しかしながら、いかに幕府の権威を高めるためとはいえ、義満が自ら「天皇を超える存在」となろうとしたり、あるいは義教が「神に選ばれた将軍」として様々な恐怖政治を行ったりしたことは、余りにも「やり過ぎ」でした。
それゆえに、この父子は自らの野望が達成される直前に不審(ふしん)な急死を遂げたり、突然殺害されたりするなど、それぞれが無念の最期を迎えてしまいました。
義教の死去以後、この父子のように積極的な政治を行う将軍はついに現れず、幕府の権力や権威は衰える一方となりました。そして、中央政府たる幕府が機能しないのを良いことに全国の有力者が思うままに自分の政治を行い始めたことで、我が国は「戦国の世」を迎えることになってしまうのです。(第31回歴史講座に続く)
(※第30回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[6月25日]からは通常の更新[=明治時代]に戻ります)





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ぴーち おはようござます!
一度怖い目に遭ってしまうと二度と起きないようにしなければならないという思考回路が生まれてしまうのは、高等動物の性なのでしょうね。
以前、猿の実験などでも同じように怖い目に遭わせた時に一度学習した事は忘れずに後から入ってきた仲間にまでその怖さを伝承する能力があったそうですが、その中でも果敢にチャレンジする猿もまた居るのも面白いものです。
やり過ぎはいけませんが、その中からよく原因を探って、何がいけなかったのか、また他に改善策はなかったのかということをよく調べた上で、少しでも世の中を束ねていこうと言う意識の元、人間は立ち上がる必要もなければいけないものだと思いますね。中心となる人物に求心力がなければ、あちらこちらで再び勢力が増して来て、まとまるものもまとまらなくなるのがまた世の常ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
何事もやり過ぎはよくありませんが、原因と結果とを良く見極め、世の中のために立ちあがる人間も必要だと思います。
今の時代にこそ求められているのかもしれません。
長禄の変以後、後南朝は「ある大乱」に関わったのを最後として、我が国に残された史料からその姿を消してしまいましたが、そもそも後南朝という立場となったのは南北朝が合一した際に義満が南朝をだましたからであり、また義教が積極的に血統を断絶させたのも大きく影響しました。
さらには、義教が非業(ひごう)の死を遂げなければならなかった原因をつくった赤松氏によって、後南朝の御所に最後まで残っておられた高貴な血統を絶たれてしまうという悲劇にもつながってしまいました。歴史というものは時として苛酷(かこく)な流れを生み出すものなのでしょうか。
こうして後南朝は歴史の表舞台から消滅(しょうめつ)しましたが、民間の伝承(でんしょう)としては生き残り続け、後に明治44(1911)年に南朝が正統であると明治天皇がご裁断(さいだん)されてからは、自分こそが後南朝の末裔(まつえい)であると主張する人々が出現し始めました。中でも有名なのは第二次世界大戦の終戦直後に話題になった「熊沢天皇」こと熊沢寛道(くまざわひろみち)氏ですね。
ところで、後南朝が現時点では最後の史料にその姿が残されている「ある大乱」とはいったい何のことでしょうか?
実は、それこそが戦国時代の幕開けになったとされる「応仁の乱(おうにんのらん)」なのです(詳しくは次回の講座で紹介します)。





