新派劇では、川上音二郎(かわかみおとじろう)によるオッペケペ―節(ぶし)が大流行したほか、新聞小説や流行小説から題材をとるようになり、ますます発展しました。
日露戦争後には、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)らが文芸協会(ぶんげいきょうかい)を設立したり、あるいは小山内薫(おさないかおる)と二代目市川左団次らが自由劇場(じゆうげきじょう)を発足(ほっそく)させたりして、新劇(しんげき)と呼ばれた西洋の近代劇を上演しました。
なお、文芸協会の解散後には、島村抱月(しまむらほうげつ)や松井須磨子(まついすまこ)らが芸術座(げいじゅつざ)を結成しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
以前大河ドラマだったかどうかは、忘れてしまいましたが(^^ゞ
川上音二郎の役柄を中村雅俊さんが演じていたのを覚えています。私の中では中村雅俊さんのイメージは、その知性が邪魔をして、崩れ切れない感じでいわゆる八方破りなタイプではないと思っていたのですが、
おっぺけぺ~節を演じていた中村さんが、そのイメージを一掃するかのように、飄々として和やかな雰囲気だったのが印象的でした。
本来の川上音二郎も、中村さんのような誠実味溢れる人物だったのでしょうかね^^
応援凸
なおまゆ おはようございます。
いつも有難うございます。
回復しましたので、またお邪魔致します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も見た記憶がありますね。
オッペケペー節を初めて聞いたときは衝撃でした(笑)。
川上音二郎氏はどのような人だったのでしょうね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 ご復帰おめでとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
通常のブログ更新と並行して行っております「本物の歴史講座」ですが、次回(第32回)は講座の原点に戻って「聖徳太子 ~我が国の歴史を形づくった英雄」と題して行います。
国内においては蘇我氏の台頭、国外においては超大国であった隋の野望など我が国建国以来最大の危機を迎えていた6世紀後半から7世紀前半において、内政・外交ともに大活躍した聖徳太子は私が最も尊敬する我が国の英雄の一人であり、ブログを始めた当初も通史において1ヵ月近くも特集を組んだほか、茨木市の「学ぼう会・北摂」をはじめとする各講座に招かれた際には真っ先に紹介してまいりました。
しかし、これまでに31回を数える「本物の歴史講座」ではまだ紹介したことがありませんでしたので、ブログ開設以来3周年半を迎える今回を良い機会として、これまでの講演経験を活かした「決定版」を皆様の前で行いますので、是非とも多数の皆様のご参加をお願いたします。
なお、今回の講座は当初の思惑を超えて、我が国の今後を考える意味でも大変重要なものとなりそうです。
第32回「黒田裕樹の歴史講座」
「聖徳太子 ~我が国の歴史を形づくった英雄」
日時:平成24年9月29日(土) 午後6時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第3研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料(カンパを受け付けます)
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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
聖徳太子について
一言だけ言いたいことがあります。
『今の時代に、いて欲しかった!!』
青田さんへ
黒田裕樹 わたしもそう思いますね。
そのあたりを含めての講演になりますので、ご期待ください。
昨日は、お疲れさまでした。
- 黒田先生
こんにちは
青田です。
昨日は、私は、参加できませんでしたが、
お疲れ様でした。
次回は、必ず、参加しますね。
余談ですが、
安倍さんは、平成の聖徳太子に観えています。(●^o^●)
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに一理ありますね。
次回のご参加を楽しみにしております。
また、明治の中期頃までには九代目市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)や五代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初代市川左団次(いちかわさだんじ)らの名優が出て、歌舞伎は「団菊左時代(だんきくさじだい)」と呼ばれる全盛期を迎えました。
