1.朝鮮の独立を認めること(詳細は先述のとおり)
2.遼東半島(りょうとうはんとう)・台湾(たいわん)・澎湖諸島(ほうこしょとう)を割譲(かつじょう)すること
3.賠償金として、2億両(テール、清の通貨単位。当時の日本円で約3億1,000万円)を支払うこと
4.新たに沙市(さし)・重慶(じゅうけい)・蘇州(そしゅう)・杭州(こうしゅう)の4港を開くこと
このうち、2.や3.に関しては、「敗戦国が相手国に対して領土を割譲して賠償金を支払う」というのが当時の世界の常識であり、決して我が国だけが欲張ったわけではありません。
また、台湾やその西に位置する澎湖諸島は、清にとってはそもそも「化外(けがい)の地」、つまり実効的支配が及ばないと考えられていましたし、遼東半島も万里の長城の外に位置することから、それほど重要性が高くありませんでした。
にもかかわらず、新たに我が国が得た領土に対して、激(はげ)しく抗議してくる国が現れてしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
ここでまた、話に割り込んでくる
不届き者が居たんですね(#・∀・)ムカッ!!
きっとその国にも理由があったのでしょうけれど、もっと北のあの国でしょうか。。?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 本文にもあるとおり、清にとっては一番「都合の良い」領地を割譲したはずなのですが、それが他国にとっては都合が悪くなる、ということですね。
「その国」とはもちろん…?
明治28(1895)年4月17日、下関において、日本全権の伊藤博文(いとうひろぶみ)・陸奥宗光(むつむねみつ)と清の全権であった李鴻章(りこうしょう)との間で、日清戦争における講和条約が調印されました。これを下関条約(しものせきじょうやく)といいます。
この条約には、後述するような様々な事項がありましたが、もっとも重要なのは、「清が朝鮮を独立国として認める」ということでした。
下関条約の第1条には、「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢物(みつぎもの)などは永遠に廃止する」と書かれていますが、この条文によって、初めて朝鮮は清からの呪縛(じゅばく)を逃れ、独立できることが可能になったのです。
朝鮮はやがて明治30(1897)年に大韓帝国(だいかんていこく)と国名を改め、国王の高宗(こうそう)が初代皇帝となりました。それまで宗主国の中国しか許されなかった、「皇帝」の称号を初めて使用できるようになった歴史的な意義は、極めて大きいものがあったといえるでしょう。





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ぴーち おはようございます!
まずは23万ヒット、おめでとうござます♪
この頃の朝鮮人は、日本のこうした切実な思いを
どこまで理解してくれていたのでしょうか。
今もなお根深い日本人への復讐心は、この後の戦争で根付かせてしまった思いだったのでしょうか。
応援凸
そういえば・・。
晴雨堂ミカエル 清国側の代表団は瀬戸内海を見て「日本にも長江みたいな河があるじゃないか」と言ったらしいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございますm(_ _)m
当時の朝鮮は自国の独立よりも「強くて干渉しない国」に頼る傾向がありましたからね。
そしてその姿勢は、今の我が国に対しても基本的には変わっていないとしか私には思えません。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 清国側の代表団は瀬戸内海を見て「日本にも長江みたいな河があるじゃないか」と言ったらしいですね。
なるほど、そんなエピソードがあったんですか。
孫子の兵法の真逆ではありますが、同時に現代の中国では考えられませんね。
日清戦争に対し、欧米の新聞の大多数が清の勝利を予想した一方で、我が国民は「朝鮮の独立を助ける義戦である」とこぞって評価しました。福沢諭吉(ふくざわゆきち)が、かつて咸臨丸(かんりんまる)に同乗させてもらった恩人の子が出征した際に、「もし討ち死にしてもご両親のことは心配なさらぬように」と手紙を書いたほか、後に日露戦争(にちろせんそう)に反対した内村鑑三(うちむらかんぞう)でさえ、英文で「日清戦争の義」を世界に発信しました。
戦争は豊島沖(ほうとうおき)の海戦から始まりましたが、その後は我が国の陸軍が平壌(へいじょう、現在のピョンヤン)から鴨緑江(おうりょくこう)を渡って満州へと入り、遼東半島(りょうとうはんとう)を占領して、清の首都である北京(ペキン)へと迫りました。
海軍も黄海(こうかい)海戦に勝って制海権を得ると、明治28(1895)年1月に陸軍が威海衛(いかいえい)を占領したことで、清の北洋艦隊(ほくようかんたい)が降伏するなど、我が国が圧倒的優勢の展開となりました。
こうして両国の戦いは、軍隊の訓練や規律の優秀さを誇るとともに、新型の近代兵器を装備した我が国の勝利に終わり、これまで「眠れる獅子(しし)」と恐れられた清も講和せざるを得なくなりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
日清戦争の苦労よりも、
朝鮮の態度に振り回されることのほうが
苦労が大きかった気がします。
しかも
非常に不安定な国内情勢だったからです。
アメリカの言葉で、こういう言葉があるそうです。
『弱い味方は、強い敵よりも、始末が悪い。』
↑↑↑ ↑↑↑
それは、これからの更新で、さらに明らかになりそうですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
日清戦争の原因を作ったのも朝鮮なら、その後の大きな戦争へ至る歴史も…ですからね。
それは今後の更新で明らかになりますが、とりあえずネタバレを誘発することは避けるべきでしょう。
しー わぁ、清!!