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晴雨堂ミカエル 室町時代というのは天下泰平の時期は全くといって良いほど無い時代ですね。
義満でさえも全国を支配できた訳でない。
室町幕府を見ると家康が如何に緻密で洞察力に優れていたかが解りますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
この後の歴史は、すべて前時代が映し出す鏡を見て動くことになりますからね。
ぴーち おはようございます!
正義は何時の世でも勝利すると言われていますが、
現実は時として理不尽な結果を齎してしまう場合が多いですね。我欲が余りにも強い人物に、一旦はその思いに押し流され、天下を取られ亡き者にされて一族断絶に追いやられても、真実だけはそこに留まる事になり、長い年月を経た後にまるで喪がやっと開けたかのように、日の目を見る時が必ず来るものなのでしょうね。
悪名も末の世まで轟くものですが、正義も必ずや
後の代で正当に扱われるものなのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史の流れとともに正義の流れというものも因果応報の名のもとに存在しているようですね。
南朝の血統は事実上断絶しましたが、南北朝の時代においては南朝こそが正当であるとお認めになられた明治天皇のご英断も素晴らしかったと思われます。
赤松氏は幕府にとって「将軍殺し」の天敵であり、禁闕の変の際にも後南朝側についていました。そんな赤松氏であれば、後南朝に味方と偽(いつわ)って吉野からさらに山奥まで入るのは容易(たやす)いことです。
幕府は赤松氏の申し出を許可すると、遺臣たちは1457年に後南朝の御所を襲い、南朝の血を引くとされる一ノ宮・二ノ宮兄弟を殺害しましたが、神璽については一時は持ち去ったものの、憤激(ふんげき)した後南朝を支持する勢力によって奪い返されてしまいました。
赤松氏の遺臣たちは1年後の1458年に一ノ宮・二ノ宮の母の御所を再び襲い、今度こそ神璽を奪い去ることに成功しました。こうして禁闕の変以来、多くの血を流して約15年ぶりに神璽が朝廷に戻ったのです。
これら一連の事件は当時の年号から長禄の変(ちょうろくのへん)と呼ばれています。なお、殺害された一ノ宮・二ノ宮の兄弟(別名を自天王=じてんのう、忠義王=ちゅうぎおう)は前述のとおり南朝の血を引くとされていますが、その詳しい血統は分かっていません。また、神璽を持ち帰った赤松氏は再興が認められ、後に守護大名に返り咲(ざ)いています。





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晴雨堂ミカエル 「花の乱」で結構詳しく描写されていました。
山名宗全を萬屋錦之助が演じていて、貫禄ある殺陣を魅せてくれました。なんと意外にも大河初出演。
この山名役が評判となり、「毛利元就」では尼子経久役が内定しましたが残念なことに逝去され、代わりに緒形拳が務めました。
ところで「花の乱」はあまり視聴率がふるわず。私が良いと思った作品はウケが悪い。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 この事件を詳しく取り上げたドラマがあったんですね。
あまりにもリアルすぎてかえって受けが悪かったんでしょうか。残念ではあります。
河童工房 教師のお宅、解体作業で吉野に行ったときに
休憩時間んいなると
いろいろとお話を承ることが
ありました。
いまでも吉野の人たちは
朝廷をお助けしたと誇りをもっているのが
わかりました。
こう言う地元民?の歴史は
教室では学べないですね。
河童工房さんへ
黒田裕樹 仰る話は私も拝聴したことがあります。
誇りを失わない人々は生き生きしていますね。
隠された歴史にもっと光を当てていきたいと思います。
ぴーち おはようございます!
幕府と赤松氏の両方の思惑が合致して
それが成功した訳ですね。
それにしても、後南朝にとって赤松氏は獅子身中の虫となった訳ですが、めでたく幕府側と組んで守護大名に返り咲いたとありますが、裏切り行為を繰り返す存在に本当に幕府は信頼を置くことが出来たのでしょうか。また同じように赤松氏はコウモリ的な存在に返り咲く事は無かったのでしょうかね・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 赤松氏は今回の功績(?)で確かに守護大名に返り咲きますが、まもなく「動乱の時代」に入りますからね。
それでも守護大名であるかないかとでは大きな違いがありますからまだ良かったのかもしれませんが…。
この事件は「御所の内裏」を意味する禁闕の変(きんけつのへん)と呼ばれており、御所を襲ったのは金蔵主(こんぞうす)・通蔵主(つうぞうす)の兄弟など後南朝の人々でした。金蔵主と通蔵主は後亀山天皇の血を引いているとされていますが定かではなく、金蔵主は禁闕の変の際に討たれ、通蔵主などは捕えられて流罪(るざい)となり、その後の消息(しょうそく)は不明となっています。
また、小倉宮聖承の子で出家していた教尊(きょうそん)も禁闕の変への関与が疑(うたが)われて隠岐(おき)へ流罪となり、小倉宮の血統も断絶となりました。
こうして事件そのものは鎮圧されましたが、三種の神器のうち神璽が後南朝に奪われたままであることは天皇としての正当性を損ねることにつながることから、朝廷や幕府を不安にさせていました。
ところが、このような異常事態を解決するために意外な人物が手を挙(あ)げたのです。それは、かつて嘉吉の乱で義教を殺害したために滅ぼされた赤松氏の遺臣(いしん)でした。