こういった背景には、文明開化や欧化主義(おうかしゅぎ)といった、極端(きょくたん)な西洋化に反発するかたちでの伝統保存への気運や、演劇改良運動による歌舞伎の社会的地位の向上がありました。なお、明治22(1889)年には歌舞伎座(かぶきざ)が建てられています。
その後、歌舞伎は西洋演劇の手法が取り入れられ、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)による史劇「桐一葉(きりひとは)」などがつくられました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
確かに、西洋文化が幅を利かせて
日本古来の文化が廃れようとするのを見す見す
放って置くわけにはいきませんものね。
どうしても、人間目新しいものに心を奪われてしまうという傾向が強いものですし、欧米の文化は、日本のみならず、世界中の憧れの的でしょうから尚更だったでしょうね。入ってきたものが
強力な存在であればあるほど、それに対しての反発心は大きくなるものですが、その並々ならぬ反発心で当時の演劇に携わった関係者が抵抗し、更に盛り立ててくれたからこそ、現在も尚歌舞伎を楽しめることが出来る訳ですね^^今日のお話を伺って、当時の方々の努力に敬意を払らわなれば・・と言う気持ちになりました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
文明開化の名のもとに我が国の伝統文化が一気にすたれようとする中で、懸命にその火をともし続けた先人の努力を称えたいと思いますし、私たちも同じように努力しなければいけませんね。
その後、明治29(1896)年に東京美術学校に洋画科が新設されたほか、同じ明治29年には、フランス印象派(いんしょうは)の画風を学んだ「読書(どくしょ)」や「湖畔(こはん)」で有名な黒田清輝(くろだせいき)が白馬会(はくばかい)を創立しました。
彫刻(ちょうこく)では、フランスのロダンに学んだ荻原守衛(おぎわらもりえ)が「女(おんな)」などの西洋風の彫塑(ちょうそ)を発達させた一方で、高村光雲(たかむらこううん)は「老猿(ろうえん)」などの伝統的な木彫(もくちょう)による作品を残しました。また、建築では優れた洋風建築が建てられましたが、なかでもイギリス人コンドルの「ニコライ堂」や、辰野金吾(たつのきんご)による「日本銀行本店(にほんぎんこうほんてん)」は有名です。
以上のように、明治期には伝統美術と西洋美術とがそれぞれ発展しましたが、両者の共栄共存(きょうえいきょうぞん)を考えた文部省(もんぶしょう)は、第一次西園寺内閣(だいいちじさいおんじないかく)の文部大臣であった牧野伸顕(まきののぶあき)の尽力(じんりょく)もあって、明治40(1907)年に文部省美術展覧会(もんぶしょうびじゅつてんらんかい、通称を文展=ぶんてん)を設けました。
なお、文展はその後大正8(1919)年には帝国美術院展覧会(ていこくびじゅついんてんらんかい、通称を帝展=ていてん)へと引き継(つ)がれ、現在の日本美術展覧会(にほんびじゅつてんらんかい、通称を日展=にってん)につながっています。
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ぴーち おはようございます!
美術の話を受けて・・
昨日ニュースで、ダビンチが描いた
「モナリザ」に新たにもう一枚、モナリザの若かりし頃であろう絵画が発見された様ですが、果たしてそれがダビンチが描いた作品なのかと物議を醸している様ですね^^
その前にも、モナリザと同じ構図で、同じように彼女を描いた作品が世に発表されましたが、その作品はダビンチの弟子の作品である可能性が高いと結論付けられただけに、真相が気になります。。
今日のお話の趣旨から外れたコメントで
失礼いたしましたペコロ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに興味ありますね。
ダビンチがあまりにも有名だけに模倣も多いですし、事の真贋をはっきりさせるのはいつの世も難しいようです。
殖産興業(しょくさんこうぎょう)の観点から西洋美術教育の必要性を考えた政府は、明治9(1876)年に工部美術学校(こうぶびじゅつがっこう)を開設しましたが、その後に起きた美術界における伝統回帰の風潮もあって、明治16(1883)年に廃止されました。
