今回の講座のテーマは「昭和天皇・前編 ~ご生誕から終戦まで」でしたが、いつもの私の講座とは違い、事実に基づく感動的な内容に涙を流される皆様が多くいらっしゃったのが印象的でした。
また、前回(第22回良くわかる歴史講座)にも来てくれた小学生が今回も駆けつけてくれたのが嬉しかったですね。6月3日(日)に予定しております「昭和天皇・後編」でも皆様にお会いできればと思います。
なお、当日の講演の内容については、下記のYouTubeからすべてご覧いただくことができます。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
60名の方がですか^^
黒田さんご自身、十分手応えを感じられましたね^^
次第に参加される方が増えて、今度は
大ホールで講演会が開かれると素晴らしいですね^^
これからも感動の講座を皆さんに提供していってくださいね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、いつもとは異なる内容での多くの皆様のご参加は、主催の皆様のご努力の賜物であるとともに、私にとっても大きな自信になりました。
いつの日か、大きなホールで数百人の皆様の前で講演をしてみたいものですね。
そのためだけというわけではありませんが、今後も地道な講演活動を続けたいと思います。
クラチー おっひょ~!?
さすが我らの黒田先生!
凄い人数が御集りになったんですね!
別の講演では、尊氏さん使用ありがとうございます!
(@皿@;)
学校のことがあったり講演のことがあったりで大変ですね。
中止になってしまったものもあるみたいですが、
お体に無理のないよう、これからも頑張ってください!
クラチーさんへ
黒田裕樹 おかげさまで大盛況でしたよ。
室町幕府ではクラチー画伯の絵画も好評でしたしね(^O^)/
講座には様々な事態が考えられますからね。
これからも体調に気を付けながら頑張ります。
お恥ずかしい!
Sabimama すみません!まさか先生からのコメントとは!!
なおまゆさんから「記事ができた」と連絡があり(以前からコラボの約束)私は全然まとめて無くて、徹夜でしたので、、、昨夜は爆睡してました。先生にアノ意見を頂いて嬉しいです。
福祉関係の仕事ですが、救済措置は昭和初期です(救護法)福祉の完成は日本は遅いです。
武家社会の武士が身分をつくり発展を妨げたのでしょうか?身分は「便利」ですからね。
それを「保護・救済」と唱えた綱吉は凄いです。
時代を否定したのですから。将軍だから自由に言えましたが、他の人なら潰されて終わりでしょう。だから将軍として地位を良い方向に使えたと称賛したい思いです。完璧ではなかったですが、何事も初期の完璧はありません。試みたのが勇気のいることです。有難うございました。先生のコメントを記事に入れさせてください。
Sabimamaさんへ
黒田裕樹 いつも拙ブログへお越し下さって有難うございます。
Sabimamaさんの綱吉公へのお考え、至極ごもっともでしたので、僭越ながらコメントさせていただきました。
仰るとおり、当初から完璧な人間や出来事は存在しません。工夫を重ねながら、少しずつ近づいていくのが当然です。
私のコメントでよろしければどうぞお使いください。また、私の過去記事(第6回歴史講座)もご参考いただいて結構です。
Sabimama ありがとうございました。これから入れさせて頂きます。過去記事は今夜拝見します。出掛けており、お返事が遅れて申し訳ありません。歴史は小説よりも面白いですね。温故知新が好きな言葉です。ドラマよりもニュ~ス!ノンフィクションにかなう小説はありません!
★追伸★お名前を間違えた失礼をお詫び申し上げます。ご指摘を頂き有難うございました。
すみませんでした。訂正させて頂きました。★
Sabimamaさんへ その2
黒田裕樹 お忙しい中、何度もお言葉をいただきまして有難うございます。
仰るとおり、真実に基づいた歴史=物語ほど面白いものはないですね。
> ★追伸★お名前を間違えた失礼をお詫び申し上げます。ご指摘を頂き有難うございました。
> すみませんでした。訂正させて頂きました。★
いえいえ、どうぞお気になさらないでください。
以前に行いました第21回歴史講座をベースにして、より分かりやすく昭和史の真実に迫(せま)れるよう努めますので、ぜひとも多くの皆様にご参加いただければと思います!
