、優秀で、上杉謙信も
後に将軍足利義輝より偏諱を受けて、最終的には上杉輝虎になりました。)
◆ 戦国時代きっての謀略家であり、
◆ 茶人として、文化人であり
◆ 領民からは、慕われた名君であり、
以前、ある本に
『織田信長の天才性』を見抜いた人間が
2人だけいたそうです。
その2人とは
『徳川家康』と『松永久秀』です。
秀才は、天才になれないですが、天才を見抜くことは、できるから不思議です。
松永久秀だけで、本が一冊書けそうですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにそうですね。
「三好家乗っ取り」「東大寺焼却」「将軍暗殺」の三悪事は久秀を象徴する出来事と言われています。
これ以上は関連外になるので止めますが、戦国時代屈指の梟雄であることは間違いありません。
名将軍だった足利義輝
青田です。 足利義輝は、本当に優秀ですね、生まれる時期さえ間違わなければ
名将軍になれたと思います。
義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、
諸国の戦国大名との修好に尽力しています。
◆ 伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、
◆ 武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、
◆ 島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(同3年(1560年))、
◆ 毛利元就と大友宗麟(同6年(1563年))、
◆ 上杉輝虎と北条氏政と武田晴信(同7年(1564年))など、
さらに懐柔策として
◆ 大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、
◆ 三好長慶・義興父子と松永久秀には桐紋使用を許し
◆ さらに自らの名の「輝」の字を偏諱として、
毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名を与えています。
ここまでのことをしていて、足利義輝が暗殺されるということは
権威だけは、もの凄い力は、あるのに
現実の力は、皆無だったということですね。
個人的に足利義輝は、よく、頑張ったと思います。
本当に残念です。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、現実の実力と将軍の形ばかりの権威とが余りにもかけ離れていたことが義輝の悲劇につながったと思います。
ぴーち おはようございます!
義輝は幼い頃からずっと内紛の様子を目の当たりにしてきて、その中で色々と政治的な手腕の元になるようなヒントを学んで行ったのでしょうかね・・。
他人の言いなりになり行動していながらも、自分の考えというをしっかりと心に秘め、機が熟すのを待ち望んでいたのかも知れませんね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義輝は学習能力を持つなどかなり優秀だった一面があります。
ただ、残念なことに機が熟す前に滅ぼされてしまいました…。
剣豪将軍。
晴雨堂ミカエル 義輝は剣豪としても名高い人ですね。
最期はコレクションの銘刀を並べて奮戦、折れたら次の太刀といった具合。
松永勢はなかなかしとめられず、数人がかりで襖で押さえつけて殺ったらしいですな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 その話は私も聞いたことがあります。
「衆寡敵せず」とは彼のためにある言葉ですね。
1507年、政元は不意を突かれて暗殺されました。これを当時の年号から永正の錯乱(えいしょうのさくらん)といいます。政元が殺されたことで細川氏の間で激しい対立が繰り返され、やがて細川氏そのものが没落(ぼつらく)していくことになりますが、没落した人物はもう一人いました。それは将軍の義澄です。
義澄は政元と対立しつつも主従関係(しゅじゅうかんけい)を維持(いじ)し続けていたのですが、政元暗殺後に守護大名の大内義興(おおうちよしおき)が新たな将軍後継者を擁立(ようりつ)して上洛(じょうらく)すると近江(おうみ、現在の滋賀県)に逃れ、翌1508年には将軍職を辞めさせられました。
大内の推挙(すいきょ)で将軍に就任したのは足利義尹(あしかがよしただ)でしたが、実は彼こそが1493年に将軍を廃位(はいい)された義材その人だったのです。歴史上稀(まれ)に見る「将軍返り咲(ざ)き」を果たした義尹はその後1513年に「義稙(よしたね)」と改名しましたが、1518年に大内が領地に帰国して後ろ盾(だて)を失うと、政元の養子であった細川高国(ほそかわたかくに)によって1521年に将軍の地位を再び追われ、その後寂(さび)しく生涯を閉じました。





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晴雨堂ミカエル 大河ドラマでは、細川勝元の時代は「花の乱」、政元の時代は「毛利元就」の前半にあたります。
足利将軍代々の写実的な彫刻が残されていますが、この頃の将軍は顔つきが貧相ですね。
政元ほどの超大物が独身というのは解せませんね。嫌でも子作りさせられるのに。
当時の武家や公家は男色が普通にありましたから。松永弾正や信長は有名ですし、今年の大河で有名になった悪左府や時代は下って浅野内匠頭などなど。
大内家。
晴雨堂ミカエル 大内義興は三位の左京大夫、幕府の役職は管領代。
天下に号令できるポジションにいながら10年程度で領国が不安になって京を手放しています。
信長のシステムが確立していない時代では京の家賃は高かったんでしょうな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 政元は女人禁制の修験道に没頭していたために生涯独身でした。男色の噂もありますね。
大内の頃は信長のような領国経営のシステムがなかったですからね。過度期には様々な問題が起きるものです。
ぴーち おはようございます!
将軍職に返り咲くというのは、非常に稀なケースだったのですね。それでもやはり力量の無い人物は、何度チャンスを貰っても結局力不足で終わってしまうものなのですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、せっかく将軍に返り咲いたとしても自己の力量がなければ結局は一緒なんですよね。
権力へのこだわりの姿も最後には滑稽に見えてしまうところが哀れでもあります。