「優しい人」「気前の良い人」といえば人間が本来持つべき性格であるとされ、私たち一般人の間では好かれる傾向(けいこう)にありますが、政治の世界においてはマイナスでしかありません。なぜなら、尊氏の「優しさ」は政敵(せいてき)を抹殺することをためらわすことで「優柔不断」となり、結果として幕府の将来に暗雲をもたらしてしまったからです。
尊氏が亡くなった1358年において、幕府の勢力が及んだ地域は鎌倉と京都が目立つのみであり、中国地方は足利直冬が、九州は後醍醐天皇の子である懐良親王(かねよししんのう、または「かねながしんのう」)が実質的な支配を固めていました。
しかも、三種の神器を所有している南朝こそが正当であるとみなされたことで、尊氏の征夷大将軍を保証する北朝の権威が低くなり、それと連動して足利将軍の地位も低く見られる傾向にありました。
さらには絶対的なカリスマ性を持っていた源頼朝と比較して、源氏の名門出身ではあったものの将軍として君臨(くんりん)するにはただでさえ器量不足だった尊氏が、他の勢力に「気前良く」領土を与えたことで、やがては守護大名が幕府のいうことを聞かなくなるという結果をもたらし、足利家そのものの地位をさらに低下させてしまいました。
こうした尊氏のいわゆる「負の遺産」をどう処理(しょり)すればよいのかという大きな課題が、室町幕府代々の将軍を悩(なや)ませるとともに、我が国の歴史にも様々な影響を及ぼしていくのです。(第30回歴史講座に続く)
(※第29回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[4月17日]からは通常の更新[=明治時代]に戻ります)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
なるほど、同じ地位の低さから天下人にまで
伸し上がった秀吉との違いは、そのお人好しの性格が厄しての事だったのですね。
自分の野心を叶える為の代償は、大多数を敵に回しても良いという覚悟でなければならないはずが、野心は叶えたい。けれど周りの人からは憎まれたくない・・という欲張った考え方は両立しなかったという事になるでしょうかね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 秀吉はお人よしでありながら出世欲が強く、信長の死後は野望をむき出しにして天下を取りました。
このあたりが尊氏との大きな違いですね。
将軍として君臨し、天下を取る気概を持ちたいのであれば、周囲の目を気にして「良い子でいる」などということはできない、というわけですね。
しきしま 足利尊氏の「優しさ」は、その場だけ見れば大人の対応の様にも映りますが、戦い抜いて世を治める立場としては、トータル的に戦を長引かせる結果となってしまったのですね(戦が長引くという事は、傷つき斃れる人も多くなる)。
それだけでなく、その後の室町幕府の立場も不安定にしてしまい、幕府が不安定という事は、民に回る利益も不安定になっていたかもしれないんですね。
政治には厳しさも(絶対)必要だという事を学びました。
しきしまさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
個人としての付き合いならともかく、政治家の「優しさ」は時として多くの人々を不幸にしてしまいます。
一見非情に見えることでも、長い目で見れば国益にかなう。
それだけの覚悟を、政治家だけでなく私たち国民も持たなければいけません。
南朝の勢力が賀名生へ逃げ帰った後も、北朝の三人の上皇や皇太子は連れ去られたままであり、天皇であることを証明する三種の神器も南朝に奪われたままでした。
義詮は仕方なく、京都に残っておられた光巌上皇の第二皇子の弥仁親王(いやひとしんのう)を神器も後見役となる上皇の存在もなしで無理やり後光厳天皇(ごこうごんてんのう)として即位させましたが、天皇の正当性としては神器を所有する南朝に遠く及(およ)ばず、北朝の権威(けんい)が著(いちじる)しく低下するという悪影響をもたらしてしまいました。
ちなみに、こうした北朝の権威の低下が後の「ある足利将軍」の「大きな野望」へとつながっていくことになります。
なお、尊氏は翌1353年にようやく京都へと戻りましたが、その後も直冬の攻撃を受けるなど混乱が続いた後、自分の代で平和を達成できぬまま、1358年に54歳で死去しました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この足利尊氏については、自分自身、思い当たることがあり、
大変、勉強になりました。
私も
『八方美人で、優しいだけで、リーダーシップ力がない。』からです。
その結果
いつも、
自分自身も疲弊し、周りも迷惑を掛けています。
人間は、神様ではないから、八方美人自体、
現実的には、不可能かもしれませんね。
自分が決断を持って、行動すると必ず、反対者が出て、争いが起こることは、事前に考えていないといけませんね。
本当に歴史は、人間が生きる教訓がありますね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、そうなんですか。
現代においても歴史は様々な教訓を残してくれますね。
私も他人様のことは言えませんが…。
オバrev 個人的事情で忙しかったものですからご無沙汰してました。
1週間分をまとめて見ましたが、まず義詮の読み方が分かりません(T_T)読み仮名がなかったように思いますが?