あれ…?なんだか変なかんじです。
世界史でも清に入ってますけど、
時代が少し違うからか、視点が違うからか違う「清」に思えてなりません(´д`)
なんか変。。。
日本の圧勝?
オバrev 今日の記事を読むと、日清戦争は日本の圧勝だったように受け取りましたが、実際にそうなんですか。
となると、軍部の中枢はその辺の戦力分析を行って、勝利を確信して戦争に臨んだんじゃないでしょうか。
しーさんへ
黒田裕樹 確かに世界史とは異なるところがありますね。
世界全体の流れを重視しているのと、日本史のように我が国から見た歴史の背景を重視しているのとの違いといったところでしょうか。
もっとも、日清戦争の世界的な意義については同じはずなんですけどね(^^ゞ
オバrevさんへ
黒田裕樹 圧勝は言いすぎですが、終始優位に展開したことは間違いないですね。
日清で明暗を分けたのは近代的な火器や軍隊の士気の違いなど複数考えられますが、一番大きいのは「ここで負けたら自国は滅亡する」という覚悟の違いでしょう。
精神論だけ突出するのは危険ですが、その他の条件がそろっていればより一層心強くなるというものですからね。
失礼しました
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ネタバレ誘発について、失礼しました。
この講座では
今の内容について、深く、考察することが
大事ですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりです。
ご協力いただければ幸いです。
ご指摘の件に関しては、講座の更新後になります。
ぴーち おはようございます!
なるほど、正義と言う名の
大義名分が日本軍の士気を高める
活力剤になっていたんですね!
北朝鮮などの一糸乱れぬ訓練の様子を映像で
見ますが、今日のお話など伺うと、日本人が本領を発揮すると
更に結束力のある組織づくりが期待出来そうに
思うのですが、今の日本人は個々の考え方も
行動もバラバラである事が懸念されます。
しかし、皮肉にもこの震災で日本人も、一致団結する気持が呼び覚まされたように思いました。
勿論、再び軍備強化を!とは叫びませんが、
日本にも多少の緊張感(目標)があると良いと感じます。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、軍事力の大幅な増強というような極端なものではないものの、日本民族の一致団結は必要であると思います。
バラバラでは諸外国との競争に勝てませんからね。
実は、両国のお互いへの宣戦布告の文章を読み比べれば、その謎は明らかとなるのです。
宣戦布告において、清が「朝鮮は我が大清国に属して200年になるが、毎年我が国に朝貢(ちょうこう)している」と主張しているのに対して、我が国からは「朝鮮は我が国が誘って列国に加わらせた独立国であるにもかかわらず、清は常に朝鮮を自分の属国として内政に干渉し続けている」と訴(うった)えています。
要約すれば、朝鮮を自国の属領としか考えていない清と、独立を助けようとする日本との間で日清戦争が起きたわけですから、もしこの戦いに「義」があるとすれば、清と我が国のどちらにあるといえるのでしょうか。





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オバrev 戦争において、どちらに義があるということが言えるんだろうかと思います。
確かに一部は大義名分もあるでしょうが、義のためだけにお金と労力と人命を犠牲にして戦争をするというのは、やはり説得力に欠ける気がします。
やはり経済的理由や我が国を守るためという理由があるはずだと思うのですが、いかがでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、確かに義だけで戦争ができるわけではありません。
日清戦争の場合、我が国のメリットは朝鮮が独立国としてしっかり存在することで防波堤にするという、見様によっては「虫が良い」事情もありました。
しかし、その結果が国益にかなうのであれば、清のように自国の都合で他国を支配下に置いてないがしろにするよりは、やはり金銭や労力、そして尊い命を犠牲にしてまで戦争をする意義があると思います。
そして、詳しくは次回(29日)の更新で詳しく紹介しますが、当時の日本国民が日清戦争をどのように評価したのか、という点も考慮する必要があるかと存じます。