第26回「良く分かる歴史講座」
日時:平成24年4月7日(土) 午後2時~午後4時
内容: 「昭和天皇・前編 ~ご生誕から終戦まで」
場所:茨木市福祉文化会館 202号
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(大阪府茨木市駅前4-7-50)
主催:学ぼう会・北摂
後援:茨木市教育委員会





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晴雨堂ミカエル 11日に東京にて天皇制反対のデモがあったらしいです。
それが事実とすれば、浮世離れしたKYとしか言いようがありません。
主義主張のアピールには「最適」かもしれませんが、病み上がりの身体をおして式典に臨まれる陛下を批判する形になり、国民の反感しか生まれない。彼等の「運動」にとってもマイナスなのに、何故わからないのでしょうか。
そもそも、いまどうしてもやらなければならないデモではない。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私もその話は聞いております。
仰るとおり、多くの国民の思いを逆なでするような許し難い行為ですね。
イデオロギー以前の問題です。
4月7日の講演について
白鷺 はじめまして、こんにちは。
4月7日の茨木市での講演会ですが、演題が先帝陛下のご誕生から終戦まで となっておりますが、日本国憲法制定過程についてのお話もお伺い出来るのでしょうか?
ちなみに黒田先生は現行憲法改正を支持しておられますか? 又は護憲、或いは無効/破棄を支持しておられるのでしょうか?
白鷺さんへ
黒田裕樹 はじめまして、お言葉有難うございます。
日本国憲法の制定過程については、今回の前編でも、後日に開催する後編でも直接的には紹介しません。
その代わりといってはなんですが、拙ブログにおける「第22回歴史講座」で詳しく検証しております。
また、憲法改正についてですが、先述の歴史講座で書いているように「公教育に携わり、学習指導要領に基づいて授業を行う」立場としては、憲法の内容が現状と合わなくなっている今では積極的に改正すべきである、と判断しております。
ただし、我が国に生を受けた日本人としての誇りを何よりも大切に考える「一個人」の立場としては、成立の過程において明らかに常軌を逸している日本国憲法を改正することで、逆にその内容を追認してしまうような行為は厳に慎むべきではないかと考えております。
なお、上記の考えはあくまで個人的な意見であり、拙ブログにおいて強要するものではないことを申し添えます。
憲法論議
白鷺
黒田先生、
お返事有難うございます。
ご提示頂きました第22回の講義内容を拝読させて頂きました。先生はお立場上は憲法改正を推進しておられるようですが、講義内容からすると無効論支持のように見受けられます。
ちなみに私も無効論を支持しております。
憲法無効論は現実的ではないと仰る方がよくおられますが、改憲のほうがよほど実現するまでの道のりが長く、現実的ではないと思うのですが、先生は無効論についてどのようにお考えでしょうか?