尊氏がそういう性格だったとは意外ですね、というか珍しいですね。戦争にどう戦うかは得意だったけど、それ以外はからきしダメだったんですかね。
ある足利将軍って、TVにもでていたあの人ですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 年度替わりですからね。お忙しい中お言葉くださって有難うございます。
義詮は「よしあきら」と読みます。4月6日の更新で紹介したんですが、かなり前ですからね。どうも失礼しました。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-1251.html
仰るとおり、根っからの武人にしては珍しい性格です。「それ以外はからきしダメ」とは手厳しいですが、あながち間違いではないかもしれません。
> ある足利将軍って、TVにもでていたあの人ですか?
さぁ、誰でしょうか(笑)?
第30回歴史講座までしばらくお待ちくださいm(_ _)m
不安定な幕府。
晴雨堂ミカエル そのある足利将軍にしても、全国を平定できた訳ではありませんから、盤石の江戸幕府とは雲泥の差ですね。
2つの朝廷、幕府も内部に鎌倉という「幕府」を設けましたし。この時代は御所とか公方があちこちにできて、政庁の価値が下がるのは戦国時代の前触れでもありますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、常に不安定な要素を抱えていた室町幕府はとても天下を取る器ではなかったということになります。
戦国時代の前兆も、確かに尊氏の時代からうかがえますね。
ぴーち おはようございます!
肝心要の三種の神器が奪われてしまっては
無理やり天皇に仕立てて、体裁を繕っても
「仏作って魂入れず」。
尊氏の生き方も結局そんな最後を迎えてしまった
のですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
尊氏自身の優柔不断で、何もかもが体裁だらけの中途半端な最期になってしまいました。
そのツケが後の幕府将軍に重くのしかかってしまいます。
南朝は尊氏が遠征した隙をついて北畠親房の指揮(しき)によって京都へ攻め込み、幕府予備軍であった義詮の軍勢を敗走させると、勢いに乗った南朝は、北朝の三人の上皇と皇太子を自分たちが追われていた賀名生へと移しました。
かくして後醍醐天皇が吉野朝廷を開いて以来、後醍醐天皇の子の後村上天皇(ごむらかみてんのう)によって16年ぶりに南朝が京都を支配するようになったのです。1352年閏(うるう)2月のことでした。
しかし、南朝の天下は長続きしませんでした。体勢を立て直した義詮が京都へ再び攻め込んだからです。南朝はしばらくの間持ちこたえたものの同年5月には追い落とされ、後村上天皇や親房は再び賀名生へと逃れていきました。ちなみにこの後、南朝は一度も京都を回復しないまま1392年に北朝との合一(ごういつ)を迎えることになります。
なお、南朝と義詮とが争っている間に、尊氏と戦って敗れた直義が同じ1352年2月に急死しました。尊氏による毒殺説もありますが、直義を討つために南朝と和睦するなど幕府政治の根幹(こんかん)を揺(ゆ)るがした後となっては、すべてが手遅(ておく)れでした。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
諸葛菜@孔明死後の三国志はお任せ! はじめまして!