自国では反乱を鎮圧できないと判断した朝鮮は、清に対して国内への派兵(はへい)を要請すると、清は直ちに出兵するとともに、先の天津条約の規定どおりに、出兵の事実を我が国に通知しました。
通知文書を読んだ我が国は、清に異議を唱えるとともに、朝鮮への派兵を決定しました。なぜなら、文書には「朝鮮への出兵は属邦(ぞくほう、属国と同じ意味)保護のため」と書かれており、朝鮮を独立国と認めてきた我が国の外交姿勢と真っ向から対立するものだったからです。
日清両国の出兵によって、反乱そのものは鎮圧できましたが、問題はその後でした。反乱後の朝鮮における内政改革を、日清両国が共同して行おうという我が国からの提案を、清が拒否したからです。清の強気の背景には、政府と議会とが対立関係にある我が国には、力を外に向ける余裕がないという判断もありました。
しかし、もし我が国がここで撤兵すれば、清による朝鮮の属国化は名実ともに避(さ)けられません。覚悟を決めた我が国は、清の勢力を朝鮮から追い出すため、明治27年8月1日をもって清に対して宣戦布告(せんせんふこく)し、ついに日清戦争(にっしんせんそう)が始まりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
今でも同じ政党内は勿論、政界の内輪もめが盛んに行われていて、諸外国からみた日本の姿は頼りない存在に映っている事でしょうけれど、いざというときにもきっと、今の日本は外国の勢力に押しつぶされてしまう軟弱さがありますが、当時はそんな外国からの懸念を跳ね除ける様な底力が存在していたのは、何が一番の要因だったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時の我が国は一歩間違えれば欧米からの侵略を受けてしまうという現実的な危機感がありました。
その緊張感が大きな底力となっていたのでしょう。
現代の平和ボケとは全く異なりますね。
サクラ 釈然としない話が、ようやく釈然としました。
日本が出兵したことは中学で習ったのですが、やはり侵略としか教えてませんでしたよ。後に『嫌韓流』を読んで、「天津条約に基づいて出兵した」と書かれていて、かなり混乱したものです。真実を確かめるべく天津条約の条文を読んだのですが、やはりそのような記述はありません。
朝鮮を清から切り離すためなら仕方ありませんね。
サクラさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、我が国の安全保障の立場からすればやむを得ない戦争でした。
何でもかんでも侵略扱いするのは無理がありすぎますよね。
通常のブログ更新と並行して行っております「本物の歴史講座」ですが、この度ついに第30回を数えることになりました。記念すべき次回は「室町幕府の教訓その2 ~やり過ぎた父子(おやこ)・義満&義教」と題して、室町将軍のうち義満・義教の時代を中心に我が国の混乱期を探っていきます!
初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)がもたらした「負の遺産」の処理に悩(なや)まされた室町幕府(むろまちばくふ)でしたが、初期から中期の頃に幕府の命運をかけて果敢(かかん)に改革に取り組んだ将軍が二人存在しました。
その二人とは3代将軍の足利義満(あしがかよしみつ)と、その子で6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)でした。この父子はそれぞれの立場で幕府の権力を高めるために積極的な政治を行いましたが、余(あま)りにも「やり過ぎた」ゆえに、二人とも非業(ひごう)の最期(さいご)を遂(と)げることになってしまいました。
しかも、父が成し遂げた歴史的な事業から生まれた「ある高貴(こうき)な政権」が、子の最期を遠因(えんいん)としてとんでもない悲劇に巻(ま)き込(こ)まれてしまうという結果をもたらしてしまっているのです―。
次回の講座では、先代からの大きな負担を抱えながらも室町幕府の安定のため懸命(けんめい)に政治を行い、最後には夢破れた「義満・義教父子」と、彼らによって数奇(すうき)な運命をたどることになった「高貴な政権」の悲運とを振り返りながら、現代にもつながる大きな歴史の流れをたどっていきたいと思います!