白鷺さんへ その2
黒田裕樹 拙講座をご覧いただきまして有難うございます。
無効論のみを切り離して考えれば非現実的で法律を無視した手法にも見受けられるのに対して、拙講座で紹介したとおり日本国憲法制定に関する複雑な経緯を考慮すれば、真の独立国となるためにも自主憲法の制定が必要であり、その意味では被占領中に有無を言わさずつくらされた憲法は意味がない、という解釈も決して不可能ではないと思います。
ただし、以上はあくまで「個人的な見解」であり、本来の授業やブログ上で紹介するかどうかは慎重に判断すべきと考えております。
なお、日本国憲法無効論については4月7日の講座とは直接関係がございませんので、これ以上の流れにつきましては恐れ入りますが別の機会に改めて論じさせていただきます。
憲法論議
白鷺
黒田先生、
お返事有難うございました。
先生の仰るとおり、憲法改正の議論をする上で現行憲法の制定過程から審議することが不可避であると思います。
いつか先生と個人的に憲法についてのお話を伺う機会があればと期待しております。
今後も頑張って下さい。
白鷺さんへ その3
黒田裕樹 こちらこそ有難うございました。
もし講座などでお会いする機会がございましたら、その際にでもお話しできるかもしれませんね。
しかし、余(あま)りに多くの案件(あんけん、問題となっていることがらのこと)がご自身に殺到(さっとう)したため、現実には中央の機関として行政や司法などの重要な政務をつかさどる記録所(きろくしょ)や、土地に関する訴訟(そしょう)を扱(あつか)った、旧幕府の引付(ひきつけ)に相当する雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)などを置かれました。
この他にも北条氏を滅ぼした勲功(くんこう)に対する恩賞(おんしょう)を定めた恩賞方(おんしょうがた)や、軍事や警察をつかさどる武者所(むしゃどころ)が置かれたほか、地方にはこれまでどおり国司(こくし)と守護(しゅご)が並(なら)んで置かれました。
また、天皇ご自身が軍隊をお持ちでない代わりに子の護良親王を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたほか、旧幕府の本拠地(ほんきょち)であった関東や東北にはそれぞれ鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)や陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)が置かれました。
後醍醐天皇によるこれらの新しい政治は、幕府滅亡の翌年(1334年)に改められた建武(けんむ)という年号から建武の新政(けんむのしんせい)と呼ばれています。





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オバrev いよいよ建武の新政ですね。
なかなか皆が納得する恩賞とはいかなかったんでしょうね。特に尊氏、楠木正成、新田義貞らに対する恩賞は差があったんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 恩賞の中心は、ほとんどが皇族や公家でした。
武士には高氏などのほんの一部にとどまったことが、後に大きな影響を与えることになってしまうのです。
もっとも、高氏には天皇から「破格の恩賞」が与えられるのですが…。
ぴーち おはようございます!
そうですよね。何もかも自分一人でこなそうとしても、あまりに多くの案件が殺到すれば、対処に苦慮してしまいますものね(^_^;)
この頃から次第に現代に至るまでに継続されている役所が確立されていったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに役所に任せておけば大丈夫ですからね。
自身が優秀であると思う人物は、何もかも自分でやろうという傾向がありますが、それは人間不信にもつながっていますね。
秦の始皇帝などがその例だと思います。
討幕の軍勢が自然と増加していった1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出(だっしゅつ)され、伯耆(ほうき、現在の鳥取県西部)の名和長年(なわながとし)を頼って挙兵(きょへい)されました。この事態を重く見た幕府は、北条氏と姻戚関係(いんせきかんけい、婚姻によってできた血のつながりのない親戚=しんせきのこと)にあった有力御家人を現地へ派遣(はけん)しましたが、実はその御家人こそが足利高氏(あしかがたかうじ)でした。
足利高氏は清和源氏(せいわげんじ)の一族であった源義家(みなもとのよしいえ)の子孫であり、北条氏の御家人の中でも名門の出身でしたが、鎌倉幕府の威信が地に堕(お)ちた現実を見極(みきわ)めた高氏は、幕府に背(そむ)いて謀叛(むほん)を起こすことを決断しました。
高氏は他の反幕府勢力を率(ひき)いて京都へ入り、1333年5月7日に六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅(ほろ)ぼしました。同じ頃、高氏と同じ源義家の血を引く新田義貞(にったよしさだ)も上野(こうずけ、現在の群馬県)で討幕の兵を挙(あ)げて鎌倉へ向かいました。
義貞は鎌倉を脱出した高氏の子の千寿王(せんじゅおう、後の足利義詮=あしかがよしあきら)と合流して、一緒(いっしょ)に鎌倉を攻めました。5月18日には北条氏最後の執権である第16代の北条守時(ほうじょうもりとき)を滅ぼし、22日には得宗の北条高時(ほうじょうたかとき)や内管領(うちかんれい)の長崎高資(ながさきたかすけ)らを自害に追い込んで、源頼朝(みなもとのよりとも)以来約140年続いた鎌倉幕府はついに滅亡(めつぼう)しました。





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サクラ 懐かしい響きです。名和長年。
小学校の時、三つの学校が合同で船上山への登山をしました。御存じかもしれませんが、後醍醐天皇が立て籠もった山ですよ。茶園原という原っぱで肝試しとかしました。巨大な石を山の上から転がして、佐々木清高の兵を殺戮したところです。
鳥取が歴史の表舞台に立つことは稀ですから、こういうのが出てくると嬉しくなります。
ぴーち おはようございます!