諸葛菜と申します。
ランキングからお邪魔させていただきました。
室町幕府の成り立ちを知りたいとおもって、吉川英治の太平記を全巻読みました。
わかりやすい記事で理解できました。
室町時代を読むと何となく気分的に消耗するのですが(笑)。戦国時代との違いはなんなのかなあと考えてしまいます。
諸葛菜さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへお越しくださって有難うございます。
室町時代は進めば進むほど分かりにくくなりますし、また戦国時代へ向かうということは争いが多くなりますし、どちらかといえばネガティブなイメージしかありませんからね。戦が続くものの、天下統一へと進んでいく戦国時代とはベクトルが真逆なのが原因かもしれません。
真田広之の尊氏。
晴雨堂ミカエル 大河ドラマ「太平記」の尊氏は戦に明け暮れて人生を消耗していく様がよく表れていました。
後醍醐天皇や楠木正成らに感化されて理想に燃え戦う青年高氏。鎌倉幕府を倒した後の朝廷への反旗、亜相北畠との戦い、直義と師直の抗争、直冬との戦。
従来の大河ドラマと違い、勝っては負け、負けては勝ちの繰り返しが延々続く。最後は病と歳ですっかり老人となった尊氏は輿に乗ってでも指揮を執る痛々しい姿。
けっこう見応えありますよ。
かつての皇国史観では、幕府を裏切って朝廷につき、その朝廷を裏切って天下を奪った権謀まみれの野卑なキャラでしたが、そういう意味で「太平記」は画期的でした。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 現実の尊氏に近そうなキャラですね。
前にも書きましたが、CSでの放送が待ち遠しいです。
ぴーち おはようございます!
この時代は随分と目まぐるしい展開が続いていたのですね。
当然ながら私の頭の中も混戦気味です(^^ゞ
しかしながら
人を騙す人の方が悪いとは言いますが、騙されてしまう方にも、相手の本意を見ようとしなかったり、或いは自分にはそういう災難は絶対降りかからないだろうと頭から信じこんでいたりする面があるので、尊氏もその優しさから、相手を容易く信じこんでしまう所があったようですね。
詰めの甘さが露呈してしまっているように感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、相当めまぐるしいですね。
室町時代の分かりにくさを象徴しているようです。
騙し合いが良いことだとは言えませんが、確かに尊氏の優しさが「甘さ」となってしまった感があります。
そもそも宿敵ともいえる南朝が、尊氏の出した条件で満足するとは思えないはずなのですが、それもこれも原因は尊氏にありますからね。
その後、一旦(いったん)は和議が成立したものの、再び尊氏が直義を東西から挟(はさ)み撃(う)ちで倒そうとすると、尊氏の計略(けいりゃく)に気づいた直義は京都を脱出して北陸伝(づた)いに鎌倉へ攻め込もうとしました。
武家政権発祥(はっしょう)の地である鎌倉を奪われては尊氏の立場がありません。尊氏は直ちに直義軍を追撃(ついげき)しようとしましたが、自分が遠征している間に直義派となった南朝に京都を制圧(せいあつ)されて尊氏追討の綸旨を出されれば、自分が朝敵(ちょうてき)となって滅亡への道を歩んでしまうのは火を見るより明らかでした。
進退窮(きわ)まった尊氏は、北朝から征夷大将軍に任じられているにもかかわらず、それまで敵対していた南朝と手を結んで、自分の味方につけるしか方法がありませんでした。以前には後醍醐天皇、今回は直義といった自分に敵対する勢力を政治的に抹殺(まっさつ)することなく「生かして」しまったことで、尊氏は多くの血を流したうえにやっとの思いで構築(こうちく)した政治のシステムを、自らの手で破壊(はかい)せざるを得なかったのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、仮説ですが、
おそらく、足利尊氏は、征夷大将軍になり
幕府さえなれば、それで、天下を握れると考えていたのではないでしょうか。
それゆえ、北朝から、征夷大将軍に任じられているのに南朝と結んでも、問題がないと考えたような気がします。
官職が征夷大将軍であっても、源頼朝のように
しっかりとしたシステムを創らないと完全に有名無実化ですね。
どちらにしろ、足利尊氏は、現実にたいして、甘すぎましたね。
ぴーち おはようございます!