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ぴーち おはようござます!
確かに日々の生活の中で、思いもよらない人から
助けられたり、或いはその逆もありますが、
全く眼中になかった人物が目の前に登場し、何らかの手助けをしてくれる時ってありますよね。
この赤松氏の遺臣はどんな思いが切っ掛けで手を貸してくれる気になったのでしょうかね?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 思わぬ手助けは全くの善意の場合もありますが、とんでもない陰謀が隠されていることもあります。
今回の赤松氏の場合も例外ではありませんでした。それは何かといいますと…。
またしても皇位継承の夢が破れた後南朝は、北畠満雅が後亀山天皇の孫にあたる小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう)を率(ひき)いて再び挙兵しました。今度の戦闘は鎌倉公方の足利持氏をも巻き込んだ激(はげ)しいものとなりましたが、持氏が幕府と和睦したこともあり、満雅が討ち死にして挙兵は失敗に終わりました。
後南朝が朝廷や幕府に抵抗を続けることに激怒した将軍義教は、それまでの幕府の政策を転換(てんかん)して後南朝の血統を根絶(ねだ)やしさせることを決断しました。すなわち、後南朝の子孫を片っ端(かたっぱし)から寺院に送り込むことで子孫を残させないようにするとともに、彼らの家来を幕府が召(め)し抱(かか)えることで切り離(はな)そうとしたのです。
義教による徹底した対策によって主(おも)だった後南朝の血統はすべて断絶してしまいましたが、「万人恐怖」と称された義教の厳しい処置(しょち)に対する後南朝の恨(うら)みは深く、義教が嘉吉の乱で不慮(ふりょ)の最期を遂(と)げた後に前代未聞(ぜんだいみもん)の大事件が起きてしまいました。





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オバrev この頃にも男系天皇という意識はあったんでしょうか?
それにしても義教による恐怖政治は、さすがに今の時代にはあり得ないというのはありがたいですね^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 DNAや染色体といった概念はありませんが、遠い昔にわざわざ10親等もの男系天皇を即位させたこともありますから(第26代継体天皇)、理屈として分かっていたと思われます。
確かに恐怖政治は御免蒙りますが、これだけ混迷した政治が続けば一度はスッキリしたいとも思ってしまいますね(´・ω・`)
ぴーち おはようございます!
この世に生きとし生けるすべての生命には確かに子孫を残したい、更に自分が残した子孫の繁栄を願う気持ちというのはごく自然な欲求だと思います。
人間だけではなく、他の動物の世界も激しい争奪戦が展開し、それに敗れたものは子孫さえも残せないというのが厳しい現実だと思います。
しかし、人間は他の下等動物と同じようにその本能のまま行動を起こし、度を越した強欲さが仇となり殺し合いまで展開してしまった末路は自分にも痛いしっぺ返しが訪れます。動物には起こらなくて、人間には起こる。
それはきっとその回避する力を人間には試されるからなのかも知れません。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
義教が行った方策も、幕府と朝廷にとってやがて最悪の形でしっぺ返しが訪れることになります。
1410年、自分の子を皇太子と認められないことを不服として南朝の後亀山上皇が京都から吉野へと移られました。その後、1412年に北朝の後小松天皇が子の称光天皇に譲位されると、南朝に味方した伊勢の国司(こくし、地方の国の行政官のこと)の北畠満雅(きたばたけみつまさ)が挙兵しましたが失敗に終わりました。
戦後に幕府と和睦したことで後亀山上皇は京都へ再び戻られ、そのまま1424年に崩御されましたが、その後も南朝の勢力は皇位を回復すべく様々な手段で幕府と対立することになりました。
南北朝の合一以後における南朝のこれら一連の動きは、現代では後南朝(ごなんちょう)と呼ばれています。