第30回「黒田裕樹の歴史講座」
「室町幕府の教訓その2 ~やり過ぎた父子(おやこ)・義満&義教」
日時:平成24年5月26日(土) 午後6時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第5研修室
(いつもの第3研修室ではありません。ご注意ください!)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料(カンパを受け付けます)
また、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加下さるようお願いします。
なお、第31回歴史講座は8月25日(土)に大阪で、9月1日(土)に東京でそれぞれ行う予定です。
最後に、おなじみとなりましたブロとものクラチーさんからの素晴らしい画像を皆様にご覧いただきます!
(※クラチーさんのブログについては、下線部からご覧いただけます。)






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クラチー 30回目、おめでとうございます!
そして、毎度ありがとうございます~!
。゜(゜´Д`゜)゜。
ついに「キンキラキンさん」と「強運大魔王」の登場ですねぇ。
ということは、次は…おっと、ネタバレネタバレ。
(。。;)
埼玉県民の自分は、
遠くから応援していま~す。
(^w^)ノシ
クラチーさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、いつも素敵な画像を有難うございますm(_ _)m
今回は大阪のみですが、第31回は東京講演もありますからね。
ご期待ください!
オバrev もう30回になるんですね。
継続は力なりではないですけど、内容もだんだん充実していってるんじゃないでしょうか。
義満・義教父子とは、また渋い!
楽しみです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
確かに日々の積み重ねは大きいですね。
内容も様々な時代を取り上げていますから、今回のように「渋い」人選も可能になります(笑)。
どうぞご期待ください!
なおまゆ こんばんわ。
いつも有難うございます。
足利十五代の中でこの二人を取り上げていただけるのは実に嬉しいです。
とくに、足利義教はかなり誤解された人物ですもんね。この二人をどう調理なさるのかとても楽しみです。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、足利義教は歴史上の人物としては五本の指に入る実績を残しながら、その実像はかなり曲解されていますからね。
父の義満同様、その真実にじっくりと迫りたいと思います。
Sabimama 黒田先生のとりあげる内容は歴史の一般論では無く、真実への追究をなされるところが面白いと思いました。先生の見解が皆さんの興味となっています。歴史は時代の都合上歪曲もなされ、そのまま現代へ語られていたりする様です。
今は自由な発想が許される時代!真の姿を追いましょう!そんな柔軟な講座で、興味が湧きます。
(関東なので、伺えませんが・・・)
Sabimamaさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史の真の姿を追うのが当ブログの使命ではないかと思っております。
第31回講座は9月1日に東京でも行う予定ですよ。
楽しみにしています
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
いよいよ、第30回の歴史講座ですね。
楽しみにしています。
黒田先生の講座は、歴史だけではなく、物事を考えるうえで、非常に勉強になります。
◎ 体系的に全体の大きな流れを常に捉える。
◎ 必ず、証拠なろFactがあり、今の歴史教育の
『勝手な思い込み』を打ち砕いてくれる。
私自身の思考の欠点として
① 思考が断片的である。
(部分的には、深く知っているのに、大きな流れを捉えていない。)
② テーマから、ずれる。
(いつも、ご迷惑をおかけしています。)(苦笑)
この思考の欠点を矯正しようと黒田先生の今までの歴史講座を何度も繰り返して、拝読しています。
もう、20回以上、繰り返して、読んでいます。
これからも、ご活躍を楽しみにしています。
青田さんへ
黒田裕樹 有難うございます。
次回の講座も、皆様のご期待に添えるものと確信しております。
歴史の大きな流れは本当に重要ですからね。
朝鮮の国王や閔氏(びんし)一族は、ロシアに軍事的な保護を求めて密かに接近しましたが(これを露朝密約事件=ろちょうみつやくじけん、といいます)、これらの動きが発覚すると、清はまたしても袁世凱を実質的な朝鮮総督(そうとく)として派遣し、朝鮮に対する圧迫を強めました。