時代は違いますが、つい先日も
義経と頼朝を生かしてしまったが故に滅びた
平家のお話も、結果的に清盛が掛けた情けが仇となってしまったと伺ったばかりですが、何やら
共通するものがありますね(^^ゞ
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそのような甘い一面がありますね。
南朝になびいたのも、仰るとおり征夷大将軍の重みすら理解できていない節があります。
いずれにせよ、ここに来てそれまでの甘さの「ツケ」が一気に噴き出した感がありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
思えば、清盛も女性の影響があったとはいえ、甘い武将ではありました。
尊氏も清盛も、弟を容赦なく殺した頼朝とは雲泥の差ですね。
そんな折、尊氏の実子(じっし)でありながら父に嫌(きら)われ、直義の養子となっていた足利直冬(あしかがただふゆ)が尊氏派によって九州へ追われると、地元の勢力を味方につけて尊氏に反旗をひるがえしました。
九州の激変(げきへん)ぶりに驚(おどろ)いた尊氏が1350年に直冬を討伐(とうばつ)すべく自らが遠征(えんせい)すると、その隙をついて直義が南朝に降伏(こうふく)しました。南朝はこの頃までに尊氏派の武将によって吉野を追われて賀名生(あのう、現在の奈良県五條市)まで後退(こうたい)していたのですが、直義の降伏で息を吹き返すことになりました。
直義は反尊氏派の勢力を引き連れて尊氏の子の義詮が守っていた京都へ攻め込み、敗れた義詮は尊氏を頼って備前(びぜん、現在の岡山県)へと落ち延(の)びました。室町幕府が成立してから10年以上も経(た)っていながら、天下は再び大きく乱(みだ)れ始めたのです。なお、これ以降の幕府の内乱は観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれています。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
武断派と文治派の対立は、いつの時代でも
あるのが当たり前であり、
それでも、リーダーが存在している時は、
その争いは、表面化しないのが通常だと思っていました。
◆ 豊臣秀吉も文治派と武断派は対立していましたが、豊臣秀吉が存在している時は、組織としては、機能していました。
◆ 徳川家康も文治派と武断派は、対立していましたが、組織としては、機能していました。
そう考えると
足利尊氏が存在しているのに、表立った反乱がおこるというのは、
正直、足利尊氏のリーダーシップ力を疑ってしまいます。
青田さんへ
黒田裕樹 別の歴史を比較すれば、仰るとおり尊氏のリーダーシップのなさが浮き彫りになりますね。
資格のない者が上に立った悲劇ともいえるでしょうが、当時の人々にとってはたまったものではありません。
ビジョン
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
足利尊氏には、『これから、どうしたいのか』というビジョンがイマイチ見えてきません。
たとえば、
源頼朝は、武家政権の設立。
織田信長は、天下布武。
などが見えるのですが、
足利尊氏がビジョンとして、武家政権を創るという強い信念があるなら、行動があまりにも
動きが遅いです。
これは、今の政治家も同じかもしれません。
つまり、ビジョンが???です。
今の政治家は
派閥やグループの顔色ばかりを観て、大臣や元総理がアホなことを繰り返しているので、
現場は大混乱です。
民主主義というのは、民意を反映させるので、
どうしても、ややこしい根回しは、必要だとは
思うのですが
それでも、どうも頼りない気がしてしまいます。
いったいこれから、何をしたいのかがイマイチ見えてきません。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにビジョンが見えてこないですね。
尊氏の場合、当初は鎌倉で幕府を開いて源氏や北条氏の政権の失敗を生かした政治を行う意思はあったと思われますが、講座で書いた通りの理由で京都で幕府を開いたことですべての予定が狂ってしまい、予定していたビジョンがグチャグチャになってしまったとも言えそうです。
いずれにせよ、政治に明確なビジョンが必要だということは、尊氏や現代の政権を見れば一目瞭然ですね。
ぴーち おはようございます!