足利高氏は、元はと言えば幕府側の人間であって、
幕府からは信頼されていた存在が、突然謀反を起こしたとなると幕府側からすれば、密かに天下人の野望を燃やしていた獅子身中の虫であった訳ですね。
応援凸
サクラさんへ
黒田裕樹 そうですね。
地元が歴史に出てくれば嬉しいものです。
後醍醐天皇が籠られた、というところも一つの名誉ではありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この場合の高氏の立場は、まさに仰るとおりですね。
その中には「源氏の血を引く自分こそが天下人にふさわしい」という自負もあったと思われます。
高氏の決断は決して許されないものではありませんが、こうした姿勢が後々まで彼を「裏切り者」にしてしまうところが歴史の皮肉でもあります。
後醍醐天皇は討幕(とうばく)の計画を二度も進められましたがいずれも失敗され、幕府によって隠岐(おき)へと流されました。なお、1324年に起きた一回目の討幕は正中の変(しょうちゅうのへん)と呼ばれ、二回目の1331年は元弘の変(げんこうのへん)と呼ばれています。
後醍醐天皇が隠岐に流された後、鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)を皇位にたてましたが、後醍醐天皇が退位を拒否(きょひ)されたため、お二人の天皇が並立(へいりつ)されることになり、これが南北朝時代のきっかけとなったのです。
さて、後醍醐天皇が京都から追放されてしまわれたものの、子の護良親王(もりよししんのう、または「もりながしんのう」)が父の意志を継(つ)ぐべく諸国の兵を募(つの)って幕府に抵抗(ていこう)し続けたほか、幕府に対抗する武士団という意味の悪党(あくとう)の一人であった楠木正成(くすのきまさしげ)は、河内(かわち、現在の大阪府東南部)の赤阪城(あかさかじょう)や千早城(ちはやじょう)に立てこもって幕府の大軍と戦いました。
正成はわずかな兵で幕府軍に抵抗を続けましたが、その貢献度(こうけんど)は絶大でした。なぜなら鎌倉幕府は武家政権ですから、大軍で攻(せ)め込みながらわずかな兵の正成の軍勢(ぐんぜい)に勝てないということは、それだけ幕府の威信(いしん)に傷がつくからです。事実、正成がしぶとく戦っている間に全国各地で討幕の軍勢が次第に集まってきました。





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なおまゆ こんばんわ。
いつも有難うございます。
楠木正成・・・。
真の名将にもかかわらず、とりあげられることが少ない武将ですね。
報われることの少なかった悲劇の武将について今は学校で学ぶ機会はないのでしょうか?
是非、その生涯と思想をクローズアップして欲しいです。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 楠木正成は戦前までに名将と称えられてきただけに、戦後の反動がいまだに大きいようですね。
イデオロギーとは全く別の問題で彼を評価すべきですので、私も残念に思っております。
ぴーち おはようございます!