こうして朝鮮半島は、日本・清・ロシアの三ヵ国がお互いに勢力争いをする舞台と化してしまったのですが、その背景には、我が国から清、さらにはロシアへと次々と接近することで、他国からの干渉を逃(のが)れようとする朝鮮の姿勢もありました。
そんな中、清が朝鮮の外交権を奪ったのみならず、朝鮮との貿易を急速に進めた一方で、明治22(1889)年には、朝鮮の地方官が凶作を理由にコメや大豆の対日輸出を禁じた防穀令(ぼうこくれい)を出したことで、朝鮮と我が国との関係が悪化しました。この背景には清の関与があったとされています。
このまま朝鮮が清の支配下に入ってしまっては、独立はおろか遠からず朝鮮が欧米列強の植民地と化して、我が国が決定的な打撃を受けてしまいかねません。かくして、これまで話し合いで忍耐し続けてきた我が国も、朝鮮国内で「大きな動乱」が起きたのをきっかけとして、ついに清との全面戦争を決意することになったのでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
今日の記事のお話が、いわゆる日清戦争への
プロローグということになるのですね。
なかなか学校の授業では戦争に至るまでの
詳細な経緯までは教えてくれない事が多いので、こう言ったお話を伺うことが出来て、有りがたく存じております。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
仰るとおり、日清戦争自体は紹介されていてもその詳細な経緯についてまではなかなか明らかにされていないのが現実です。
しかしながら、歴史の流れを明らかにしなければそれこそ「一方的な侵略戦争」といった不適切なレッテルを張られかねないので、やはり非常に重要であると考えております。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
(今度は、外れてません。)(笑)
この日清戦争についてですが
当初
その原因がどうも、納得できませんでした。
というのも、朝鮮が清の支配下に入るというだけで
大国(欧米に一部を租借されていましたが)の清と全面戦争をするのは、
日本には、リスクが大きいからです。
ただ、冷静に考えると、この当時、アジアで、全く、植民地になってない国は、朝鮮と日本だけです。
ここで、歴史のifですが
もし、日清戦争を回避して、朝鮮を清の支配下に
入ったとします。
すると、日本にとって、どういう未来が待っていたと思いますか。
青田さんへ
黒田裕樹 朝鮮が清の支配下に入れば、諸外国と清との交渉次第で朝鮮を他国にとられてしまう可能性が出てくるでしょう。
そうなれば我が国の未来に暗い影を落とすことは間違いありません。
なお、一番朝鮮を狙う可能性がある国については、ここでは明らかにしないでおきますのでご協力をお願いします(^^ゞ
翌明治18(1885)年に、伊藤博文(いとうひろぶみ)が全権大使として天津(てんしん)へ渡ると、清の全権大使である李鴻章(りこうしょう)との間で天津条約(てんしんじょうやく)を結び、日清両国は朝鮮から撤兵するとともに、将来もし出兵する際にはお互いに通知しあうことを義務としました。
二つの事変を通じて、我が国は「朝鮮を独立させようとしても、清が宗主国の立場を利用して何度でも干渉(かんしょう)してくる」ということをつくづく思い知らされました。我が国が独立党などの開国派をいくら支援しても、清の軍隊が出現してその動きが封じられてしまう限り、朝鮮にとって真の独立はあり得ないのです。
なお、金玉均や朴泳孝は甲申事変の後に我が国に亡命しましたが、このうち金玉均は明治27(1894)年に上海(シャンハイ)で暗殺されてしまいました。また、事変後の明治18年には、独立党の支援を目的として旧自由党左派の大井憲太郎(おおいけんたろう)らがクーデターを計画しましたが、事前に発覚して大阪で検挙されるという大阪事件が起きています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
日本は大人の考えを選択したのですね。
その選択は素晴らしい事だとは思いますが、
日本も清も朝鮮に対して、干渉し過ぎでは無いでしょうか。勿論、清側には朝鮮の独立を阻んで、我が国が征服したいという思惑があったからなのでしょうけれど、日本はその当時、「朝鮮を独立国に!」という気持ちとは真逆に朝鮮を手懐けて植民地にでもしてやろうという野望が密かにあったのでしょうか。
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ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国と清が朝鮮にこだわる理由ですが、清については我が国の侵略までは考えていたかどうかわかりませんが、朝鮮を支配したいという思いは仰るとおりです。