尊氏の実子である直義はどうして父に嫌われていたのでしょうか?
尊氏の優柔不断の性格以前の親子関係に不備が
あった為に子供に命を狙われる事になってしまったと解釈しても良いでしょうか。
まあ、武将の親子関係でなくとも、親子の対立によって子供が外へ出ていくという事は何処の家庭でも起こりうる事ではあると思いますが、親に対して反旗を翻し、父親を亡き者にしようと考える程の深い恨みの根源は何だったのか気になりました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 直冬が尊氏に嫌われている理由として考えられているものとして、直冬の母の身分が低かったからだという拙がありますね。いずれにせよ、尊氏に疎んじられているのを哀れに思った直義が、自分の養子として迎えたようです。
そんな過程がありますから、自分の養子で本来ならば兄の子を、その兄自身が討とうとすることが耐えられず、それまでの鬱憤(うっぷん)が爆発して尊氏を裏切った、とも考えられますね。
その理由として、まずは幕府を正当なものと認める後ろ盾(うしろだて)となる朝廷が二つに分裂(ぶんれつ)していたことが挙げられます。北朝は本来の朝廷の都である京都におわしましたが、本物の三種の神器は南朝に存在するとされたこともあって、尊氏に従(したが)った新興勢力の武士の中には北朝の正当性に疑問符(ぎもんふ)をつける者もいました。
また、武士にとっての本拠地は鎌倉などの東国(とうごく)であるため、尊氏も本当であれば関東で幕府を開きたかったのですが、南朝がいつ北朝に取って代わろうとするか予断(よだん)を許さない状態が続いたため、やむなく京都で幕府を開いたのです。このため、鎌倉には尊氏に代わる別の組織として鎌倉府(かまくらふ)が置かれたのですが、関東で鎌倉府に権力が集中したことによって、やがて幕府と対立するようになっていきました。
さらには尊氏自身の資質(ししつ)にも問題がありました。尊氏は根っからの武人(ぶじん)であったため、実際の政治は尊氏の弟である足利直義(あしかがただよし)が代行していましたが、その一方で武将にしては珍(めずら)しく「優(やさ)しくて良い人」だった尊氏は、功績(こうせき)のあった武将に気前良(きまえよ)く領地を与えていました。しかし、領地が増えた武将がこの後に様々な権利を得ることによって守護大名(しゅごだいみょう)と化したことによって、こちらも幕府のいうことを聞かなくなっていくのです。
加えて、南北朝の動乱が50年以上も続いてしまった大きな原因も、実は尊氏の「優しさ」にありました。尊氏は自身に偏諱を賜(たまわ)られた後醍醐天皇に対してどうしても非情になれず、隠岐などに追放して政治生命を断(た)つことが出来なかったゆえに、天皇に吉野に逃(に)げられて南朝を開かれてしまったからです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
中年の星 足利尊氏が優しい人だったとは意外な感じです。室町幕府がなぜ京都で開かれたのか、
ずっと疑問に思っていたのですが、黒田先生の記事を読んで理解が出来ました。
中年の星さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
幕府の成立やその後の歴史に、人物の性格が深くかかわっていることは盲点ですね。
尊氏の「優しさ」は、幕府のその後の運命も大きく変えてしまいます。
地方のリーダーなら
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、足利尊氏の『優しさ』を考える時
地方豪族のリーダーなら、『優しい』のは
良かったと思います。
ただ、幕府という全国の武士のリーダーとなると
『優しい』のは、アキレス腱になりますね。
たとえば、(独裁病もありますが)
◆ 織田信長も京都に上るまでは、家臣にも敵にも甘い『優しい』武将でした。
→ 冷酷なイメージは、京都に上洛して以降の
行為から、そう思われているだけです。
◆ 豊臣秀吉も最初は、『人たらし』と言われるほど
『気配りのできる優しい武将』でしたが、
関白になると、非情な人間になりました。
◆ 徳川家康も、豊臣秀吉が亡くなるまでは
『律儀者』と言われました。
それが、豊臣秀吉が亡くなった後は、
