討幕の軍勢が自然と増加していった1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出(だっしゅつ)され、伯耆(ほうき、現在の鳥取県西部)の名和長年(なわながとし)を頼って挙兵(きょへい)されました。この事態を重く見た幕府は、北条氏と姻戚関係(いんせきかんけい、婚姻によってできた血のつながりのない親戚=しんせきのこと)にあった有力御家人を現地へ派遣(はけん)しましたが、実はその御家人こそが足利高氏(あしかがたかうじ)でした。
足利高氏は清和源氏(せいわげんじ)の一族であった源義家(みなもとのよしいえ)の子孫であり、北条氏の御家人の中でも名門の出身でしたが、鎌倉幕府の威信が地に堕(お)ちた現実を見極(みきわ)めた高氏は、幕府に背(そむ)いて謀叛(むほん)を起こすことを決断しました。
高氏は他の反幕府勢力を率(ひき)いて京都へ入り、1333年5月7日に六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅(ほろ)ぼしました。同じ頃、高氏と同じ源義家の血を引く新田義貞(にったよしさだ)も上野(こうずけ、現在の群馬県)で討幕の兵を挙(あ)げて鎌倉へ向かいました。
義貞は鎌倉を脱出した高氏の子の千寿王(せんじゅおう、後の足利義詮=あしかがよしあきら)と合流して、一緒(いっしょ)に鎌倉を攻めました。5月18日には北条氏最後の執権である第16代の北条守時(ほうじょうもりとき)を滅ぼし、22日には得宗の北条高時(ほうじょうたかとき)や内管領(うちかんれい)の長崎高資(ながさきたかすけ)らを自害に追い込んで、源頼朝(みなもとのよりとも)以来約140年続いた鎌倉幕府はついに滅亡(めつぼう)しました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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サクラ 懐かしい響きです。名和長年。
小学校の時、三つの学校が合同で船上山への登山をしました。御存じかもしれませんが、後醍醐天皇が立て籠もった山ですよ。茶園原という原っぱで肝試しとかしました。巨大な石を山の上から転がして、佐々木清高の兵を殺戮したところです。
鳥取が歴史の表舞台に立つことは稀ですから、こういうのが出てくると嬉しくなります。
ぴーち おはようございます!
足利高氏は、元はと言えば幕府側の人間であって、
幕府からは信頼されていた存在が、突然謀反を起こしたとなると幕府側からすれば、密かに天下人の野望を燃やしていた獅子身中の虫であった訳ですね。
応援凸
サクラさんへ
黒田裕樹 そうですね。
地元が歴史に出てくれば嬉しいものです。
後醍醐天皇が籠られた、というところも一つの名誉ではありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この場合の高氏の立場は、まさに仰るとおりですね。
その中には「源氏の血を引く自分こそが天下人にふさわしい」という自負もあったと思われます。
高氏の決断は決して許されないものではありませんが、こうした姿勢が後々まで彼を「裏切り者」にしてしまうところが歴史の皮肉でもあります。