一方、哲学(てつがく)のアメリカ人教師として来日した、「お雇(やと)い外国人」のフェノロサは、我が国の伝統芸術を高く評価してその保存を訴(うった)え、助手の岡倉天心(おかくらてんしん)とともに、明治20(1887)年に開設された東京美術学校(とうきょうびじゅつがっこう)の設立に尽力(じんりょく)しました。
このように、政府と民間とが一体となって伝統芸術を支えたことにより、狩野芳崖(かのうほうがい)の「悲母観音(ひぼかんのん)」や橋本雅邦(はしもとがほう)の「竜虎図(りゅうこず)」などの優れた日本画(にほんが)が描(えが)かれたほか、明治31(1898)年には日本美術院(にほんびじゅついん)が設立されました。
このように、日本美術の再評価の気運が高まったことで、政府は明治30(1897)年に古社寺保存法(こしゃじほぞんほう)を制定し、いわゆる国宝(こくほう)の指定や保護に関する法的な根拠(こんきょ)が定められました。
なお、東京美術学校は現在の東京芸術大学(とうきょうげいじゅつだいがく)の前身にあたります。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
先日、朝のテレビ番組を観ていましたら、
ブルーの色地に中心部分だけペチャッと白いインクをこぼした様な柄のハンカチが紹介されていて、道行く人にこれはどのようにして楽しむものかと訪ねていましたが、どなたも首をかしげていてわかりません。スタッフがこうやってみると分かりますと言って、真ん中の白い部分を指でつまみ上げ、円錐状に釣り上げてみると・・それはまさしく「富士山」の形に変化しました^^
その答えを再び道行く人に見せた所、日本人の方は一様に「なるほど~」とか「へぇ~」とかと、そのアイディアに感嘆していましたが、ある外国人の観光客の様な方は、その「富士山」を見て「あれ?宝永山が無いよ?」と言いました。
日本人でもなかなか出てこない富士山の隣についている山を外国人の方はよくご存知だなと感心させらましたが、案外、世の中そんなもので、
外国の方のほうがより日本文化や日本の事をよく勉強されていたり、その良さを理解なさっている方が多いものですね。外国人から逆に日本の良さを学ぶことも多く、また、その地へ出向くときに熱心に下調べをしてから出かける旅行者も、地元で暮らす方よりもより詳しくその土地の事を知っていたりするものですよね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、仰るとおりですね。
外国人に我が国の文化が救われるということは案外多いようです。
現在、打ち続く天災(てんさい)あるいは人災(じんさい)によって我が国は「失われた20年」ともいわれる混迷(こんめい)を深めていますが、こうした現状を打破するためには何が求められているのでしょうか。
「愚者(ぐしゃ)は経験に学び、賢者(けんじゃ)は歴史に学ぶ」とよく言われますが、過去の歴史を見つめ直して失敗も成功も両方理解することによって、二度と同じ失敗を繰り返さないことや、あるいは過去の成功例に自分がなぞらえることはいくらでも可能なはずです。
室町幕府はある意味自己を犠牲(ぎせい)にしてまで私たちに貴重な「教訓」を残しましたが、かつての江戸幕府がそうであったように、私たちは今こそ歴史に学んで、我が国の輝(かがや)かしい未来を自分たちの手でつかみ取れるように努力すべきではないでしょうか。
(※第31回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[9月27日]からは通常の更新[=明治時代]に戻ります)





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ぴーち おはようございます!
確かに歴史に学び、現代が抱える問題に当てはめて解決の糸口を模索していく事は大変有意義な判断だと思いますが、私の知る限りでは百発百中、その通りに操作したとしても、思うようにいかない時もあるように思います(^_^;)
ある成功例はその時代では確かにうまく行ったとしても、違う時代でそれと同じ事を行なっても、何故か報われない時もある。
きっと、その時の時代、周りの環境、その人物の人柄等々全ての条件がうまく融合して、結果、一つの成功例として仕上がったものだと思います。
ですので、ただそれそのものやり方をそっくりそのまま模倣しただけでは成功出来ないものと存じます。
歴史に学び、それを実行しようとする人物はその事を重々踏まえ、慎重な判断で行動していただきたく思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史に学ぶといってもそのままそっくり猿真似をして良いはずがありません。