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オバrev う~ん、南北朝統一と言いながら、実際はそうではなかったと?
確かに東西ドイツ統一も、実質的には東と西で格差が埋められなかったし、南北朝鮮となると統一は不可能でしょう。
覆水盆に返らずとはこのことでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 南北朝の合一は南朝が北朝へ三種の神器を返還したことによってその差が決定的になりました。
しかしながらそう簡単に収まらないのが世の常と申しましょうか…。
「覆水盆に還らず」はそのとおりかもしれませんね。
ぴーち おはようございます!
義満の野望が少しでも伺える条件であった為に、
再び不穏な空気が漂ってしまったのですね。
国の平和の為、国民の為と思い真の南北統一を心から願った働きかけでしたら、後からその問題も再燃しなかった事でしょうに・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに義満の野望に一役買ったという点は否めないですね。
だまし討ちのような手法でなければ南北朝の合一ができたかどうかは分かりませんが、アフターケアも重要だったと思います。
その余りの手際(てぎわ)の良さに、周囲の誰もが何の手助けもできなかったそうです。なお、この事件は当時の年号から嘉吉の乱(かきつのらん)といいます。
義教の突然の最期(さいご)は幕府を含めた周囲に大混乱をもたらしました。義教を殺した赤松氏は幕府によって後に討伐(とうばつ)されましたが、義教の死は幕府や将軍の権威を必然的に大きく低下させ、この後二度と復活できなかったのです。
また、義教による厳しい政策と彼を殺したことによって没落(ぼつらく)した赤松氏の存在とが、義満によってもたらされた「ある高貴(こうき)な政権」をとんでもない悲劇(ひげき)に巻(ま)き込んでしまうことを、この後の誰が予想できたことでしょうか。





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- こんばんわ。
いつも有難うございます。
足利義教のことを取り上げていただいて嬉しいですね。今後、注目が集まる人と思います。
彼を『無類の上』と明石散人氏は評しました。全面的に賛成はしかねますが、もっと評価されていい将軍ですよね。彼がこんな形で死ななければ、応仁の乱は起きなかったかもしれません。室町幕府ももっと実質的に継続した可能性があります。
そんな夢を見させてくれる将軍と思います。
【籤で選ばれた】ことをネガティヴにとらえず、守護大名の庇護を否定し、権力が孤高であることを身をもって示した義教を今の政治家、芸能人にも見て欲しいですね。
名無し(?)さんへ
黒田裕樹 (※ホストからおそらく常連の方とは拝察しますが、名無しさん宛で返信することをご容赦ください。)
こちらこそお言葉有難うございます。
仰るとおり、彼の生き様はもっと研究されてもいいはずです。
室町幕府にとっては最後のチャンスだったかもしれませんね。
ぴーち おはようございます!
義教は自らも有無も言わさず残忍な処刑を繰り返していた訳でしょうから、同じ目に遭ってしまったのは、当然の報いであったでしょうね。
こうして現代からその時代を振り返ると、義教とい人物は確かに面白い素材に満ちた人物かも知れませんが、当時の恐怖政治を強いられた国民にとっては悪魔意外に例えようにない人物であった事でし、二度と現れて欲しくない存在であった事でしょう。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり「当然の報い」という一面が濃いように思います。
信長同様、同時代には決して生きたくない人物かもしれませんが、何かを変えようと思えばそれくらいアクの強い人物でなければいけないのかもしれません。
なおまゆ こんばんわ。すみません。誤って名無しでコメントしたのは私です。
ごめんなさい。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 やはりそうだったんですね。
どうぞお気になさらないでください。
永享の乱の後の1440年には、持氏の遺児(いじ)を擁(よう)して結城氏朝(ゆうきうじとも)らが挙兵しましたが、義教はこれらも滅ぼしました。この戦いを結城合戦(ゆうきかっせん)といいます。
こうして鎌倉をも自分の支配下に入れた義教の権力は絶対的なものとなり、古代の盟神探湯(くかたち、裁判において熱湯の中に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽=しんぎを判断するという神判=しんぱんのこと)を復活させたり、些細(ささい)なことで激怒(げきど)して死罪などの厳しい処断(しょだん)を下(くだ)したりした義教に対して、周囲は「万人恐怖」と震(ふる)え上がりました。
義教からしてみれば幕府や将軍の権威を高めるための当然の行為でもあったのですが、その余(あま)りにも強引な政治手法は必然的に守護大名などの対立する勢力の反発を招(まね)くことになりました。そして義教の恐怖政治は、かの織田信長と同じように突然その幕を下(お)ろす日がやってくるのです。





