ブログ開設3周年記念講演でもある次回(第29回)は「室町幕府の教訓その1 ~尊氏の優柔不断」と題して、室町幕府が我が国に残した様々な教訓を第31回まで3回にわたって探っていきます!
我が国の歴史の中で一番分かりにくい時代といえば、やはり室町時代でしょう。幕府そのものは235年間続いたものの、前半の約50年は南北朝の動乱、後半の100年以上は言わずと知れた戦国の世といった全く別の時代となってしまっていることが分かりにくさに拍車(はくしゃ)をかけているようです。
これらの原因としてまず考えられるのは、室町幕府に今ひとつ存在感が見られないことだと思われますが、そうなってしまったのにはやはり「大きな歴史の流れ」があり、また歴代の室町将軍が抱(かか)えていた様々な「問題」やあるいは「運命」といったものが、我が国のその後の歴史を決定づけたと言えるのではないでしょうか。
最初の1回目となる次回は、幕府の創設者である足利尊氏の波乱に満ちた人生をたどりながら、彼の「優柔不断(ゆうじゅうふだん)」が室町幕府を苦境に追い込んでしまったという「歴史の裏事情」に光を当てたいと思います!
ブログ開設3周年記念講演
第29回「黒田裕樹の歴史講座」
「室町幕府の教訓その1 ~尊氏の優柔不断」
日時:平成24年3月24日(土) 午後6時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第5研修室
(いつもの第3研修室ではありません。ご注意ください!)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料(カンパを受け付けます)
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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
そうなんですよね。
室町時代って、長い割には、イマイチ、
よく、わからないし、面白さを感じないんですよね。
歴史ドラマでも、
たいてい、『源義経』か、『戦国時代』に集中しています。
以前、NHKの大河ドラマで、『太平記』をやってましたが、やはり、わかりにくくて、観るのを
やめてしまいました。
この室町時代を黒田先生の鋭い包丁のような切り口で、どう料理してくれるか、楽しみです。(●^o^●)
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、分かりにくさもあって面白くないと思われがちですが、実は歴史の教訓の宝庫でもあります。
そのあたりを詳しく紹介できれば良いですね。
20万ヒット
takechan0312 20万ヒットおめでとうございます。
5万にやっと手が届きそうな私ですから、
20万になるにはあと10年あっても無理かな?
いつも歴史の解説ありがとうございます。
ところで期限付きのお仕事でしたが、
来年はどうなりそうですか?
教師の仕事が続けられることをねがっています。
takechan0312さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
私もブログを始めた当初は20万どころか10万HITすら夢のまた夢でした。
時の流れは早いものですね。
教師の仕事については、縁があれば今後も続けられると思います。
太平記。
晴雨堂ミカエル 大河ドラマでは、主役に真田広之氏、宮沢りえ氏に後藤久美子氏と、大変話題になりました。
私はけっこうこの時代が好きですね。隙だらけ、穴だらけといった感じで。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰られた大河ドラマは未見ですが、結構有名なようですね。
確かに隙だらけです。そのあたりを紹介できればと思っております。
遅ればせながら
クラチー 絵が載ってるぅ~!
そして三周年&200,000HIT、
おめでとうございます!
これからも黒田節で講演頑張ってください!
(>o<)
オバrev 確かに尊氏のことはあまり知らないですね。
むしろ3代将軍の義満の方が有名じゃないでしょうか。
その尊氏にスポットライトを当てるとは、ちょっとマニアック?^_^;
でもここに今我々が学ぶべき教材が埋まってるんですね。楽しみにしてます(^O^)
クラチーさんへ
黒田裕樹 ハイ、今回も喜んで掲載させていただきましたよ(^ω^)
次回の講座ももちろん「黒田節」全開で頑張ります!
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり尊氏は今一つ印象が薄いんですが、それだけに(?)教訓の宝庫となっています。
あまり知られていない歴史にスポットを当てるのも講演の醍醐味ですからね。ご期待ください!
