その後、一旦(いったん)は和議が成立したものの、再び尊氏が直義を東西から挟(はさ)み撃(う)ちで倒そうとすると、尊氏の計略(けいりゃく)に気づいた直義は京都を脱出して北陸伝(づた)いに鎌倉へ攻め込もうとしました。
武家政権発祥(はっしょう)の地である鎌倉を奪われては尊氏の立場がありません。尊氏は直ちに直義軍を追撃(ついげき)しようとしましたが、自分が遠征している間に直義派となった南朝に京都を制圧(せいあつ)されて尊氏追討の綸旨を出されれば、自分が朝敵(ちょうてき)となって滅亡への道を歩んでしまうのは火を見るより明らかでした。
進退窮(きわ)まった尊氏は、北朝から征夷大将軍に任じられているにもかかわらず、それまで敵対していた南朝と手を結んで、自分の味方につけるしか方法がありませんでした。以前には後醍醐天皇、今回は直義といった自分に敵対する勢力を政治的に抹殺(まっさつ)することなく「生かして」しまったことで、尊氏は多くの血を流したうえにやっとの思いで構築(こうちく)した政治のシステムを、自らの手で破壊(はかい)せざるを得なかったのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、仮説ですが、
おそらく、足利尊氏は、征夷大将軍になり
幕府さえなれば、それで、天下を握れると考えていたのではないでしょうか。
それゆえ、北朝から、征夷大将軍に任じられているのに南朝と結んでも、問題がないと考えたような気がします。
官職が征夷大将軍であっても、源頼朝のように
しっかりとしたシステムを創らないと完全に有名無実化ですね。
どちらにしろ、足利尊氏は、現実にたいして、甘すぎましたね。
ぴーち おはようございます!
時代は違いますが、つい先日も
義経と頼朝を生かしてしまったが故に滅びた
平家のお話も、結果的に清盛が掛けた情けが仇となってしまったと伺ったばかりですが、何やら
共通するものがありますね(^^ゞ
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそのような甘い一面がありますね。
南朝になびいたのも、仰るとおり征夷大将軍の重みすら理解できていない節があります。
いずれにせよ、ここに来てそれまでの甘さの「ツケ」が一気に噴き出した感がありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
思えば、清盛も女性の影響があったとはいえ、甘い武将ではありました。
尊氏も清盛も、弟を容赦なく殺した頼朝とは雲泥の差ですね。