以前に行いました第21回歴史講座をベースにして、より分かりやすく昭和史の真実に迫(せま)れるよう努めますので、ぜひとも多くの皆様にご参加いただければと思います!
第26回「良く分かる歴史講座」
日時:平成24年4月7日(土) 午後2時~午後4時
内容: 「昭和天皇・前編 ~ご生誕から終戦まで」
場所:茨木市福祉文化会館 202号
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(大阪府茨木市駅前4-7-50)
主催:学ぼう会・北摂
後援:茨木市教育委員会





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 11日に東京にて天皇制反対のデモがあったらしいです。
それが事実とすれば、浮世離れしたKYとしか言いようがありません。
主義主張のアピールには「最適」かもしれませんが、病み上がりの身体をおして式典に臨まれる陛下を批判する形になり、国民の反感しか生まれない。彼等の「運動」にとってもマイナスなのに、何故わからないのでしょうか。
そもそも、いまどうしてもやらなければならないデモではない。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私もその話は聞いております。
仰るとおり、多くの国民の思いを逆なでするような許し難い行為ですね。
イデオロギー以前の問題です。
4月7日の講演について
白鷺 はじめまして、こんにちは。
4月7日の茨木市での講演会ですが、演題が先帝陛下のご誕生から終戦まで となっておりますが、日本国憲法制定過程についてのお話もお伺い出来るのでしょうか?
ちなみに黒田先生は現行憲法改正を支持しておられますか? 又は護憲、或いは無効/破棄を支持しておられるのでしょうか?
白鷺さんへ
黒田裕樹 はじめまして、お言葉有難うございます。
日本国憲法の制定過程については、今回の前編でも、後日に開催する後編でも直接的には紹介しません。
その代わりといってはなんですが、拙ブログにおける「第22回歴史講座」で詳しく検証しております。
また、憲法改正についてですが、先述の歴史講座で書いているように「公教育に携わり、学習指導要領に基づいて授業を行う」立場としては、憲法の内容が現状と合わなくなっている今では積極的に改正すべきである、と判断しております。
ただし、我が国に生を受けた日本人としての誇りを何よりも大切に考える「一個人」の立場としては、成立の過程において明らかに常軌を逸している日本国憲法を改正することで、逆にその内容を追認してしまうような行為は厳に慎むべきではないかと考えております。
なお、上記の考えはあくまで個人的な意見であり、拙ブログにおいて強要するものではないことを申し添えます。
憲法論議
白鷺
黒田先生、
お返事有難うございます。
ご提示頂きました第22回の講義内容を拝読させて頂きました。先生はお立場上は憲法改正を推進しておられるようですが、講義内容からすると無効論支持のように見受けられます。
ちなみに私も無効論を支持しております。
憲法無効論は現実的ではないと仰る方がよくおられますが、改憲のほうがよほど実現するまでの道のりが長く、現実的ではないと思うのですが、先生は無効論についてどのようにお考えでしょうか?
白鷺さんへ その2
黒田裕樹 拙講座をご覧いただきまして有難うございます。
無効論のみを切り離して考えれば非現実的で法律を無視した手法にも見受けられるのに対して、拙講座で紹介したとおり日本国憲法制定に関する複雑な経緯を考慮すれば、真の独立国となるためにも自主憲法の制定が必要であり、その意味では被占領中に有無を言わさずつくらされた憲法は意味がない、という解釈も決して不可能ではないと思います。
ただし、以上はあくまで「個人的な見解」であり、本来の授業やブログ上で紹介するかどうかは慎重に判断すべきと考えております。
なお、日本国憲法無効論については4月7日の講座とは直接関係がございませんので、これ以上の流れにつきましては恐れ入りますが別の機会に改めて論じさせていただきます。
憲法論議
白鷺
黒田先生、
お返事有難うございました。
先生の仰るとおり、憲法改正の議論をする上で現行憲法の制定過程から審議することが不可避であると思います。
いつか先生と個人的に憲法についてのお話を伺う機会があればと期待しております。
今後も頑張って下さい。
白鷺さんへ その3
黒田裕樹 こちらこそ有難うございました。
もし講座などでお会いする機会がございましたら、その際にでもお話しできるかもしれませんね。
しかし、余(あま)りに多くの案件(あんけん、問題となっていることがらのこと)がご自身に殺到(さっとう)したため、現実には中央の機関として行政や司法などの重要な政務をつかさどる記録所(きろくしょ)や、土地に関する訴訟(そしょう)を扱(あつか)った、旧幕府の引付(ひきつけ)に相当する雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)などを置かれました。
この他にも北条氏を滅ぼした勲功(くんこう)に対する恩賞(おんしょう)を定めた恩賞方(おんしょうがた)や、軍事や警察をつかさどる武者所(むしゃどころ)が置かれたほか、地方にはこれまでどおり国司(こくし)と守護(しゅご)が並(なら)んで置かれました。
また、天皇ご自身が軍隊をお持ちでない代わりに子の護良親王を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたほか、旧幕府の本拠地(ほんきょち)であった関東や東北にはそれぞれ鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)や陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)が置かれました。
後醍醐天皇によるこれらの新しい政治は、幕府滅亡の翌年(1334年)に改められた建武(けんむ)という年号から建武の新政(けんむのしんせい)と呼ばれています。





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オバrev いよいよ建武の新政ですね。
なかなか皆が納得する恩賞とはいかなかったんでしょうね。特に尊氏、楠木正成、新田義貞らに対する恩賞は差があったんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 恩賞の中心は、ほとんどが皇族や公家でした。
武士には高氏などのほんの一部にとどまったことが、後に大きな影響を与えることになってしまうのです。
もっとも、高氏には天皇から「破格の恩賞」が与えられるのですが…。
ぴーち おはようございます!
そうですよね。何もかも自分一人でこなそうとしても、あまりに多くの案件が殺到すれば、対処に苦慮してしまいますものね(^_^;)
この頃から次第に現代に至るまでに継続されている役所が確立されていったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに役所に任せておけば大丈夫ですからね。
自身が優秀であると思う人物は、何もかも自分でやろうという傾向がありますが、それは人間不信にもつながっていますね。
秦の始皇帝などがその例だと思います。