『非情で、汚い手を使いまくる狸親父』に変わりました。
足利尊氏も最初は、『優しい』ことは、仕方ありませんが、その後も『優しさ』を越えることが出来なかったのは、足利尊氏の甘さですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
優しくないことが平和につながるのは何とも言えない皮肉ではありますが、非情に徹することが結果的に多くの人命を救うことは歴史が証明していますからね。
真田尊氏。
晴雨堂ミカエル 大河ドラマ「太平記」、真田広之氏の尊氏はまさにNHK得意の「いい人」。
大河ドラマの主人公はみな良い人になるので史実とのギャップに不快感を抱くこと多々ですが、この「太平記」は納得のデキでした。
とにかく良い人なので、身内や家臣から慕われると同時に、弟直義・執事師直・盟友佐々木判官がイラついている様が良かった。
大河ドラマにしては比較的リアルに権力闘争を描いていましたね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、「良い人」であるがゆえに史実に近くなるんですね。
かつてご紹介くださった「草燃える」は運良くCSでの視聴がかないましたが、太平記もいつかは見てみたいものです。
ぴーち おはようございます!
尊氏が京都で幕府を開いたのは、それなりの理由があったのですね。
確かに人に対する優しさは大切かとは思いますが、何かを決断しなければならない時には、その優しさが邪魔をしたり、またその優しさに漬け込まれ、足を引っ張られてしまったりする事も良い人の欠点であり、致命傷になる事もありますよね。
野望に生きると決めたのなら、徹底的に野望に徹する。
悪役を演じると決めたら、徹底的に悪役を演じきる覚悟が必要だったのかも知れません。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、個人の感情はともかく、尊氏は政権維持のために「憎まれ役」になる必要がありました。
しかし、彼にはどうしてもそれができませんでした。
その結果、室町幕府のやることは何もかもが中途半端になって…続きは今後の更新で明らかにしますが、とんでもないことになってしまうんです。
都落ちした尊氏でしたが、九州で兵力をまとめると持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)から院宣(いんぜん)を受け、自らの軍の正当性を確保したうえで、再び京都を目指して東上(とうじょう)しました。
尊氏の動きに対して、後醍醐天皇は楠木正成に摂津(せっつ)の湊川(みなとがわ、現在の兵庫県神戸市湊川)で尊氏軍を迎(むか)え討(う)つよう命じられましたが、正成は尊氏に敗れて自害しました。この戦いは湊川の戦い(みなとがわのたたかい)と呼ばれています。
尊氏が再び京都を制すると、後醍醐天皇は比叡山(ひえいざん)に逃(のが)れられ、光厳上皇の弟にあたる光明天皇(こうみょうてんのう)が新たに即位されたことで、再びお二人の天皇が同時にご在位されることになりました。後醍醐天皇は京都に幽閉(ゆうへい、閉じ込めて外に出さないこと)された後、尊氏との和睦(わぼく)に応じて天皇であることを証明する三種の神器(さんしゅのじんぎ)を光明天皇に渡されましたが、その後に隙(すき)を見て京都を脱出され、奈良の吉野(よしの)へ向かわれました。
吉野に到着(とうちゃく)された後醍醐天皇は、光明天皇に渡された三種の神器は偽物(にせもの)であると宣言(せんげん)されて、新たに朝廷を開かれた後、1339年に崩御されました。こうして京都の朝廷(=持明院統)と吉野の朝廷(=大覚寺統)とが並立し、以後約60年にわたって争いを繰(く)り返す南北朝の動乱が本格的に始まったのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
日本の国土全体を舞台にして、追い詰め合う後醍醐天皇と尊氏の一連の流れが手に取るように分かりました。理解しやすい記事をいつもありがとうございますm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそいつも励ましのお言葉を有難うございます。