ここでまた「影の重鎮?」後醍醐天皇が
登場してきましたね(^_^;)
彼も相当しぶといイメージがありますが、
彼の味方についた者たちも、性格がしぶとい
人材が集まっていたんですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 後醍醐天皇のしぶとさもそうですが、彼の周りの武将たちもしぶとかったのは、やはり「鎌倉幕府には任せておけない」という拒否反応が強かったからではないかと思われます。
そのしぶとさがやがて大きな影響を与えるんですよね。
1246年、後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が子の後深草天皇(ごふかくさてんのう)に譲位(じょうい)されて院政(いんせい)を始められると、その後に後深草天皇の弟である亀山天皇(かめやまてんのう)に譲位させ、さらに亀山天皇の子の世仁親王(よひとしんのう)を皇太子にされました。
その後、後嵯峨上皇(後に出家されて法皇=ほうおうとなられました)が1272年に皇位の継承者を鎌倉幕府に一任される形で崩御(ほうぎょ)されると、幕府は世仁親王を後宇多天皇(ごうだてんのう)として即位(そくい)させる一方で、次の皇太子を後深草天皇の子である熈仁親王(ひろひとしんのう)に決めました。
要するに、幕府の調停によって後深草天皇の血統である持明院統(じみょういんとう)と、亀山天皇の血統である大覚寺統(だいかくじとう)とが、まるでキャッチボールのように交代しながら皇位につかれることになったのです。
こうした両統迭立(りょうとうてつりつ)が続いたことによって、両統は幕府に働きかけて自己の血統(けっとう)に有利な地位を得ようとするなど、やがてお互(たが)いに激しく争(あらそ)うようになりました。





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来栖 はじめまして。
いつも楽しく読ませて
頂いております。
最近、日本史に興味があり
歴史の本など読むようになりました。
疑問に思うことがあり、
一点質問させてください。
お時間がありましたら、是非
お答えして頂きたく思います。
鎌倉幕府、江戸幕府で武家が
政治を行っている時代で、
公家の人々は具体的に何をやってたん
でしょうか?
どうも、この公家の役割がよくわかりません。
ぴーち おはようございます!
関係が良好なうちは、両天皇もそれなりに
互いの存在を認め合いながら進行出来ていたものの、どちらともなく欲が出て、我を主張し始めるようになると、途端にもろくも関係が崩れ去る。
一方、党派寄せ集めの政党なども直ぐに仲間割れして、内輪もめが絶えず、結果的に国民そっちのけになってしまうのは、世の習いであると言えましょうか。
国民がその道理をもっと理解していれば、知名度の高さだけを売り物にしている様な無能な政治家に一票を投じる事も無くなるのかも知れませんね。歴史を学び、理解していく事が今さらながら大切であると感じます。
やはり上に立つものは、一統であるべきですね。
応援凸
来栖さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへお越しくださって有難うございます。
ご質問の件ですが、公家は鎌倉幕府の当初は西国の政権に影響を持っていたのですが、承久の乱で幕府が西国にまで支配を強めると次第に有名無実化していきました。その後の公家たちは、かつての栄光を懐かしみながら、朝廷の儀式や先例を研究する学問である有職故実(ゆうそくこじつ)の研究を盛んに行うようになります。
江戸幕府の頃も基本的に変わりませんが、徳川家が皇室の影響を抑えるために禁中並公家諸法度によって公家の地位を高めたことで、実権こそなかったものの優遇された傾向にあるといえますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、両統迭立には無理がありすぎますね。
調停を頼まれた形になった幕府もたまったものではなかったかもしれません。
その流れは現代においても同じだというのは私も同感です。
軍役による御家人の負担(ふたん)は大きいものがありましたが、活躍次第(かつやくしだい)では新たな所領を得られるため、御家人たちはそれこそ一所懸命(いっしょけんめい)に務(つと)めていたのです。しかし、時が流れるにつれてこうした「御恩」と「奉公」の関係は崩(くず)れていきました。
当時の武士の社会では一族の子弟たちに所領を分け与えるという分割相続(ぶんかつそうぞく)が一般的でしたが、これを何代も行っているうちに所領が細分化(さいぶんか)して農業収入が減少するのに対して、幕府への奉公が変わらずに続いたため、必然的に困窮(こんきゅう)するようになってしまったのです。
やがて御家人の多くが借上(かしあげ)や土倉(どそう)といった業者(ぎょうしゃ)から借金をし始めましたが、借金を返済できなかった御家人の中には担保(たんぽ)として自らの所領を奪(うば)われてしまう者も現われるようになりました。