源氏や北条氏(ほうじょうし)、あるいは足利氏や徳川氏といえども、当時の国民(あるいは武士)の支持を受けていたとはいえ、平家と同じ武家政権であることに変わりはありません。それなのに彼らの政権は平家と違って長く続きました。
その理由として考えられるのは、それぞれの政権が前任者の「失敗」を教訓としてきたということです。その具体的な内容について今回は省略しますが、人間というものはそもそも失敗から成長するということを考えれば、それも道理ではあります。
ということは、人間は前例のないことに関しては戸惑(とまど)うとともに、それが失敗すれば大きく反発(はんぱつ)するものでもあるということです。我が国で初めて武家政権を樹立した「開拓者」であった平家は、それゆえに滅亡するという「悲劇」を経験することになったのですが、彼らの足跡(そくせき)はその後の我が国の繁栄(はんえい)には絶対に欠かすことができません。
我が国の歴史における大きな流れに偉大(いだい)な功績を残した平家の生き様を学ぶことで、私たち自身が人生の幅(はば)を広げるとともに、次代に未来を託(たく)せるような日々を送りたいものですね。
(※第28回歴史講座の内容はこれで終了です)





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、私の仮説ですが、
源頼朝は、源義経のような平家にたいする怨念が
小さかった気がします。
・ 源頼朝の流人の生活は、自由で、比較的安定していた。(罪人の島流しのようなものではなく)
・ 平家打倒を祈ると同時に、藤原秀衡の調伏もしている。
・ 平家打倒の動きは、慎重で、鎌倉幕府の組織創りのほうを優先していた。
挙兵して間もなく、侍所を設置している。
・ 平家打倒の途中で、同族の源義仲、源行家も討伐している。
もちろん、流罪にされたので、平家にたいして、
悪い感情は、有ったとは思います。
頼朝の行動を観ていると、平家打倒よりも武家政権の樹立の尽力している気がします。
それにしても、源頼朝の行動が恐ろしく、冷静で、慎重で、確実なことで、驚かされます。
ぴーち おはようございます♪
なるほど、武士の創世記頃は失敗を教訓にし
次の成功に結びつけながら、ゆっくり、力強く
押し進んで行ったのですね。
その頃の蒸気機関車の様な歩みから、現代のような超特急的な流れになるまでは、失敗を教訓にし、既存概念に固執する形で積み重ねられて来た様々な教訓が生かされ続けた時代であったかも知れませんが、
現代はその既存概念を破るような新たな発想力や行動力が求められているという新たな打開策が求められ始めている時代に私達は義経の様な指導者を求めれば
良いのでしょうかね・・・?
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 「政治家」の頼朝の行動は、仰るとおり恐ろしく冷静ですね。
恐らくは石橋山の戦いで生命の危機にさらされたことが彼をそうさせたのかもしれません。
一方、猪武者で打倒平家しか考えられない義経は常に戦いの中にありました。
二人はそれぞれの役割を受分に果たしたということなのでしょう。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
今は明らかに非常時ですので、義経のような大胆な行動力が求められることは間違いないでしょう。
しかしながら、国家百年の計を見極める眼力が彼にあるとは思えません。
だとすれば、義経をコントロールできるだけの頼朝のような存在が同時に必要なのかもしれませんね。
そして、その二人の活躍を一挙に行えるのが信長といったところでしょうか―。
抱き上げられた安徳天皇が「私をどこへ連れて行くのか」と問いかけられると、二位尼は涙ながらに「弥陀(みだ)の浄土(じょうど)へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じました。
その後、平家一門の女性や武将たちも安徳天皇に続くかのように次々と入水(じゅすい)しました。生き残った武将も源氏に捕えられてそのほとんどが処刑され、平治の乱の勝利以来、約25年続いた平家による政権はついにその幕を閉じたのです。
「祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。娑羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂(つい)には滅(ほろ)びぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ」…。
哀切(あいせつ)極まる平家の最期に、私たちは万感(ばんかん)胸に迫(せま)るものがありますね。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
歴史ドラマでは、平家は「悪」または「ヘタレ」
のような描かれ方をしますが、
この前の講座で、平家と「現代の政治家」を比較して
黒田先生が、『それは、平清盛が可愛そうで、化けて出てくる。』(笑)とおっしゃっていましたが、その通りですね。
なぜなら
この頃には、源平合戦では、政治のパワーバランスは