力を合わせ知恵を絞って難局に立ち向かう政治家が現れて欲しいですね。そのためにも一度は失敗し挫折を経験した実力者に我が国を託した方が良いのかもしれません。
歴史に学ぶことの難しさ。
晴雨堂ミカエル 大半の人は歴史に学ぶことの大切さは解っていると思いますが、問題はどの歴史をどう解釈しどんな形で役立てるか、人それぞれ異なります。
黒田氏の講座でときおり批判の対象にされる護憲派とて、軍部の暴走と敗戦の歴史的事件から学び教訓としているわけで、護憲派から見れば我々は歴史を曲解する頑迷な保守です。
歴史をどう把握するか、現代とどう結び付いているのか、そもそも歴史をどんな形で現代の我々の生活に活かせるのか、結論はなかなかでないでしょう。
ただ言えるのは、子供の頃からの考えですが処方箋は一つではない。歴史に限らずもっと広い世界を知れば、おのずと新たな処方箋が見つかります。
学校でのイジメが発生する原因の1つは、自宅と学校を結ぶ狭い世界しか知らないからであり、護憲派と保守派がやりがちな誤りは、自説に幻想を持ち自説の負要素から目を背け自説を万能薬と錯誤することです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに結論は難しいと思います。
ハッキリと言えるのは「長い目で見て我が国の将来に確実にプラスになること」を構築することでしょう。
重要なのはその場その場でタイミングを見極めることです。
金科玉条のごとく己が説にこだわるような人間は、時として脚光を浴びることがあっても、やがて時代に捨てられることになります。
江戸時代の大名は徳川家の縁戚(えんせき)に当たる親藩(しんぱん)と、関ヶ原以前から徳川家の家臣であった譜代(ふだい)、そして関ヶ原以後に徳川家に臣従(しんじゅう)した外様(とざま)とに大きく分かれており、これらのうち江戸幕府の政治の中心となって活躍した大名の多くは譜代でしたが、彼らの領地はそのほとんどが多くても10万石前後に留(とど)まっていました。
つまり、政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりに財力として広大な領地を与えたのです。室町幕府の失敗の教訓を生かした「大名の権力と財力との分散」によって、家康は大名の統治(とうち)に成功したのでした。
家康はこの他にも幕府安泰(あんたい)のために様々な対策を行ったことで、徳川幕府260年の基礎(きそ)を完全に築(きず)き上げました。失敗だらけだった「室町幕府の教訓」が、後世の人間が「歴史に学ぶ」ことによって見事に活(い)かされる結果となったのです。





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晴雨堂ミカエル 権威の配分も絶妙ですね。
豊臣政権では摂関家のモノだった摂政関白を豊臣家で世襲をはかり、五大老をはじめ有力大名を次々と公卿にしました。
これによって朝廷側はポスト不足になって公家たちは穏やかではなかったはずです。
徳川政権では、あくまで公卿は将軍と将軍後継候補になる可能性がある一門のみ。
利家の代は大納言だった大藩前田家は御三家に準ずる待遇を与えるが、滅多に三位に叙勲させず(しかし外様の前田家だけはたまに三位にするところが憎らしい)、武家政権に意味ある大納言などの中央官から遠ざけました。
家来筋はたとえ大藩の前田家であっても、大老を多く輩出した彦根の井伊家でも公卿にさせない明確な線引き。
徳川家の権威を保持する一方で摂関家や公家の権威には障らず京に押し込める。
将軍家は征夷大将軍と右大将で兵馬を束ね、三公を兼任することで国政権を掌握する法的根拠をつくる。
家康ら幕府の構想は、権力・経済・権威のバランス感覚に優れています。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、家康はバランス感覚に優れていますね。
苦労人にしかできない芸当であるともいえます。
ぴーち おはようございます!
そうですか・・。
家康が非情に振舞ったのは、豊臣家を滅亡させる事だけであり、その後の世の中を平和に安定させた事は庶民にとっては大きな功績であり、有難い存在であった訳ですね。
本当に庶民から恨まれ、憎まれる存在とは
庶民を苦しめ,無理難題を押し付ける様な悪政を行い、自分に抵抗するものは容赦なく切り捨てたり、拷問したりと非人道的な事を繰り返す人物の事ですものね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、結果を見ればありがたい存在だったわけです。
経緯はともかく、結果が良ければ人間は満足するものですからね。
一番厄介なのはむしろその逆で、甘言を弄して国民を苦しめる政治かもしれません…って、あれ?