これら御家人の困窮をよそに、幕府では執権(しっけん)を務めていた北条氏(ほうじょうし)の嫡流(ちゃくりゅう、正当な血筋を持つ家柄のこと)の当主である得宗(とくそう)の権限が強化されるという得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)が行われたことで、御家人の心が幕府から離(はな)れるとともに、不満が高まっていきました。





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オバrev 確かに、現場の声が届かない政治は見捨てられますよね・・・って、現代の話?(;・∀・)
得宗専制政治って、長男が日本史やっている時に初めて知りました。つまり私が高校の時には知らなかったんです(^_^;)
理科系でしたから日本史を詳しくやったわけではありませんが、日本史の授業はまじめに聞いてたけど私の勉強不足ですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かに現代に通じる話ですね。
現場の声が届かないどころか、頼みもしないこと(=人権救済機関設置法案)もどさくさに紛れてやろうとしていますし。
得宗については、実は私も記憶が薄いんですよ。
社会人としての充電期間が長いと、こんな時に答えられなくて申し訳ないです。
分割相続
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
戦後、日本は、分割相続になりましたが、
やはり、弊害が出ているみたいです。
たとえば、
子供が男子、女子の場合でも分割相続です。
こうなると、
女子は、他家に嫁に行っています。
もし、両親が亡くなった時、長男は、
両親の世話をし、家を守る責任を持っているのに
他家に嫁に行った女子にも、同じように相続されます。
それなら、同じように他家に嫁に行っても
自分の実家に責任を持たないといけないと思うのですが。。
どうも、相続について、権利のみで、責任の所在が明らかになりません。
こういうことが、遺産争いになり、さらに無縁社会になっていると思うのですが。。
ただ、幸か、不幸か、
少子高齢化で、子供がこれから、一人っ子になるので、相続については、分割相続について、問題は、起こりませんね。
ただ、40年後には、日本の人口は7000万人になるので、いったい、どういう社会になっているか
予測できませんが。。
青田さんへ
黒田裕樹 分割相続は一見平等ですが、弊害も大きいんですよね。
かと言って単独相続が万能とは限りませんが、家族を守るという意味では有効かもしれませんね。
仰るとおり、我が国の将来は予測が付かないところがありますね。
ぴーち こんにちは!
確かに分割相続を長年続けていれば、細分化されて
収入は少なくなってきますね。
ある程度、奉公期間というのを設けて、一定の期間が過ぎれば、奉公しなくて済む方法は無かったのでしょうか。或いは収入に応じて、固定された金額ではなく、臨機応変に変動性的な金額を設ける事も無かったんですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歴史上は分割相続がどうにもならなくなってからようやく単独相続に切りかわっていますが、時すでに遅しですね。
制度というものは、いつの世もそう簡単には変えられないという教訓でしょうか。だからと言って現代においても同じことを続けてもらっていては困るのですが…。
室町時代と言えば、幕府(ばくふ)そのものは235年間続いたものの、前半の約50年は南北朝(なんぼくちょう)の動乱期(どうらんき)であり、また後半の100年以上は言わずと知れた戦国(せんごく)の世(よ)といった全く別の時代となってしまっていることが、室町時代の分かりにくさに拍車(はくしゃ)をかけているようです。
これらの原因としてまず考えられるのは、室町幕府(むろまちばくふ)に今ひとつ存在感が見られないことではないかと思われますが、そうなったのにはやはり「大きな歴史の流れ」があり、また歴代の室町将軍が抱(かか)えていた様々な「問題」やあるいは「運命」といったものが我が国のその後の歴史を決定づけたと言えるのではないでしょうか。
我が国の歴史において室町幕府が残した「教訓」を見出(みいだ)すために、当講座では3回にわたって詳(くわ)しく研究していくことにしました。今回は室町幕府の創設者(そうせつしゃ)である足利尊氏(あしかがたかうじ)の波乱(はらん)に満ちた人生をたどりながら、彼の「優柔不断(ゆうじゅうふだん、ぐずぐずして物事の決断のにぶいこと)」が室町幕府を苦境(くきょう)に追い込(こ)んでしまった「歴史の裏事情(うらじじょう)」に光を当てていきたいと思います。





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ぴーち おはようござます!