源氏が勝っても、平家が勝っても
武士の政治の表舞台に立つ流れは、創れていて
その下地を創ったのは、平家だからです。
ただ、ここで、思うことですが
私の大好きな奥州藤原氏は、中央政権とは、独立して、
東北において、武士による独立した政権を源氏、平家よりも、かなり、前に実現していたのは、
凄いと思うのですが、いかがでしょうか。
平家が奥州藤原氏に背後から、鎌倉を攻めるように要請していたそうですが、
もし、その要請に奥州藤原氏が源氏を攻めていたら、また、歴史は、変わっていたでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、武家政権の下地をしっかりと作ったのは平家でした。
現代の多くの政治家のように「何もしていない」わけではありません。
奥州藤原氏ですが、確かに一地方政権を築いたものの、その形態はかつての平将門のようなものに過ぎません。
独立政権を築いた点は高く評価できるものの、やはり平家や源氏のように朝廷を抱き込む形が重要ではないかと思われます。
奥州藤原氏が源氏を攻めていれば確かに歴史は変わっていたかもしれませんね。しかし、史実で義経を滅ぼして自滅したように、仮に源氏を倒しても、大きな敵がいなくなった平家によって奥州藤原氏が滅ぼされた可能性もありそうです。
もっとも、平家が源氏や奥州藤原氏を倒せたとしても、武家の気持ちに応えられないままではおそらく平家の政権は長続きできなかったでしょう。
なおまゆ こんばんわ。いつも有難うございます。
壇ノ浦は急流です。河の流れのように潮が流れます。西流れ、東流れ、そして潮流の早さが電光掲示板で表示されている海の難所です。小さな船でよく戦ったなと思える場所です。先帝祭というのが毎年ゴールデンウィークに開かれますが、殆ど雨です。平家の無念の雨なんだろうと、地元では思われており、哀愁があります。
平家という存在が日本人の心に与えた影響は大きいと思わざるを得ません。
そういえば、信長のテーマソングは『敦盛の舞』でした。彼も、心に大きな虚無を育てていたんでしょうね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 さすがなおまゆさんはよくご存じでいらっしゃいますね。
おっしゃるとおり、平家が我が国に与えた影響は果てしない大きいと思います。
義経同様に「滅びの美学」とでもいうべきなのでしょうか。
そういえば・・。
晴雨堂ミカエル 30年ほど前の科学番組にカール・セイガン博士の「コスモス」があります。そこで安徳天皇の最期が描写されていました。服装考証は正確。
セイガン博士は日本に関心があったらしいですが、なぜ源平合戦をとりあげたのか、不思議です。
ぴーち おはようございます!
私が小学生の頃の事ですが、修学旅行の際に
バスガイドさんがふと歌って教えてくださった
「青葉の笛」という歌が今でも耳に残っています。
http://www.youtube.com/watch?v=VBT7IFzi9eA
物悲しい曲調ですが、私にとっては何故か大切な曲です。
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、私も初めて知りました。
平家の哀れな物語は外国人の心をも動かしたのでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 物悲しさの中にも美しさが感じられる名曲ですね。
平家の栄枯盛衰が長く私たち日本人の中に生き続けている証(あかし)だと思います。
それに比べ、本格的な海戦の経験のない源氏の不利は大きく、さすがの義経も苦戦するかと思われたのですが、いざフタを開けてみれば義経の完勝で終わりました。1185年3月に行われたこの戦闘は壇ノ浦の戦いと呼ばれていますが、なぜ義経は未経験の海戦で勝つことができたのでしょうか。
実は、義経は平家の軍船の操縦者(そうじゅうしゃ)をことごとく射殺(しゃさつ)することにより、敵の船を動けなくしてしまったのです。船の操縦者は殺してはいけない、というよりそもそも戦いに参加していないというそれまでの常識を打ち破る、まさに「コロンブスの卵」的な義経の柔軟(じゅうなん)な発想でした。
船が動かなくては勝てるはずがありません。平家側の武将も奮戦(ふんせん)して一時は義経を追いつめ、この際に義経が八艘(はっそう)飛びで難を逃(のが)れるという場面もありましたが最終的には敗北し、あれほどの栄華(えいが)を誇(ほこ)った平家にも最期の時がやって来ようとしていました。





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オバrev 本来なら平家圧倒的有利な戦いだったはずなのに、それをものともしない義経のしたたかさには驚きです。
まあ、有頂天になるのも分かりますね^_^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義経のしたたかさによる大勝利でしたね。
しかし、平家を倒して有頂天になったと同時に自分の役目が終わったことにまでは気づけなかったのでしょう。
もっとも、どんな人間にも予測不可能だとは思いますが。
ぴーち おはようございます!