1600年に関ヶ原(せきがはら)の戦いで豊臣家家臣の石田三成(いしだみつなり)を破った家康は、やがて戦いから10年以上が経過して豊臣家恩顧(おんこ)の大名が次々と死亡すると、豊臣家によって再建された京都の方広寺(ほうこうじ)の梵鐘(ぼんしょう、いわゆる鐘のこと)に刻(きざ)まれた「君臣豊楽(くんしんほうらく)」「国家安康(こっかあんこう)」という文字が「豊臣家の繁栄(はんえい)を願う一方で家康の名を二つに割って呪(のろ)いをかけている」と非難しました。
この事件がきっかけで1614年にいわゆる「大坂の役(えき)」が始まり、翌1615年に大坂城(おおさかじょう)が落城(らくじょう)して豊臣秀頼(とよとみひでより)と母親の淀殿(よどどの)が自害(じがい)しましたが、家康はさらに秀頼の子で8歳になる男子を探し出し、彼を捕らえると首をはねて豊臣家を完全に滅亡させました。
結果だけ見れば言いがかりをつけただけでなく、幼い子であっても処刑(しょけい)するといった容赦ない家康の手法に非難が集中しそうですが、かつて尊氏が南朝に情けをかけたがゆえに吉野に逃げられ、その結果として南北朝の動乱が半世紀以上も続いたという過去の歴史を振(ふ)り返れば、徳川家による安定した政権を維持するためにはむしろ当然の選択だったといえるのです。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
秀頼の8歳の子供を殺したのは、まさしく、室町幕府の教訓を活かしていますね。
というのも、
室町幕府では、出家した将軍の子供を成人後
将軍に担ぎだす勢力が出てきて、
権力闘争が激化しました。
さらに、徳川家康は、吾妻鏡が愛読書なので
これって、源頼朝が、静御前が生んだ源義経の赤子を殺したことからも学んだのかもしれませんね。
理屈では、本当に正しいとは、思いますが
そこまで、出来ないのが、ほとんどの人間です。
それを、遂行するとは、さすがに徳川家康です。
(相当、非情な心がないと出来ないですね。)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり極めて非情ですが、そこまでやらないと天下が長続きしないのが歴史に学んだ家康には分かっていましたからね。
だからこそ家康が嫌われるんですが…。
オバrev なかなか家康のように非情になれないトップが多いのが現状じゃないでしょうか。
かく言う私もそうなんですけど(^^ゞ
でもそれじゃぁ長くは続かないですね。
私のところも1代で終わりそう(・_・;)
ここまで非常になれた要因はいったいなんでしょうか。生まれ育った環境なのか、歴史をよく学んでいたからなのか、支えてくれる重臣が優秀で、家康もそれを受け入れたからなのか、どうでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 私もここまで非情にはとてもなれそうにありません(^^ゞ
原因としては、幼い頃から今川家の人質に取られて自身や松平家の家臣が地獄の思いを味わったことや、その今川家が豊かだったことで子供の頃から歴史書を読むことが出来て自然と知識を身に着けたこと、そして徳川四天王や本多正信など猛将・智将に恵まれたことが挙げられるでしょうね。
つまりはオバrevさんのご推察どおりと言うことです(^^♪
ぴーち おはようございます!
世界に目を転じても国を支配し続けている独裁的な人物はいますが、いづれの独裁者も、非情際なりない性格であることが伺えます。民衆からは当然恐れられ、時には民衆からクーデターが起こり、暗殺される独裁者もいますし、他国から襲われ、処罰される人も・・。
家康もこの様な非情な性格である事を十分ご存知である方は、家康を目の敵に思う事でしょうけれど、彼はそこまで民衆から批難されたり、暗殺を企てられたりという事実を伺った事がありません。勿論、私がそれを知らないだけの事なのかも知れませんが、例えばそれが事実であるとしたら、家康にはその他の多大な功績がその非情さを打ち消しているということなのでしょうか・・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 家康が評価されるのは、結果として徳川260年の平和がもたらされたことでしょう。何しろそれまでは「何でもあり」の戦国時代が100年以上も続いていたのですから。
他に考えられるとすれば家康を神様(=権現)と仰がせたり、主君に絶対の忠誠を誓う朱子学を導入したりしたことも挙げられますが、やはり平和の実現が大きいと思います。
ではなぜ平和を実現できたのでしょうか?
