南朝は尊氏が遠征した隙をついて北畠親房の指揮(しき)によって京都へ攻め込み、幕府予備軍であった義詮の軍勢を敗走させると、勢いに乗った南朝は、北朝の三人の上皇と皇太子を自分たちが追われていた賀名生へと移しました。
かくして後醍醐天皇が吉野朝廷を開いて以来、後醍醐天皇の子の後村上天皇(ごむらかみてんのう)によって16年ぶりに南朝が京都を支配するようになったのです。1352年閏(うるう)2月のことでした。
しかし、南朝の天下は長続きしませんでした。体勢を立て直した義詮が京都へ再び攻め込んだからです。南朝はしばらくの間持ちこたえたものの同年5月には追い落とされ、後村上天皇や親房は再び賀名生へと逃れていきました。ちなみにこの後、南朝は一度も京都を回復しないまま1392年に北朝との合一(ごういつ)を迎えることになります。
なお、南朝と義詮とが争っている間に、尊氏と戦って敗れた直義が同じ1352年2月に急死しました。尊氏による毒殺説もありますが、直義を討つために南朝と和睦するなど幕府政治の根幹(こんかん)を揺(ゆ)るがした後となっては、すべてが手遅(ておく)れでした。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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諸葛菜@孔明死後の三国志はお任せ! はじめまして!
諸葛菜と申します。
ランキングからお邪魔させていただきました。
室町幕府の成り立ちを知りたいとおもって、吉川英治の太平記を全巻読みました。
わかりやすい記事で理解できました。
室町時代を読むと何となく気分的に消耗するのですが(笑)。戦国時代との違いはなんなのかなあと考えてしまいます。
諸葛菜さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへお越しくださって有難うございます。
室町時代は進めば進むほど分かりにくくなりますし、また戦国時代へ向かうということは争いが多くなりますし、どちらかといえばネガティブなイメージしかありませんからね。戦が続くものの、天下統一へと進んでいく戦国時代とはベクトルが真逆なのが原因かもしれません。
真田広之の尊氏。
晴雨堂ミカエル 大河ドラマ「太平記」の尊氏は戦に明け暮れて人生を消耗していく様がよく表れていました。
後醍醐天皇や楠木正成らに感化されて理想に燃え戦う青年高氏。鎌倉幕府を倒した後の朝廷への反旗、亜相北畠との戦い、直義と師直の抗争、直冬との戦。
従来の大河ドラマと違い、勝っては負け、負けては勝ちの繰り返しが延々続く。最後は病と歳ですっかり老人となった尊氏は輿に乗ってでも指揮を執る痛々しい姿。
けっこう見応えありますよ。
かつての皇国史観では、幕府を裏切って朝廷につき、その朝廷を裏切って天下を奪った権謀まみれの野卑なキャラでしたが、そういう意味で「太平記」は画期的でした。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 現実の尊氏に近そうなキャラですね。
前にも書きましたが、CSでの放送が待ち遠しいです。
ぴーち おはようございます!
この時代は随分と目まぐるしい展開が続いていたのですね。
当然ながら私の頭の中も混戦気味です(^^ゞ
しかしながら
人を騙す人の方が悪いとは言いますが、騙されてしまう方にも、相手の本意を見ようとしなかったり、或いは自分にはそういう災難は絶対降りかからないだろうと頭から信じこんでいたりする面があるので、尊氏もその優しさから、相手を容易く信じこんでしまう所があったようですね。
詰めの甘さが露呈してしまっているように感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、相当めまぐるしいですね。
室町時代の分かりにくさを象徴しているようです。
騙し合いが良いことだとは言えませんが、確かに尊氏の優しさが「甘さ」となってしまった感があります。
そもそも宿敵ともいえる南朝が、尊氏の出した条件で満足するとは思えないはずなのですが、それもこれも原因は尊氏にありますからね。