コロンブスの卵ですか(笑)
確かに後から考えれば、そんな事誰でも
出来そうだと思う人もいらっしゃるでしょうが、類稀な発想力と未知の方法を
先陣切って行う事は相当な覚悟も居る事だったでしょうし、義経だからこそ、行えた事だったのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、抜群の発想力と行動力を誇る義経だったからこそ可能だったと考えられますね。
それゆえに平家は何ら対抗策を打つことができずに滅亡し、義経もその独断専行な行動が理解されずに没落していくのが何とも言えないものを感じます。
ところが、ここでも義経が自慢(じまん)のスピードで奇襲をかけてきました。1185年2月、義経は嵐(あらし)の中を少数精鋭(しょうすうせいえい、人数は少ないが優れた者だけをそろえること)の騎馬武者(きばむしゃ)とともに荒海(あらうみ)を馬ごと船出しました。通常なら難破(なんぱ)してもおかしくないのですが、歴史の神様を味方につけた義経は、嵐を追い風に極めて短時間で上陸を果たすことができました。
上陸した義経軍は、海岸伝(づた)いに浅瀬を馬で渡って屋島の背後に回り、安徳天皇がおられた御所(ごしょ)を急襲しました。またしても義経に不意をつかれた平家は、天皇を死守するためにも逃げる以外に選択肢(せんたくし)がなく、結局屋島も放棄せざるを得なかったのです。なお、この戦闘は屋島の戦いと呼ばれています。
ちなみに、源氏の武者である那須与一(なすのよいち)が、平家が所有する船に立てられた日の丸が描かれた扇(おうぎ)の要(かなめ)を見事に射抜(いぬ)いたという平家物語の有名なエピソードはこの際のものです。このエピソードこそが、後の平家の運命を物語っていたように思われてなりません。





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晴雨堂ミカエル 義経は与一に向かって「当たるわけないやろう」と小バカにしたらしいですね。
それでムッとして見事あてたらしいですが、ついでに扇をもっていた美女も射殺したとか。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、物語の背景にはそんなブラックな面もあったんですか。
美女の射殺から壇ノ浦の奇策も読めたかもしれませんね。
義経の存在
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
冷静に考えると
平家の戦略は、全く、間違ってないですね。
まさに「勝利の方程式」だったと思います。
平家が弱いのではなく、
「源義経」の戦術が、誰も考えつかない
「まさか」の捨て身の戦術の連続だったんでしょうね。
これは、仮説ですが、
源義経のこの戦術は、彼の能力もさることながら
「自分の身は、どうなってもいいから、平家だけは、何があっても倒したい。」という積年の執念を感じます。
逆に言えば、義経のゴールは、『平家打倒。』
だったのでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、平家の戦略はオーソドックスであり、決して間違っておりません。
義経の執念深さには脱帽ですね。それだけに、平家を倒したことで「燃え尽きた」のかもしれません。
ぴーち おはようございます!
人間、何が怖いと言っても
死をも恐れぬ捨て身の行動に出ることが
一番怖いですよね。
どんな手を使っても相手を倒してやろうと
する気持は、スポーツにも似ているように
思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、スポーツにおける「執念」には凄まじいものがありますよね。
ましてや命がけとなれば、義経の凄みを感じることができるようです。