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晴雨堂ミカエル 松たか子や野村萬斎の本格テレビデビューが大河ドラマ「花の乱」で、物語は将軍義教突然の不幸から始まります。
松たか子は日野富子の少女時代、野村萬斎は若き管領細川右京大夫勝元。
面白いですよ。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、そんなシーンから始まるんですか。
視聴率的には出来は良くなかったようですが、内容的には佳作なんでしょうね。
ぴーち おはようござます!
織田信長の恐怖政治ぶりは余りにも有名なお話だとは思いましたが、それ以前に義教が同じタイプの政治家だったとは、全く存じませんでした。
足利氏は義満か、銀閣寺を建立した義政くらいしか
よく知りませんでしたので、今日のお話しもとても勉強になりありがとうございましたm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそ有難うございます。
義教は意外と知られていない人物ですが、室町幕府の研究には欠かせない人物です。
その人生は信長と似通っているところが多く、その最期もまた…なんですよね。
まず義教は、4代将軍義持の時代に中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤(うるお)すと、その財力で奉公衆を整備して将軍直属の軍事力をさらに強化した後に九州地方へ攻めのぼり、義満ですら果たせなかった九州平定を実現しました。
次に義教は、宗教勢力の掌握(しょうあく、自分の思いどおりにすること)を目指しました。将軍就任以前は天台座主として宗教界のトップに君臨していただけに、義教は今までの将軍とは違って宗教に対する畏怖(いふ、恐れおののくこと)を全く感じていなかったのです。
義教と延暦寺とはやがて内戦状態となりましたが、義教が最後までぶれることなく、厳(きび)しい姿勢を崩(くず)さなかったため、絶望した延暦寺は1435年に総本堂(そうほんどう)である根本中堂(こんぽんちゅうどう)に火をかけて多数の僧が焼身自殺(しょうしんじさつ)するという騒(さわ)ぎになり、結果として義教は宗教勢力をも完全に支配下に置くことに成功しました。
比叡山延暦寺の焼き討(う)ちといえば織田信長(おだのぶなが)が有名ですが、それよりも100年以上も前に武力によって延暦寺を支配した将軍がいたことは意外にも知られていません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
義教がポジティヴな性格であった為に
事態は思いもよらない成果を齎した様ですね(^^ゞ
恐れを知らない心は時として一番の武器になり得ましょうが、失敗した時のダメージも大きいのでしょうね。義教の場合は、果たすべき任務を達成できた事は、神を味方につけたというよりも、義満の(怨念)野望がのり移った為に成し得た事のようにも思いました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、義教の隠された一面が歴史を動かしたのかもしれませんね。
いずれにせよ、上に立つ者のリーダーシップが存分に発揮されたといえそうです。
そして、1428年に義持が亡くなった直後に当たり籤を開封(かいふう)した結果、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の最高位である天台座主(てんだいざす)の義円(ぎえん)が選ばれました。
義満がかつて自分の権力強化のために門跡寺院(もんせきじいん)に自分の子を次々と送り込(こ)んだことが、こんなところで役に立ったのです。将軍に選ばれた義円は直(ただ)ちに還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)し、名を義宣(よしのぶ)から後に義教(よしのり)と改めました。
後の世で「籤引(くじび)き将軍」と呼ばれた6代将軍の足利義教の誕生(たんじょう)です。





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オホーツクのリンゴ屋 黒田さん、こんにちは。この時代は大河ドラマなどでも取り上げられることが少ないので、興味津々です。以前に神奈川県厚木市に住んでいたことがありまして、隣の伊勢原市に太田道灌が暗殺された場所近くに石碑や、お墓(首塚?)もありました。太田道灌が主君に忠実な性格でなかったなら北条早雲より早く戦国大名になっていたのかな?などと空想を膨らませて楽しんでおりました。済みません、道灌は6代将軍より少し後の時代ですよね。戦国時代に繋がるモヤモヤと良く分からない室町時代、何で戦国時代になってしまったのか?など興味は尽きません。今後の御研究を楽しみにしています。
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オホーツクのリンゴ屋さんへ
黒田裕樹 こんにちは、お言葉有難うございます。
確かに大河ドラマでは取り上げられない内容ですね。
地味ということもありますが、それ以上に分かりにくいのもあるかもしれません。
太田道灌については今回の講座では特に紹介しませんが、謎の多い北条早雲との関連が興味をそそりますね。
また後日の機会で取り上げられればと思います。
ぴーち おはようございます!
なるほど、全責任を天に任せることにした。
これも亡き義満の怨みを幕府に向けさせない為の苦肉の策だったのでしょうかね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう見方もありますね。
運を天に任せた結果、室町幕府の運命はどうなるのでしょうか…。