後醍醐天皇は討幕(とうばく)の計画を二度も進められましたがいずれも失敗され、幕府によって隠岐(おき)へと流されました。なお、1324年に起きた一回目の討幕は正中の変(しょうちゅうのへん)と呼ばれ、二回目の1331年は元弘の変(げんこうのへん)と呼ばれています。
後醍醐天皇が隠岐に流された後、鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)を皇位にたてましたが、後醍醐天皇が退位を拒否(きょひ)されたため、お二人の天皇が並立(へいりつ)されることになり、これが南北朝時代のきっかけとなったのです。
さて、後醍醐天皇が京都から追放されてしまわれたものの、子の護良親王(もりよししんのう、または「もりながしんのう」)が父の意志を継(つ)ぐべく諸国の兵を募(つの)って幕府に抵抗(ていこう)し続けたほか、幕府に対抗する武士団という意味の悪党(あくとう)の一人であった楠木正成(くすのきまさしげ)は、河内(かわち、現在の大阪府東南部)の赤阪城(あかさかじょう)や千早城(ちはやじょう)に立てこもって幕府の大軍と戦いました。
正成はわずかな兵で幕府軍に抵抗を続けましたが、その貢献度(こうけんど)は絶大でした。なぜなら鎌倉幕府は武家政権ですから、大軍で攻(せ)め込みながらわずかな兵の正成の軍勢(ぐんぜい)に勝てないということは、それだけ幕府の威信(いしん)に傷がつくからです。事実、正成がしぶとく戦っている間に全国各地で討幕の軍勢が次第に集まってきました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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なおまゆ こんばんわ。
いつも有難うございます。
楠木正成・・・。
真の名将にもかかわらず、とりあげられることが少ない武将ですね。
報われることの少なかった悲劇の武将について今は学校で学ぶ機会はないのでしょうか?
是非、その生涯と思想をクローズアップして欲しいです。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 楠木正成は戦前までに名将と称えられてきただけに、戦後の反動がいまだに大きいようですね。
イデオロギーとは全く別の問題で彼を評価すべきですので、私も残念に思っております。
ぴーち おはようございます!
ここでまた「影の重鎮?」後醍醐天皇が
登場してきましたね(^_^;)
彼も相当しぶといイメージがありますが、
彼の味方についた者たちも、性格がしぶとい
人材が集まっていたんですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 後醍醐天皇のしぶとさもそうですが、彼の周りの武将たちもしぶとかったのは、やはり「鎌倉幕府には任せておけない」という拒否反応が強かったからではないかと思われます。
そのしぶとさがやがて大きな影響を与えるんですよね。