余りこれまで、室町時代がどれほどの期間に渡って続いていたのかという事を意識していませんでしたが、235年間も続いていたのですね。
江戸時代に匹敵する長さだったとは、驚きです。
何やら波乱に満ちた時代でもあった様で、興味が湧いて来ました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
江戸時代に匹敵する長さを持っていながら、なぜか全体像をつかみにくい室町時代。
その理由は、やはり「分かりにくさ」だと考えております。
今回は室町時代初期限定ではありますが、少しでもその謎を解き明かすことができればと思っております。
しきしま しきしまです。
大変、ご無沙汰してしまって。
また、気軽にコメントしようかと思っています。
(私のブログも近々復活しようかとも思っています。)
歴史を動かすものは、技術の進歩による社会の変革や、国際情勢の変化や国内政治の行き詰まり、などの環境の変化も大きな要因だと思っていますが、今回は人、それも人の性格がテーマになっているんですね。
「歴史は人が創るもの」とも言いますから、彼の性格が歴史に果たしてしまった意味など、注意深く追って行こうかと思います。
また、よろしくお願い致します。
しきしまさんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。
貴ブログの復活、楽しみにしております。
仰るとおり、「歴史は人がつくる」以上、主要な歴史上の人物の本来の性格も大いにかかわってきますので、今後ともご注目いただければと思います。
歴史上で一番分かりにくいとされる室町時代について今回から3回に分けてご紹介していくわけですが、足利尊氏の場合はむしろ幕府成立後の方がややこしいかもしれません。幸いにもご参加の皆様からは「分かりやすかった」というお言葉をいただきましたので、今後も精進を重ねていきたいと思います。
次回の歴史講座(第30回)は5月26日(土)に「室町幕府の教訓その2 ~やり過ぎた父子・義満&義教」と題して行う予定です。
なお、今回の講座の内容は15回に分けて4月2日よりYouTubeによる映像とともに更新を開始しますので、どうぞご期待下さい!
最後に講座の様子を撮影した画像を追記にて紹介しますのでご覧ください。
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ぴーち こんにちは!
足利家の発祥の地がお膝元にありながら、
例外に漏れず?
足利氏の事も、室町時代の事も全く
よく分かっておりません(^^ゞ
これからの更新でまた勉強させていただきたいと
思いますm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そういえばお膝元ですね。
足利氏に関しては必ずしも良い話ばかりとは限らないとは思いますが、今後の展開にご注目いただければと思います。
―平清盛を正しく知らずして日本国史を真には理解できない。我が国繁栄(はんえい)の礎(いしずえ)を築いた時代と先人の叡智(えいち)を学び、混迷する現代からの脱却(だっきゃく)への指針とする―
日本の歴史文化研究会
「平清盛の真実 ~開拓者がもたらした我が国の繁栄」
日時:平成24年4月1日(日) 午前9時30分~11時40分
(午前9時より受付開始)
場所:明石市生涯学習センター(JR・山陽明石駅前)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金500円
E-mail:ishimotoh★kcc.zaq.ne.jp (※★=@です)





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