1184年3月、一ノ谷(いちのたに、現在の神戸市)に陣を敷(し)き、山を背後に軍勢を構えた平家は、正面から攻めてくるであろう源氏を迎え撃(う)つべく待っていたのですが、義経は山の頂上から、急斜面(きゅうしゃめん)のため常識では通れそうもない坂を馬ごと一気に下り、平家の背後を奇襲(きしゅう)しました。
不意をつかれた平家は大混乱となり、一ノ谷を放棄(ほうき)して西へ敗走せざるを得ませんでした。義経の思わぬ奇襲によって源氏が勝利を得たこの戦闘は一ノ谷の戦いと呼ばれ、また義経が急坂を一気に下った戦いぶりは、後の世に「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」と称えられました。
義経には常識にとらわれない思考能力と、一瞬のスピードで決着をつけようとする天才的な戦術に関する能力がありました。義経という戦争の天才を得た源氏と、人材不足に悩む平家との大きな差が、それぞれの今後を象徴していました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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なおまゆ こんばんわ。いつも有難うございます。
義経は軍事の天才ですね。
軍事の才能を持つ者は一民族の中に非常に少ない、というようなことを司馬遼太郎氏が言ってました。
確かに義経以降では、楠木正成、足利尊氏、豊臣秀吉、大村益次郎くらいしか思い浮かびません。
平家の中に、そういう人がいれば、歴史は変わったでしょうね。
政治より軍事が歴史を動かしたという点は、日本史上稀に見ることなんでしょうか?
オバrev 戦力を活かす優れた軍師の存在が、まさに勝敗を左右しましたね。
しかし義経は天才ではあるけど、どこかで兵法を学んでいると思うのですが、それはどこですかね?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義経のような軍事の天才が平家に存在しなかったことが明暗をくっきりと分けましたね。
軍事によっていったん歴史が動いたのは、戦国武将にも結構いそうですね。
しかし、義経も含めて最終的には政治力が歴史を動かすことが多いようです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、軍師の存在は大きいですね。
義経の場合は鞍馬山の修行から脱出して奥州藤原氏に拾われるまでの行方が今一つはっきりしていません。
この頃にゲリラ的なのを含めた様々な経験を積んだことが、軍事の天才につながったのではないでしょうか。
ぴーち おはようございます!
一つ疑問なんですが、
これまでの非情な采配ぶりにより
平家は恨みを買われても当然の事だとは存じますが、
頼朝も義経も一度は清盛に命を助けられた身の上。
その恩義は、一度も感じることが無かったのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 生命を助けられたといっても、父親や兄弟を殺されていますからね。
やはり「恨み」の方が上だったと思われます。
ただし、頼朝は処刑を免れるきっかけになった池禅尼の直系となる平家一族だけは保護していますね。
義経ジンギスカン説。
晴雨堂ミカエル 判官びいきと、戦術が似ている事から、義経ジンギスカン説が真しやかに根付いていますが、この寓話の出どころは御存知ですか?
現実問題、仮に義経が蒙古へ逃れたとしても、あの戦バカでは大帝国樹立は無理でしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 ジンギスカン説の出どころまでは残念ながら存じ上げませんが、確かにありえない話ですね。
義経とジンギスカンとでは性格が違いすぎますし。