文章としては短いですが、その中で一連の大きな流れをほぼ入れることができて良かったです。
このように身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを偏諱(へんき)といいます(なお、それまで名乗っていた高氏の「高」は、北条高時から同じように偏諱を受けていました)。天皇が身分の低い者、ましてや「ケガレた者」として虫けらのような存在であった武士に対して偏諱を受けさせるのは空前絶後(くうぜんぜつご、過去にも例がなく、将来もありえないと思われること)のことでした。
しかし、尊氏が本当に欲しかったのは征夷大将軍の地位であり、目指していたのは「武士のための政治」を自分が行うことでした。源義家の血を引く武家の名門の子孫である自分自身こそが、北条氏に代わって政治の実権を握るにふさわしいと考えていたのです。
そんな折、1335年に北条高時の子の北条時行(ほうじょうときゆき)が関東で中先代の乱(なかせんだいのらん)を起こし、一時期は鎌倉を占領(せんりょう)しました。尊氏は乱の鎮圧(ちんあつ)を口実(こうじつ)に後醍醐天皇の許可を得ないまま鎌倉へ向かって時行軍を追い出すことに成功すると、そのまま鎌倉に留(とど)まって独自に恩賞を与え始めるなど、後醍醐天皇から離反(りはん)する姿勢を明らかにしました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
足利尊氏は、北条氏に仕えていた時から
ずっと面従腹背の姿勢を崩さずに、立身出世を目指して来たのですね。
虎の威を刈る狐の如く見えるのは私だけでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 尊氏にはもちろん尊氏の考えもあったでしょうが、仰るようなイメージがどうしてもついて回りますね。
結局は後醍醐天皇をも裏切ることになるのですが、このあたりも尊氏の印象を損ねてしまっているようです。
意外でした
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
足利尊氏が、偏諱を受けたのは、武士として
過去に例がないというのは、驚きました。
ということは、
太政大臣にもなった平清盛
征夷大将軍になった源頼朝
も偏諱は、なかったのですか。
ということは
ケガレタ存在の武士には、官位を与えることは
あったも、偏諱はなかったのですね。
よく、考えたら、織田信長、徳川家康、徳川歴代将軍も天皇からの偏諱は、受けてませんね。
後醍醐天皇の足利高氏への信頼は、絶大で、
まさに、愛情に近いものだったのですね。
青田さんへ
黒田裕樹 皇族将軍の宗尊親王から諱を受けた北条時宗のような例はありますが、時の天皇から直接受けた武士としては尊氏だけですね。
それだけに、後醍醐天皇を裏切ったことが特に戦前までにおいては悪評の原因となってしまっているのが何とも言えません。
ててててっちゃん 足利高氏が尊氏となったとは知りませんでした。
なかなか興味深いですな。
ててててっちゃんさんへ
黒田裕樹 高氏から尊氏への改名はあまり知られていませんからね。
後醍醐天皇の期待度の大きさがうかがえますが、それだけに裏切ってしまうとなると…。
ご自身が幕府を倒すために何度も討幕の兵を挙げられ、結果として建武の新政が実現できたことは、後醍醐天皇にとっては当然のことであり、このまま天皇による新政が未来永劫(みらいえいごう)続くとお考えでした。
しかし、後醍醐天皇に味方して幕府を倒すのに協力した武士たちは、勢力が衰(おとろ)えて政治を任せられなくなった幕府の代わりに、他の武士による新しい組織のもとで、これまでどおりの「武士による政治」を続けることを望(のぞ)んでいました。
それなのに、後醍醐天皇は皇族や公家(くげ)のための政治のみを実行されるだけでなく、これまで守られてきた土地の所有権などの武士の権利がないがしろにされたことで、建武の新政に対する武士たちの不満が次第に高まってきました。