その辺についてはもう少し掘り下げる必要がありそうです。
しかも、権力を失った幕府に曲がりなりにも「権威」が残っていたため、将軍は時の権力者の「傀儡」として利用されるだけ利用され、逆(さか)らったり不要となったりすればたちまち「使い捨て」として処分されるという悲哀(ひあい)を味わうようになってしまったのです。
初期の対応を誤(あやま)れば、それこそ何百年も失敗を重ねることになる―。室町幕府の存在は後世(こうせい)の人間にとてつもなく大きな「教訓」を示してくれたことになりますが、歴史の大きな流れは、その教訓を徹底(てってい)して活用することで逆に260年以上もの長い間政権を担当(たんとう)し続けた「ある組織(そしき)」をこの世に送り出しました。
その組織とはもちろん、徳川家康(とくがわいえやす)が創設した江戸幕府(えどばくふ)のことです。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ここで、思う事は、
江戸幕府が当たり前の標準として、
(時代劇を見慣れていて。。)
つい考えてしまいますが、
江戸幕府が、世界史レベルでも、驚異で、特別だったと思います。
というのも、世界の国で、260年間、国内で戦争らしい戦争が、起こらない政治組織というのは
ほとんど奇跡です。
しかも、江戸幕府の15代将軍で、暗殺された将軍は、一人もいません。
実際、江戸時代の260年間の間にヨーロッパでは、革命が起こり、アメリカも独立戦争を起こしています。
そう考えると、鎌倉幕府のように源氏の直系が三代で終わり(暗殺)、宮将軍を迎えたり、
室町幕府のように将軍が暗殺されて、内乱が起こるのが世界常識のような気がします。
余談ですが、やはり、こういう芸当は、徳川家康でしか出来ないことだったんでしょうね。
(私の大嫌いな血も涙もなく、人の心もない徳川家康でしか。。。)(●^o^●)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
家康の平和のための非道(?)ぶりについては、次回(24日)以後の更新で明らかにしていきます。
ぴーち おはようございます!
バブル期の好景気の最中に倒産した近くのある会社が
ありましたが、その理由が社長の社員に対する気前の良さ故に社員に食い倒されてしまったと聞いた話を思い出しました。確かにその時期、少し働いただけでお金がどんどんと懐に入って来た今では夢の様な時代でもありましたが、その勢いに任せて全て使い果たしてしまった様です。
組織を束ねる役目のものは、確かに度量の広さや、優しさはある程度必要かも知れませんが、気前の良さだけは必要最低限に留めておくべきことだと改めて思いますね。(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、バブル期の倒産には仰るような一面があったんですね。
気前の良さは他人には魅力的ですが、何の計算もなくやってしまうようでは先が見えていますね。
本来ならばその類稀(たぐいまれ)なる武力で周囲を畏怖(いふ)させ君臨(くんりん)する幕府と将軍であるはずなのに、なぜこのような無惨(むざん)な結果に終わってしまったのでしょうか。その理由として真っ先に考えられるのは、やはり創設者の足利尊氏による「優柔不断」であると断言(だんげん)できます。
尊氏が幕府を開いたのは京都でしたが、本来ならば武家の本拠地である鎌倉で政治を行うことを本人も希望していたはずです。しかし、彼の優柔不断が結果として南朝を存続させてしまったため、万が一に備えて軍事力を確保するため京都を離(はな)れることができなくなりました。
南朝の存在はその後も室町幕府を悩(なや)ませるとともに、その対策として3代将軍の足利義満や6代将軍の足利義教が強引な政治を行ったため、二人とも無念の死を遂げることになってしまったのです。





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オバrev 確かに名ばかりの将軍が続いた足利将軍ですが、それでも弱いながらも15代続いたのが不思議でなりません。
本来なら遠の昔に滅ぼされて新たな将軍が誕生していても良かったんじゃないでしょうか。
それができななったのは、地方を抑えこむシステムができていたためか、国民の不満がそこまで高まらなかったのか、海外からの侵略がなかったためか、どうなんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、不思議な話ですよね。
海外からの侵略が明らかになったのは秀吉の時代ですから、その点では確かに恵まれていたといえます。
それ以外の理由としては、次回(23日)で明らかにしたいと思います。
河童工房('◇')」 義満の勘合貿易(当時のシナへの朝貢貿易)
はこう言う背景があって行われていたんだなと。
このことでシナ皇帝から日王と認められた云々という話も合わせて。
すっきり!しました。
ぴーち おはようございます!
何でもそうですね。
基礎の部分が軟弱だと上に積み重ねた
ものは、直ぐに傾き始めてしまいますね(^_^;)
土台がしっかりしていてこそ、上に積み上げた
ものも安定する。
何でも最初が肝心なのでしょうね。
応援凸
河童工房さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義満は室町幕府の地位を高めるために外国を利用したとも言えます。
それがやがて自分自身の権力を高めるためにもなったのですが、こうした手法は外国に付け入るすきを与えますから好ましくはないですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、最初が肝心です。
だからこそ後述の「活かしきった男」につながるんですよね。