我が国については、自国の安全のためには何よりも朝鮮がしっかりした独立国になってくれることを願っており、また自国の近代化に手一杯であったために朝鮮を自領に、ましてや植民地にすることなど考えてもいなかったと思われます。
この後史実において朝鮮は我が国が併合することになりますが、この経緯に関してはいずれブログ内で明らかにしていきます。
朝鮮は謝罪の使者として、金玉均(きんぎょくきん)や朴泳孝(ぼくえいこう)らを派遣しましたが、来日した使者たちが見たのは、比べものにならないほど近代的に発展した我が国の姿でした。金玉均らは、我が国がおよそ10年前に派遣した岩倉使節団が、欧米列強の発展ぶりに驚いたのと同じ思いを抱いたのです。
「朝鮮も早く近代化しなければならない」。そう強く感じた金玉均らは、福沢諭吉(ふくざわゆきち)から多額の資金援助を受けた後、明治17(1884)年に清が清仏戦争(しんふつせんそう)に敗れたのを好機と見て、同年12月に独立党(どくりつとう)としてクーデターを起こしました。
しかし、事大党(じだいとう)の支援を口実として、清の袁世凱が再び朝鮮に出兵したためにクーデターは失敗に終わり、金玉均が日本公使館に逃げ込むと、清の兵士が公使館を襲って焼き討ちし、女性を含む多数の我が国の民間人が殺害されました。これを甲申事変(こうしんじへん)といいます。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
焦る気持がクーデターという形で
先を急がせてたのでしょうけれど、結果的に資金援助した日本にまでその被害を被ってしまったというのは、どうも・・。
更にその人物を匿ってしまったことで、クーデターを企てた同類として恨みを買ってしまったのですね(^_^;)
福沢さん、どうしてそんな考えに及んでしまわれたのでしょう・・
応援凸
のそのそ
クラチー 昨日はお祝いコメントありがとうございますです!
明日はとうとう、義満さんと義教さんの講演ですか。
頑張ってくださいね♪
(^w-)-☆
…はっ!?「運だけが取り柄」の彼らを扱うということは、宝くじが当たるチャンス!?
(@□@)←
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに甲申事変には焦りが感じられますね。クーデターがそう易々と成功するとも思えませんが…。
福沢諭吉は当時の朝鮮の姿が、幕末に不平等条約を結ばされてもがき苦しんでいた我が国にダブって見えたらしいですね。だからこそ惜しげもなく資金を援助したのですが、残念な結果に終わってしまいました。
クラチーさんへ
黒田裕樹 こちらこそ励ましのお言葉有難うございますm(_ _)m
お!いよいよ私にもツキが回ってきたかねぇ!(^_^)v
清が朝鮮に対して、我が国への賠償(ばいしょう)や謝罪に応じるよう勧告したこともあり、日朝両国は同明治15年に済物浦条約(さいもっぽじょうやく)を結び、我が国への賠償金の支払いや日本公使館守備のために日本兵を置くこと、加えて我が国に謝罪の使者を派遣(はけん)することなどを朝鮮が認めました。
我が国としては、清や朝鮮をいたずらに刺激(しげき)しないためにも、武力に頼らず話し合いで解決しようとしたのですが、この姿勢が「日本は清と比べて弱腰だ」とみなされたこともあり、この後に再び政治の実権を握った閔氏を含めて、朝鮮国内では清に頼ろうとする事大派(じだいは)の勢力が強くなってしまいました。
ちなみに、壬午事変の際に清が派遣した軍の代表者は、後に中華民国大総統(ちゅうかみんこくだいそうとう)となった袁世凱(えんせいがい)です。また、開国派を打倒するというよりも、結果として清のためにクーデターを起こした大院君ですが、事変の後に逮捕(たいほ)され、清へ連行されてしまいました。
自国のための行為であっても、用が済めば「お払い箱」。大院君に対する冷酷(れいこく)な仕打ちを見れば、当時の清の朝鮮に対する態度がよく分かりますね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
大院君はそもそも中国側が仕向けた人物だったのですか。この流れ一つを見ても
中国側の思惑に朝鮮も日本も上手く翻弄されてしまっていて、遺憾に思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 大院君は清が仕向けたというよりも自分のためにクーデターを起こしましたが、結果として清のためになったといえますね。ところが清はいわば「飼い犬」たる大院君を処罰しました。
国を裏切った人間は真っ先に粛清されるのです。現代の売国奴と呼ばれる人間は、自分の将来をしっかりと考えているのでしょうか。