平家による政権が貴族化した際もそうであったように、いくら武力などで世の中を支配したところで、それが国民の理解を得られなければ、その支配は絶対に長続きできないのです。この場合も、当時の国民の代表たる武士の期待に応(こた)えられなかった建武の新政にはかげりが見え始め、やがてそんな不穏(ふおん)な空気を察(さっ)したかのように、後醍醐天皇から「最高の栄誉(えいよ)」を受けたはずの一人の武士が、建武の新政に反旗(はんき)をひるがえしたのでした―。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
晴雨堂ミカエル 20年近く前、大河ドラマ「太平記」で詳しく描写されていました。
真田広之氏が尊氏を演じ、スタント無しで流鏑馬や馬を寝かして草むらに隠れる騎馬術を魅せてくれました。
弟直義をいま離婚問題で揺れている高嶋弟。真田尊氏と並んだら本当の兄弟の様でした。
後に尊氏と権力闘争を行い、兄弟で言い争う様が迫力。
北条守時の妹で尊氏の妻は沢口靖子氏、清純な少女時代から優柔不断な尊氏の尻を叩く妻へと変化、今のキャラの兆しがあります。
当時二大美少女といわれた宮沢りえ氏が尊氏の恋人で後の足利家争乱の元になった直冬の母。
後藤久美子氏が北畠顕家に扮し軍事貴族を演じ意表突く。
近鉄長野線では楠木正成に扮した武田鉄矢氏のポスターがあちこちに貼られました。
大河にしては珍しい時代を扱ったわりに視聴率が良く、ブームになっていたように記憶しています。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 大河ドラマの太平記は名作のようですね。
近頃の大河ドラマの質の低下が叫ばれる中、昔に返って良作のドラマを見た方がためになるかもしれません。
さて、4月8日(日)に予定されておりましたカルチャースクールにおける講座ですが、諸般の事情で中止となりました。
当日を楽しみにお待ちなさっておられた皆様には大変申し訳ございません。
また機会がございましたら、改めてご案内申し上げます。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
|
キキコ こんにちは~(^^)
小阪って、東成と近いですよねえ~♪
キキコさんへ
黒田裕樹 はい、結構近いですよ(^^♪
よろしければぜひお越しくださいね(^_^)v
おお!?
クラチー 気がつくと、ブログ内容が講演会のお知らせ祭りになってますね!?
ひょええ~。
(@A@;)
3月後半から4月にかけて、
先生の知名度が一気に上がりますね!
無理をせず、体調に気をつけて頑張ってください!
クラチーさんへ
黒田裕樹 知名度は上がるかな(笑)?
まぁ確かに忙しいですね。まさかこれほど講演会が重なるとは…。
いずれも気を抜かずに頑張りますよ(^_^)v
ふとかつ こんばんは。
最近、ますます大活躍ですね!
とうとうカルチャースクールにも進出なさるとは、素晴らしいです。
近い将来、テレビで黒田さんを拝見する日も近いのではないでしょうか?
体に気をつけて、頑張ってください。
ふとかつさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
まさか自分がカルチャースクールで講演できるとは思いませんでした。
テレビなんて夢のような話ですが、地道な活動を今後も続けられるよう頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。
相互リンクのお願い!
ツー 何時もご訪問ありがとうございます!
相互リンクをお願いいたします。
当方は、すでにリンクさせていただきました。
よろしくお願いいたします。

ツーさんへ
黒田裕樹 こんにちは。こちらこそいつもご訪問くださって有難うございます。
相互リンクの件、喜んでお受けしますので今後ともよろしくお願いします。
けいこ こんばんは。
横浜に住んでいますが、関東圏で公演予定はないですか?
私は中高生の頃、歴史が大嫌いでした。
でも、ここ15年ほど「大河ドラマ」を見るうちに、日本史ってすんげいな!って思うようになりました。
もちろん、毎週「平清盛」観ています。
黒田先生の講義は、なんか型にはまっていなさそうで、ちょっと興味があります。
けいこさんへ
黒田裕樹 はじめまして。当講座にお越しくださって有難うございます。
私は平成22年2月以来、年に2回の割合で東京での講演を行っております。
次回は今年の8月か9月上旬頃に開催予定ですが、確定次第ブログ上でお知らせしますので、よろしければ是非ご参加ください。